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人を幸せにする人になろう

久津川車塚2017年8月22日(火)最高気温34度

◆参加者 城陽市担当者、工藤さん、自分、大澤(市大M1)、園原(立命M1)、山本(立命4)、 置本・山口・山崎(立命3)、池口(同志社3)、上野(奈良大2
◆17-1(後円部西端)トレンチ。(1)渡土堤の礫斜面の仕上げと、(2)再拡張区の掘り上げ、の2課題。本日最終状況は右写真。
◆(1a)渡土堤(文化庁『発掘調査の手引き』ではそうなってる?)の礫斜面は、裾部の見極めを進めるが、少しはずしすぎたかもしれない。ヒタヒタの周濠内で、元位置に近い裾部の石も濠内堆積土に全面覆われることはあるだろう。下の土や石の並びを基本としながらも、西壁を割っており、確かめられた地山の上がりとも整合するように止める必要がある。まあ、なんとか整える。渡土堤の現状肩部から水平距離で1.6m+30㎝くらいの範囲。
◆(1b)昨日の続きの、屈曲部やや西寄りの礫裾部という特定範囲から、
鳥形埴輪片がさらに 下 位から出てくるので、これを清掃し写真撮影、標定点を打ってフォトスキャン用撮影。
◆(1c)次に、谷部の後円丘葺石と礫との接合部分の検討と仕上げ。葺石材が礫の下から顔をのぞかせているところもある。大きな石があり(松井石)、後円部基底石であり谷筋でもあるコーナー石と考えてきたが、さらに陸橋側に比較的大きい石がもう1列通ってくる。平面的に葺石と葺礫が分けられているのかもしれないし、あとからの礫を(もう1列とした)葺石の上に一部重なるように並べているのかもしれない。結局は、その中間というか、「もう1列」の石にかかるような位置からの礫を残すようにした。
◆(1d)およそ礫を残す平面はこれで確定として、礫面としての整えに
かかる。人数を投入して礫 の清掃をしながら、礫面の起伏を面的に整え、上に載っていると思われる転落礫を見極めながら削いでいく。なお未完了。+礫のない上部の再清掃も。
◆拡張部。朝、オジサン2人が一気に堆積土までの黄色を飛ばす。真っ黒の堆積土上層、それを下げると灰色粘土。基底石がきれいに続き、落ちていかない!。ま、ここまでですね。堆積層上面でいえば10㎝程度北に下がっているんですけど・・・。とにかく、後円部のいちばん下の裾よりも、この堤の突き当り部分の基底石の方が大きいしきれいに並べている。ここの方が見た目がより重要なんでしょう。

◆若衆で作業を進めてきた。M1の2人が葺礫の囲を見定め、人数を入れて礫出し作業に入ったので、手が空いて拡張区に来ていたこともあり、堤上面にづいたこともあり、仕上げを指示。で、慎重に下げていくと、埴輪片がパラポラと出てくる。堆積土中で上げていたが、途中で、これ水鳥だ、ということになる。まとまって出てくるので、堤上面にも水鳥を置いていたと考えられ、埴輪を残すようにし、終了時点までに、だいたい出切る。礫もあって、それも残すようにした。とはいえ、基部がまわるように残っているわけでもないし、礫がまとまって残っているわけでもない。
◆礫は、後円部基底石のキワも、もし礫があれば残りやすいと思われるがなく、堆積土が直接裾  部に入り込んでいるので、堤上面は礫敷でなかったと考えていい。埴輪片のあたりの残した礫も、積極的に水鳥を押さえるといったような使い方をしていたといえるようなものではなく、上からの転落なんだろう。
【追記】なんだか皆お疲れ気味・・・。夜更かしせず、体を休め、9月14日まで持続するように。
〔来客〕ゴリゴリ館の博物館実習生。
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酔っぱらって

◆何もできません。メールも見ません。

久津川車塚2017年8月21日(月)最高気温36度 第4週

◆参加者 城陽市担当者、工藤さん、自分、大澤(市大M1)、園原(立命M1)、前田・宮下・山崎(立命3)、池口(同志社3)、中谷(京都橘3)。寝冷え1名。
◆17-1(後円部西裾)トレンチに戻る。(1)陸橋側面の礫精査による除去整除にM1の2人があた る。(2)先週火・水の雨による流土のほじり清掃、(3)先週火・水の雨による南壁崩壊部の壁塗り。(4)拡張区について、法面を垂直に落とし、北行30㎝程度掘り進む。が、基底石1個が新たに検出されたが、陸橋は落ちない。10時休みに、どうしても学生らが拡張して陸橋の幅を確認すべきと主張し、北へ1mの拡張区を設定し、掘削にかかる。
◆(1)礫はほぼ想定ライン(西壁断面と谷部の大石で結ばれるライン)くらいまでは、堆積土上に礫が乗り、除去する。そのあと、ここまでの作業により高くなった裾部礫面について、下を確かめつつ、最上層の礫から取り除いていき、しっかりした礫斜面になるよう仕上げ作業を進める(途中)。また谷部寄りのところに水鳥埴輪の破片のまとまりがあり、上の作業が進められないので、16時以降、清掃し、出土状況の写真撮影、標定点3点を打った上でフォトスキャン用の写真撮影。そのあと埴輪を取り上げる(これも途中)。
◆(2)おおむね完了。
◆(4)東西で1.5m~2mの長さ、北への奥行1mの拡張区を設定し、工藤さんと若衆3人で表土から掘削開始。本日終了時点で2mは下がったかな。もう1mくらいか。明日は、陸橋の北へのオチが確認されるであろう。
〔石材調査〕橋本さん
〔来客〕徳満さん(アクエリアスありがとうございました)、三浦さん(差し入れありがとうございました)。

丹波・市島の酒と柏原で買ってきたアゲなどで

◆もひとつ。酒器は黒江の漆器です。
◆市島です。三ツ塚廃寺と天神窯跡。山の家「神地寺会館」に泊まって、窯跡の調査と須恵器などの整理をしたのはいつだったか。その頃は、京都から福知山に行き、下って市島に行っていました。

日本酒「雑賀」

◆うまいらしいです。

円応教

◆途中、へんな建物がある。以下ウィキ

 兵庫県氷上郡井原(現・丹波市)に生まれた深田千代子(1887年(明治20年)10月3日 - 1925年1月6日)を教祖とする。千代子は1919年7月16日、大阪市で数え年33歳のときに天啓を受け奇蹟霊験を現し、「神の使いしめに生まれ、世の中の道具になる」という教義の元に宗教活動を開始、修法という霊導の道を遺し39歳で夭逝(円応教では「ご昇天」と呼称)、教えは弟子により継がれ、1925年2月9日、円応法修会が設立され、佐々木俊蔵が会長に就任。1931年2月6日には、円応修法会と改称。深田家の菩提寺であった妙心寺派霊雲寺の住職・林誠道が会長に就任。1933年には円応報恩会が設立、伴仲実襄が会長に就任する。
 1948年(昭和23年)6月10日、教祖深田千代子の長男である、初代教主となる深田長治(1908年3月25日 - 1976年4月3日)により両会は合併され、教祖の法名「慈照院圓應智覺大姉(じしょういんえんのうちかくだいし)」より「円応」の二字をとり円応教として設立。長治は管長として就任後、千代子の遺文をもとにした教典及び教義書籍を発刊、仮本殿建設等、本部の整備などに尽力した。長治の死の1年後の1952年7月7日に宗教法人として認可される。現在の二代教主は、長治の長男の深田充啓(1937年2月27日 - )で、本部の整備充実を一層進めるとともに、教祖生誕百年祭の挙行と全県布教に尽力。
 天地同根、物心一如、万教一元、生活即宗教をうたい、「世の中の道具になる」の本義に基づき、個人の霊力の自覚と発現につとめ、教祖の霊導を信じて、個人の霊力の無限・崇高・偉大性を自覚反省懴悔する「修法」を行い、個人と社会との幸福なる生活を実現することを目的としている。教義の5項目として、まと・誠・愛・善・陰の行がある。
 円応教でいう修法とは、教祖によって考案された衆生の救済方法の一つである。この修法の中では、手の先をはじめとして身体全体に霊の感応が現れる身体的表現とともに布教師の口頭から発せられる言葉を「教文」といい、有意的懴悔、片言片句、半意識、無意識など多くがあり、また、現在意識・潜在意識を中心に歴史的潜在意識や霊的感応、阿頼耶識の発現により過去・現在・未来までが示現されるという。
 教勢    教会数 152教会 布教所数 173拠点 布教師数 3,078名 信者数 452,727名 (平成27年度版宗教年鑑より)

2017年8月19日、丹波・柏原

◆金曜日18:10頃に現場を離れ、山陽道で加古川へ。紀州・黒江で買った黒牛をもっていく。竹の伐 採で、両方の手の指がむくんだ感じ。
◆翌日は、丹波・栢原へでかける(昔は柏でなく栢と書いたという)。木の根橋というのが シンボルのようで、その一画に観光案内所がある。そこから町をぶ~らぶ~ら。織田信長の弟が3万6千石で入り、断絶。そのあと信長次男の宇陀の大和松山藩の織田家が、お家騒動を経て、栢原に2万石で移ったらしい。長屋門と幕末の御殿が残る。この陣屋跡は国史跡。目の前に資料館があり見学する。日中、猛暑で、陣屋跡の見学は見送り、食事に行く。
◆そのあと、石生の水分かれに。これ兵庫県人としては、加古川と由良川の分水嶺が平野にあるという、有名な話なのだが、実際に行ったことがなかった。考古学的にも、瀬戸内と日本海側を山越えなしに行き来でき、文化的にも重要ルートとされる。
◆漠然とした知識では、平坦な平野で、この水路が加古川へ、この水路が日本海へ、と思っていたが、そうではなかった。東側の山塊の扇状地が平野に張りだし、春日七日市に近い西の南北丘陵の先端に取り付く地形になっていて、扇状地中央ラインが南北の分水嶺になっている、というものだった。
◆谷を入ったところが公園整備され資料館もある。水場があり、小さい子供らが、セッティングされた水場で気持ちよくはしゃいでいる。人工物を作らずとも、夏、谷川で遊べばいいのに。孫が遊びに来たら、こんなところに連れてこないようにしよう。
◆資料館はちゃんとしていて、人もいて、解説してくれる。結局のところ、この扇状地を貫く河川があり(流路は人為的かな)、その分流の水口がこの谷部にあるので公園としたのだろう。水利的には意味はあるわけだが、分水嶺としては、石生の平地部の方が本筋だろう。公園は遊び場とし、平地の空き家などを利用して資料館とする方が意味があるように感じる。

中高6年間

◆朝MBSラジオで、日本の小学生の学力は高いのだが、中高6年のあとは世界的にぐっと落ちてしま うのだとか。詰め込みも必要、小学生の間はそれでいいのかもしれない。しかし、そこからさらに自分で物事を考えていく中高、そこのところの学習がひとまずダメってことですよね。文科省は対策を講じるべきでは。何でダメになるのか。そして右の新聞記事のような児童虐待の記事を読んでいると、小学校もそのうち崩れてくるのでは。
◆例えば理学部生物学科の学生がいると。みんながそうでないわけだが、生き物の名前など知らないらしい。生き物そのものに興味がない人がいるということです。外国の(と一般化できるかどうかは別にして)学生らは、いろんな生き物のことをよく知っているのだとか(これ先生の話だったかな)。
◆別件ですが、飛び級は制度的にもできあがっているのですよね。それは修得主義。15回の授業を厳守しろ、というのとは相反するのでは。
◆カケの大学設置に関しては保留になったのだとか。稲田も逃げ切り、萩生田等も逃げ切り、カケが採択されたと聞かされるまで、お友達のカケのオッサンが獣医学部新設にむけて動いていることを知らなかったとノタマウ首相も、内閣改造で逃げ切りと、沈静化させるわけにはいかない。が、この情勢の中で、結局は獣医学部を認めるんでしょうね。文科省も、首相の圧力とかがないんだったら認めなかったと、ちゃぶ台をひっくり返す、なんてことはよいしないんでしょう。強姦罪で逮捕状が出た人物を放免にして、これも逃げ切る菅。
◆教科書採択に圧力をかける政治家。この行為が犯罪にならないのだろうか。ヘイトスピーチを制限する法律は、どの範囲まで対象としているのだろうか。

過去2年の現説資料

◆を改めて出しておきます。







 





















 

久津川車塚2017年8月18日(金)最高気温34度

◆参加者 城陽市担当者、工藤さん、自分、長友、大澤(市大M1)、吉村(立命M1)、川北(京大M1)、泉(奈良大4)、相馬(近大4)、佐藤・中野・山口・山崎・宮下(立命3)、置本(立命3new)、池口(同志社3)、中谷(京都橘3)、上野(奈良大2)。
◆朝、雷雨。少し小雨になった7時前に、学生らはシートを掛けに行ってくれたようである。城陽に向かう時間帯の奈良盆地もけっこう雨だったが、9:00頃にはほぼ上がる。今日は、立木の伐採が入っており、朝から業者が稼働、ほぼ午前いっぱい作業。なので、17-1トレは水抜きだけ。
◆17-2トレ。すべて昨日の続き。(1)やはり上段裾部は攪乱溝が通る。その上に残る葺石面についても、最終的な検討により石の除去、残存葺石面の確定作業が必要。(2)攪乱溝を下げる。埴輪多量、蓋形もころころと。葺石側だけでなく、礫敷面側も攪乱の落ちがほぼ決まってきたが、攪乱壁面の検討含め、最終確定が必要。(3)礫面。ひたすら・・・。ただし南側はまばらで、埴輪の残り具合からしても礫面がかなり失われている可能性がある。(4)埴輪は新たに3個が検出でき、くびれ部の屈曲が明瞭となった(110度くらいかと、と)。昨日は屈曲ポイントに大型埴輪としたが、その南隣のものとをあわせた2個で屈曲部を形成している。検出面はほかよりやや低い。(5)埴輪から西のテラス面は下り斜面をなし礫面は失われている。本日、ほぼ埴輪付近から西側のテラス面、中段斜面上部まで、墳丘残存面まで掘り上げてくれた。
◆10時以降、人が増え、上部への拡張設定をする。現調査区で推定できるくびれ部ライン(中段肩部・埴輪・上段葺石面)、それと斜面上方で(途中の大穴より上の、後円部および前方部斜面の本来の姿が残っている部位)予想ポイントを決め、両側70㎝ずつ、径1.4m幅の仮調査区を設定し、表土掘削にかかる。その排土置き場のため、いまの排土で土嚢を作りL字に積み上げた(まだ低いが)。
◆伐採作業終了後、昼直前に17-1トレンチのシートを開ける。南壁の一部が崩落している。石は全般的に大丈夫ながら、下部のものには泥がかぶる(昼休み中にジョロで水をかけ、やれる範囲できれいにしておいた)。
◆昼休み、これまでに出た遺物の台帳づくり。
◆13:00、文化庁視察。
◆拡張部では竹の根との合戦。打ち取った首級がごろごろと下の調査区に落ちていき、危ないところだったが、人が密集するテラス面でも見事に人のいないところを落ちていった。大穴際で、表土直下で黄褐色砂質の盛土風のものがすぐに出てきている。葺石はほぼ落ちて残ってないのかもしれない。谷間の良好な葺石をできるだけ斜面上方まで出すという風景をめざしたが、残念ながら葺石はほぼ落っこちてないという予想。
◆第4Qの大半は不在。 新たな状況の写真を撮れていません(また来週)
〔石材調査〕橋本さん(写真)
〔来客〕伊藤さん

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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