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人を幸せにする人になろう

2017年7月22日、大学設置基準

◆15コマ、あるいは14コマ時間増か、という昨日の議論に対し(ブログとしてはアトサキになっています)、立命館の先生の論文があると聞 いていて、反論できるかと読んでみたわけです(これは昨日)。で、それを自分でメモにしないと認識できないので、まとめていたんですが、午前中にやってたファイルが保存されていない!。あ~あ、でももう作り直す気力もないし。
◆外国では13コマくらいということ、それを例えば1科目2単位という場合、それに要する学修には試験が含まれるという一般的理解からすると、授業を15週でやるというなかに試験をやっていい、ということが導けるのは確かなんですが、それでは現行の理解を覆せないな、と。無理やな、と。むろん、どこが大事か、といえば、自主的学修時間が1科目2単位に対して60時間もありゃしないというところにあり、そこをどうするかが根本問題だとする、中教審答申は正しいわけです。が、自主的学修時間をもたせるためには、それだけ丁寧に授業を構成・工夫する必要があり、1科目のコマ数も欧米並みに13コマでいい(時間じゃない、修得が大事)との発想があってもいいわけだが、そこは文科省がそういう方針に転換したわけではない。
◆もちろん、大学設置基準にコマ数が書き込まれているわけでなく、中教審答申でやれ(30時間の確保は答申であって設置基準ではない)、というのもヘンな話ではあるのだが、試験時間をのぞいて30時間という看板は下ろしていないわけだ。もひとついえば、35週の学期を定める大学設置基準、15週の前期と15週の後期の授業にプラス5週という大学設置基準は、文科省の理解も、まあ一般的な理解でも、15週の授業のなかでの定期試験でなく、その外のプラス5週のなかで定期試験をする、と解されるわけです。なかなかそこは崩せないわけです。
◆なので、中教審答申の、1科目2単位であれば、試験を含まず30時間(15コマ)を確保せよ、ということに、決まり上は反論し得ないな、と。なので、15コマとするか、14コマで時間数を増やすか、とならざるをえないのは必然だな、と。昨日は、根本的に対抗できるかも、と思ったが、そうはいかないということを学習した。
◆まあ、しゃーない。それなら、形式的な整序とともに、教育の実を上げるために、その枠内で、数だけヤル、時間だけヤル、でなく、工夫し泳いでいく手段を考える(ウソとかだますという意味ではない)、というのが、やるべきことかな、と。
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うそつき(3)

◆もうひとりのおっさん。まあ、これだけデマカセで適当な発言をしていれば、24日にはボロが出るか。 毎日新  聞さんがまとめたものです。
◆なぜ1月4日に、内閣府は「広島県・今治市」に区域を限定したのか。赤旗の記事です。

 その理由を山本氏は6月13日の参院内閣委員会でこう説明しています。「今治市の提案は事業の早期実現が見込まれると判断した」「今治市からは必要な教員も確保しているというように聞いている」


◆新設を考える京都産業大学と支援する京都府に対し、今治市は、うしろめたいので某大学とハッキリさせず、でも教員は確保していると伝え、そのことが実現性が高いとして、地域を絞る根拠とした、というデタラメもはなはだしい説明。カケの名前を伏せる今治市、今治市がタイアップしている某大学では教員確保も目処がついているという説明で「今治市」を指定する、この無茶苦茶な論理。それこそが、名前を出すまでもなくカケだった、カケ獣医学部新設にむけて最大限の努力を内閣府が傾けたことを示すだろう。カケで決まりじゃなかったという辻褄合わせが、この行政的に突っ込みどころ満載の現在の説明を形成している。
◆決まる前から、ボーリングを開始し、四国電力への電気工事を今治市が肩代わり。土地を無償譲渡させ、経費100億円近くを愛媛県と今治市が負担するバックアップ体制を強く指示、カケ負担額とも調整。山本のおっさんが、獣医師会に乗り込む前に決定済み。そこまでの話が整って、「決まりや」と伝えに言ったわけでしょ。決まるかどうか制度的にはわからん話について、ここまでの話を整えていることが、官邸の責任で絶対やるから試算しろ、と命ぜられたことを示している。

うそつき(2)

◆しかし12月2日の不開示に対して、おかしいやろと叩かれ、あるとせなしゃーないという事態とな る。さてどうしようか。
◆陸自にはないと説明した手前、破棄しとけ、として「わからなかったが探したら統幕にあった!」、「発見した!」と公表。それが2月7日。
◆そうすると、なんでそんなもんがわからへんねん、という批判が当然来る。
◆「大発見!」は12月26日という。朋美ちゃんが統幕での発見の報告を受けたのが1月27日という。こういう筋書きはどこまでほんとうなのか。管理上の不備や隠そうとした行為などは担当の責任で、大臣は被害者、みたいな神話を捏造し、2月7日、公表しますと公表したのかな。そして、けしからんことだから、監察をしますとポーズを取る。
◆さて今問題になっている、陸自内のファイルの存在を、陸自は大臣に伝え、これは「個人が収集したデータ」で陸自の公文書じゃないことにし、開示しないという方針とする会議にも大臣は列席していた、という問題。これは何なんでしょうね。
◆3月15日に陸自にもファイルがあるという報道がなされたように、内部告発により、新聞へリークされ、その存在はいずれ報道されるという事態となり、これにどう対応するかという会議だったのかな。で、事務次官が基本方針を出し、公文書としてはないのだ、あるとされているのは「個人の収集物」(こんなんで世の中通るのか)、だから非開示(あるとは認めない)。「またまた大発見!」と発表する必要はない。大臣はないと通してくれて問題はない、と。
◆新聞の解説によれば、内部監察の方向が、関係担当者の処分という原案になっていて、そりゃないやろ、お前知っとったやないか、と反発が強まっているんだとか。大臣をかばい、現場サイドの処分で乗り切ろうという方針に、現場サイドは反旗をひるがえした。2月15日の会議に「お前、おった」、「いやそんな会議知らんわ、ファイルの存在の報告もない」との水掛け論が続くのか。が、もはや大臣を続けられないだろう。内部が守ろうとしないだろうから。
◆それと、問題の渦中の3月、南スーダンからの撤退への反発もあるらしい。一定の任務を果たしたとして、命じられた側のホコリや安全への配慮じゃなく、何かあっても困るし即撤収、と官邸サイドで即決実施されたことへの「不信感」が根っこにあるらしい。

うそつき(1)

◆うそを重ね自爆してくれ。
◆南スーダン問題は、安保法案を通し「かけつけ警護」任務を付与した、政治的重要問題である。9月に情報開示請求があり、12月2日に防衛省が「陸自が廃棄した」として不開示決定する。もちろん、その後「発見」する陸自および統幕内にそれをまとめたファイルがあることなど、幹部はみな知っているだろう(そもそも「廃棄」したなら罪に問われるべき問題だろう)。
◆12月時点で、幹部は、お飾り大臣には「廃棄」した、と説明していたか、あることを伝えた上で、大臣もないことにして開示に対応しないという方針決定にかかわったのか。が、「廃棄しました」、「そうですか、それなら開示もなにもないですね」というマンガみたいな話が通るのだろうか。普通は「そんなことないやろ」、「それで通ると思ってるのか」、「もっとましな説明を考えろ」、というのが大臣でしょうね。そんなアホではさすがになかろう。
◆2月に陸自にあることを大臣に伝えたという、今度の報道からすると、それまで、大臣は「破棄」して陸自にはない、という幹部のウソを呑むしかなかったのか???。統幕に上げたファイルがあることは大臣も幹部も共有しながら、これは出すわけにはいかないから、あるはずの陸自で「破棄されてしまっていました」と、12月頭はひとまずそういう対応を選んだのか。

デタラメから取り返しのつかない事態に

◆6度も達成が延期される目標。当初より、基本的に景気とやらは横ばいの維持がせいぜいであっ て、目標が間違っていると、まともな人は思っていた。案の定、どんなにやっても物価上昇せず、達成時期を先送りする・・・。目標が間違っているのであり、それを見直すべきだ、と普通の感覚ならそうなるし、まして町内会のドンではなく国の中央銀行の問題であって、そうならなければおかしいでしょ。なぜ、そもそも目標がおかしいやろ、とならず、達成時期を先送りするという、破局の先延ばしがマカリ通るのか。
◆いわゆるPDCAサイクルなど、あったもんではない。間違っていました、と絶対言わない。正しい、うまくいっていないだけ、もうちょっと頑張れば改善する、というもはや根拠なき空想、絵空事の領域である。それを止められない。それが何をもたらすのか。再び失われた10年といった、おそるべきツケが残るのではないのか。

行基の水賀池

◆大阪の歴史演習で、行基の生誕地のあたりのことをやっている方がいます。昔の地図で考えるよ う、お願いしていますが、こないだの発表時に南海道の話が出て、そういえば和泉郡の条里の時に、足利先生の論文を読んであれこれやってたなと。もう忘れたが、上の斜め道がそれで、石津川の条里につながっていって、駅家も想定されているんだったと思う。
◆それと、やはり谷がうねうねと入り込んでいて、そういう地形を考えてほしいと。でもたぶんこれは訓練がないと無理なのかな。いま5分ほどでやってみました。オレンジは土塔なんですけど、こんなんも道路を置いて考えてみる必要がある。そして行基の作った水賀池。谷に挟まれた幅のある台地部に水を導入するためなんでしょうね。
◆ああ、あしたの授業の準備をついにせず・・・

これは面白い

◆『古墳時代の考古学』をぱらぱらやっていると、興味深い写真が目につきました。 まあ、知らん ことがいっぱいですね。勉強せな。

敏達の没年

◆いきなり書き殴ります。欽明の没年は記にない。紀では欽明32年571年4月に没し、9月に檜隈坂合陵に葬る、とある。なぜ、記にないんでしょうか。
◆敏達は欽明15年554年に「皇太子」になったというが、敏達即位前紀には欽明29年568年となっている。つじつまがあわない。欽明15年554年の「皇太子」は、552年の箭田死没により大兄になったことを記すと考えてはいるが(箭田は藤ノ木古墳に埋葬)。
◆欽明は4月に死んで敏達は翌年4月に即位。(A)敏達は8月に死んで9月には用明が即位、用明は2月に死んで崇峻は8月に即位、崇峻は11月に死んで12月に推古即位。(B)推古は3月に死んで舒明は翌年1月に即位、舒明は10月に死んで皇極は翌年1月に即位。Aが自然だと思う。Bはへん。敏達即位はもっとヘン。欽明没年の内に即位していないし、翌年正月にも即位していない。
◆で、敏達没年は、紀では14年8月(585年)とするが、記は「甲辰年4月6日」で584年とする。決定的におかしい。これが解けないだろうか、というのが出発点。誰か解いているのでしょうか。たぶん584年なんでしょう。敏達元年は太歳からも572年とされているが、正しいのでしょうか。欽明没年が記にないこととも関係するように思います。ひとまず、敏達は571に即位したとすれば、1年ずらして、問題はなくなるのだが。
◆用明そして崇峻の没年は記紀で一致する。敏達没年が1年早まるとすれば、用明は584年即位、585・596、そして587に没、と考えた方がいいのかもしれません。
◆ああ、何をやっているのでしょうか。

尊皇后曰皇太后

◆これ決まり文句だし『日本書紀』で皇后の指定はない。が、欽明即位前紀には、安閑正妃である春日山田皇女に政務を委ねたいとする即位前の「欽明」の意向が書かれている。まあ、へんな話です。これが史実かどうかではなく、政務をやってくれと頼んだ相手が、宣化の正妃でなく、安閑正妃なのである。年長ということはあるかもしれないが。宣化は即位したのでしょうか。

ひどいですね

◆日本は遅れすぎ。
◆話は変わりますが、本日は「海の日」。朝、旭が丘の住宅地を通っていると、国旗を出している家が1軒。まあ、ましですね。祝日に日の丸がどこでもはためいているようなら、おそろしい。そうではないのは、まともです。稲田家では出してるんでしょうね。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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