人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
そんなんで
◆会場500キャパが満杯。申し込みが260名だったか。あとは市民大学の科目になっていたようで、1日目と、2
日目午前前半までは、市民のみなさんも200名以上が参加していたこともあってギューギュー。
◆なんでお前がおんねん、というところだが、お城の仕事も増えてきているという以上に、遺跡の種別は違えども、解体とか修理といった文化財の残し方にかかわる研究会として、とても興味深いものでした。解体が絶対ダメというわけではないし、できるだけのことをやって積み直したものがニセモノと断じることもできない、ということも学びました。
◆情報交換会も200。文化庁関係者や講師は別にして、一般参加者はランダムに席を割り振られ、途中、まあ入り乱れてくるわけですが。脇田修先生と同じテーブルでした。あと姫路市の城郭研究室長さんや、石川県の金沢城・兼六園管理事務所長さんと、話をしたりする。そもそもこの研究会
は、文化庁が音頭を取って全国の城郭をもつ自治体担当者を集めるものだが、それだけでなく、石垣修復を担う石工さんも加わっているものです。石工さんらの会員も100名を超えるとのこと。また、この研究会を通して研修を重ねていることが、仕事を請ける条件的なものになっているのだとか。そして空間文化のMさんとか、施工管理するコンサルさんもメンバーとなっている。
◆2003年にスタートして今回が14回目とのこと。記念物課は『石垣整備の手引き』を2015年に刊行している。
◆なんでお前がおんねん、というところだが、お城の仕事も増えてきているという以上に、遺跡の種別は違えども、解体とか修理といった文化財の残し方にかかわる研究会として、とても興味深いものでした。解体が絶対ダメというわけではないし、できるだけのことをやって積み直したものがニセモノと断じることもできない、ということも学びました。
◆情報交換会も200。文化庁関係者や講師は別にして、一般参加者はランダムに席を割り振られ、途中、まあ入り乱れてくるわけですが。脇田修先生と同じテーブルでした。あと姫路市の城郭研究室長さんや、石川県の金沢城・兼六園管理事務所長さんと、話をしたりする。そもそもこの研究会
◆2003年にスタートして今回が14回目とのこと。記念物課は『石垣整備の手引き』を2015年に刊行している。
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2017年1月19・20日金沢の石垣研究会
◆昨年、金沢城の石垣を見せてもらった時から、年明けの研究会に来ませんか、とお誘いをいた
だいていて、その趣旨文を読むととても興味深い内容だったので、参加する。前日の18日の夜に入り、翌日午前は、金沢の町歩き。去年は東側の伝建の方を歩いたので(夜ですが)、足軽資料館、高田家跡、野村家跡、長町武家屋敷休憩館、金沢市老舗記念館、前田土佐守家資料館と、長町一帯を歩きました。そして、にし茶屋街に足を延ばした後、会場にむかう。
◆大阪城の豊臣石垣でご一緒させていただいている土木工学の西形先生、奈良大の坂井さんの基調講演2本、2日目の金沢城・盛岡城・岡山城・和歌山城、そして熊本城の報告、すべてが充実していて、ぜんぜん専門外であるが、石垣の保存にどう取り組んできたか、ということを知るには、とても有意義なものとなりました。書き始めると、学んだことはいっぱいなので、とても無理です。が、どことも都市公園として市長部局が公園として管理しており、文化財側で調査をやり、両面で進めていこうとなってきたのは、最近のことなのだそうです。それでも石垣修理は早くから行われてきたと思うが、そこでは文化財があまりかかわらない形で進められてきたようだ。そして史跡整備をして活用するということは、どうやら平成以後、つまりフルレキ以降とのこと。とはいえ、その段階では、発掘調査をするということが、そもそも認知されなかったらしい。なんでせなあかんの、と。
◆金沢城でもそうであったとのこと。そして石垣に対する発掘調査のノウハウも最初はない。し
かし発掘すると、いろんなことがわかってくる。そして危なそうな石垣をどう手当てしていくのか、ということについても、従来からの?解体修理について作法が確立していくとともに、考古の側の調査が蓄積される中で、解体せずに手当てしていく選択が、それぞれのところで石垣に向き合うなかで模索されていった様子を知ることができた。今回のテーマは、現状把握をちゃんとやって、それにもとづき(ハラミなどの要因の追及、いまどのくらい実際に危ないのかを客観的に捉えるのはまだまだ課題にせよ)手当の方法を選択していく、というものであった。紙上参加の甲府城の話もよかった。日常のメンテをやっていくことが、経費のかかる大掛かりな修復等をせずに維持できていくことにつながる(ディスカッション時の西形先生の話)、ということも。
◆大阪城の豊臣石垣でご一緒させていただいている土木工学の西形先生、奈良大の坂井さんの基調講演2本、2日目の金沢城・盛岡城・岡山城・和歌山城、そして熊本城の報告、すべてが充実していて、ぜんぜん専門外であるが、石垣の保存にどう取り組んできたか、ということを知るには、とても有意義なものとなりました。書き始めると、学んだことはいっぱいなので、とても無理です。が、どことも都市公園として市長部局が公園として管理しており、文化財側で調査をやり、両面で進めていこうとなってきたのは、最近のことなのだそうです。それでも石垣修理は早くから行われてきたと思うが、そこでは文化財があまりかかわらない形で進められてきたようだ。そして史跡整備をして活用するということは、どうやら平成以後、つまりフルレキ以降とのこと。とはいえ、その段階では、発掘調査をするということが、そもそも認知されなかったらしい。なんでせなあかんの、と。
◆金沢城でもそうであったとのこと。そして石垣に対する発掘調査のノウハウも最初はない。し
さむい
◆センター試験の期間、寒波到来で、たいへんな寒さでした。年寄りにはきつく、ついつい縮こま
ります。試験に従事された全国のみなさま、ほんとうにお疲れ様でした。
◆翌日、立命館。京都も雪が降ったので、車で行くのはやめる。西院まで行ってタクシーに乗りました。天気は晴れ、雪がとけつつありましたが、大通りはともかく、大学に近づいていく大きくない道や路地などはシャーベット状態でした。昨年内14回で、新年1回で終わりのはずなのですが、1回、わたしのボケで休講になってしまったので、来週の23日が最終回となります。そんなんで、いつもは14時にはうちの大学にたどりつき、研究会となるのですが、この日は14:30となりました。
◆翌日、立命館。京都も雪が降ったので、車で行くのはやめる。西院まで行ってタクシーに乗りました。天気は晴れ、雪がとけつつありましたが、大通りはともかく、大学に近づいていく大きくない道や路地などはシャーベット状態でした。昨年内14回で、新年1回で終わりのはずなのですが、1回、わたしのボケで休講になってしまったので、来週の23日が最終回となります。そんなんで、いつもは14時にはうちの大学にたどりつき、研究会となるのですが、この日は14:30となりました。
2017年1月15日奈良歴史ネットワーク
◆代表から8月の陵墓シンポの時に頼まれ、この内容でということだったが、その後もほかの講演会に来られ、この話も・・・、とリクエストに応じていると、やや膨らみ気味。案の定、13:45から、15:15くらいと言われていたが10分ほどオーバー。また最後のあたりはけっこうスライドを飛ばす。
◆この団体、京奈和による平城宮跡の保存や、若草山の、なんでしたかモノレールでしたか、保存運動に熱心に取り組んでおられる。ちゃんと認識しておりませんでした。すいません。
◆平城宮京域については、平城宮跡の地下を通す案が撤回され、2005年に、平城宮跡の約1km東側にずらし、平城ニュータウン付近から新大宮駅付近を通過して奈良市八条まで至る約5kmをトンネルにする案となったそうです(ウィキによる)。なお、景観を考慮したトンネル案により経費はかなりのものとなり、地元負担が600億円となるそうです(だったか)。現時点では、いちおうの決着を見ているようだが、これだけの経費をそうそう出せるはずもなく、事業は止まっている状態だそうです。
◆250人ほどのみなさんに来ていただき、会場は満杯でした。
◆この団体、京奈和による平城宮跡の保存や、若草山の、なんでしたかモノレールでしたか、保存運動に熱心に取り組んでおられる。ちゃんと認識しておりませんでした。すいません。
◆平城宮京域については、平城宮跡の地下を通す案が撤回され、2005年に、平城宮跡の約1km東側にずらし、平城ニュータウン付近から新大宮駅付近を通過して奈良市八条まで至る約5kmをトンネルにする案となったそうです(ウィキによる)。なお、景観を考慮したトンネル案により経費はかなりのものとなり、地元負担が600億円となるそうです(だったか)。現時点では、いちおうの決着を見ているようだが、これだけの経費をそうそう出せるはずもなく、事業は止まっている状態だそうです。
◆250人ほどのみなさんに来ていただき、会場は満杯でした。
2017年1月14日考古研の先輩との呑み会
◆イタリアからZさんが帰国し、T大学Kさんからメールが入り、梅田ででの飲み会に誘われる。翌
日、奈良歴史遺産市民ネットワークの講演があって、資料はぎりぎりでもいいからと言われ、それでも印刷があるし、なんとか12日に出したものの、パワポの準備が終わるかなと思っていた。が、なんとかセンター試験1日目だったこの日、準備に目途がついたので参加することに。
◆考古業界のKさんはともかく、ZさんやFさんやMさん、そしてSさん、最後に会ったのはいつだったか。平成3年より前だろう。四半世紀以上!。学部時代からすればみな年齢が30年加算され・・・。画像をかなり落としますので、お許しを。
◆グランフロントのところで2次会。あっという間に時間が過ぎ、高安までしか帰れず、タクシーで帰る。
◆考古業界のKさんはともかく、ZさんやFさんやMさん、そしてSさん、最後に会ったのはいつだったか。平成3年より前だろう。四半世紀以上!。学部時代からすればみな年齢が30年加算され・・・。画像をかなり落としますので、お許しを。
◆グランフロントのところで2次会。あっという間に時間が過ぎ、高安までしか帰れず、タクシーで帰る。
正月鬱
◆なるものがあるそうですが、結構、毎年、そんな感じです。前はもっと躁鬱がはげしかったのですが、さすがにいまはムラがあまりなくなっております。規則正しい生活、太陽を浴びること、体を動かすことが、大事なのだそうです。
◆年末にしゃかりきで片づけておくべきことを、ペルーに行く日の午前まで(前の晩は徹夜)やり、ようやく飛行機に乗りました。帰ってきて、3日までは実家まわり、4日から出勤し、ボケ~としているのでなく、最低のことはやっておりましたが、この間できていないことをバッサバッサ片づける気力がなく、無気力な状態でした。それでも溜まっているメールをぜんぶ処理できてはいませんが、きんきんのことはやり、週が開けると学期が再開し、授業も始まりました。昨日の授業も、心がそんな状態なので、話をするパワーが落ちていて、元気ないな~、と思われるようなしゃべりだったと思います。
◆しかしそれでも動いていくものは動いていく。昨日の5限は博物館実習展の展示替え。これも、年明けから10日の展示替えにむけて、履修生にいろいろ指示すべきだったのですが、これも十分にやれてないまま直前となりました。祝日の9日には、理系チームとは、この日にやらなしゃーないやろと12月最後に伝え、彼らはやってくれました。で当日、朝から文系チームもパネル作りに取りかかりました。午後の早い時期、大学史に電話し、今日の展示替えは無理かもしれませんと伝えたような状況で、きびしいのではないかと思っておりました。しかし、文・理それぞれ10人あまりの各チームが、それぞれしゃかりきで最後の文章の点検をやっては打ち出しパネル貼りを進めていくと、けっこう積み上がっていくものです。むろん、それまでに仕上げ近くまでもってきてくれているからこそ、であることは言うまでもありません。で、その進捗を見て、これはいける、5限の18時までを含めて作業をすればできると踏み、大学史に再度連絡し、やりますと伝え、恒藤班にも予定通り撤収をする連絡をしました。最終的に、昨日は20:30までかかりましたが(理系はより早くに完成)、ひととおりの展示を終えました(本日11日に不足の3枚を加えましたが)。
◆履修生達と展示作業をやって、こっちも元気をもらいました。理系のある学生は、パネルボード6枚分のパネル展示ではありますが、貼り進めできあがってくるのを見て「感動してます」と。後期、取り組んできてもらったことが形になっていくことが、やはり履修生に達成感をもたらせてくれます。例年以上に十分なことをやってやれなかったのですが、昨日の彼ら彼女らの最終的な追い込み作業の姿に、改めて市大生の力そしてパワフルさに感動しました。
◆年末にしゃかりきで片づけておくべきことを、ペルーに行く日の午前まで(前の晩は徹夜)やり、ようやく飛行機に乗りました。帰ってきて、3日までは実家まわり、4日から出勤し、ボケ~としているのでなく、最低のことはやっておりましたが、この間できていないことをバッサバッサ片づける気力がなく、無気力な状態でした。それでも溜まっているメールをぜんぶ処理できてはいませんが、きんきんのことはやり、週が開けると学期が再開し、授業も始まりました。昨日の授業も、心がそんな状態なので、話をするパワーが落ちていて、元気ないな~、と思われるようなしゃべりだったと思います。
◆しかしそれでも動いていくものは動いていく。昨日の5限は博物館実習展の展示替え。これも、年明けから10日の展示替えにむけて、履修生にいろいろ指示すべきだったのですが、これも十分にやれてないまま直前となりました。祝日の9日には、理系チームとは、この日にやらなしゃーないやろと12月最後に伝え、彼らはやってくれました。で当日、朝から文系チームもパネル作りに取りかかりました。午後の早い時期、大学史に電話し、今日の展示替えは無理かもしれませんと伝えたような状況で、きびしいのではないかと思っておりました。しかし、文・理それぞれ10人あまりの各チームが、それぞれしゃかりきで最後の文章の点検をやっては打ち出しパネル貼りを進めていくと、けっこう積み上がっていくものです。むろん、それまでに仕上げ近くまでもってきてくれているからこそ、であることは言うまでもありません。で、その進捗を見て、これはいける、5限の18時までを含めて作業をすればできると踏み、大学史に再度連絡し、やりますと伝え、恒藤班にも予定通り撤収をする連絡をしました。最終的に、昨日は20:30までかかりましたが(理系はより早くに完成)、ひととおりの展示を終えました(本日11日に不足の3枚を加えましたが)。
◆履修生達と展示作業をやって、こっちも元気をもらいました。理系のある学生は、パネルボード6枚分のパネル展示ではありますが、貼り進めできあがってくるのを見て「感動してます」と。後期、取り組んできてもらったことが形になっていくことが、やはり履修生に達成感をもたらせてくれます。例年以上に十分なことをやってやれなかったのですが、昨日の彼ら彼女らの最終的な追い込み作業の姿に、改めて市大生の力そしてパワフルさに感動しました。
同じように書いていきたいところだが
◆そうもやっておれないので、以下、その後の概略。
◆12月26日は1日クンツゥルワシ。午前、夏休み中だが、小学校の発表会。学校から遠いところの子は来ていないが、卒業した6年生を含め、各学年が集まり、作文の読み上げ、寸劇、歌。それから博物館の見学(この日は掃除の日)。夕方近くに遺跡現地(紀元前8世紀だったか)。夜はまた呑み会。そこでNHK特集のDVD。これはわかりやすい。なぜにここクンツゥルワシの博物館ができあがったか。東大大貫先生が苦労してそこまでのことをやり、地元の人たちが運営するに至った経緯、といったことがよくわかる。
◆12月27日は、オート3輪でサンパブロに出て、カハマルカ行き乗り合いバスに乗る。途中、エンジン不調で下ろされ、乗り換える。カハマルカでは、まず昼食を取り、アルマス広場あたりから、アタワルパ皇帝が幽閉された小屋というものがある入口を見るなど(入っていない)して、少し町歩きをしてから、タクシーでオツゥスコ墳墓遺跡(横穴墓です)に。市内に戻り、17時発18:20着の飛行機でリマ。ペンション当山にまず入ろうとするも空港からのタクシーが大渋滞で動かず。そのまま、この日、リマ在住の協力隊員等との呑み会会場であるワカプクジャーナ遺跡脇のレストランへ。賑わっていて、予約なしで入れると思いきや、少し待つ必要があり、ライトアップされた遺跡外周をめぐり、戻る。4人が集まり、われわれ3人あわせ7人で楽しく語らう。このうち高橋さんが勤務するパチャカマック遺跡を、明日午前に訪ねることが決まる。
◆12月28日は、南へ向かいパチャカマック遺跡へ。これはなかなかのもんです。遺跡博物館ができたところなのだが、また新たにリマ市内にある考古学・人類学・歴史学国立博物館の、考古部門を独立させた国立博物館を建設することが決まったとのこと。高橋さんの案内でまず博物館で説明を聞き、続いて遺跡を解説してもらう。通常の観光客は入れない修復作業をやっているインカの神殿についても、所長のOKをもらって入れてもらった。
◆リマに引き返し昼食、そして国立博物館。インカ時代はほんの最後の方の部屋で、はるかに古くから多くの文化が展開したことがよくわかる。そしてワカプクジャーナを再訪。英語とスペイン語の解説グループに分かれ、時間をずらしながら見学ツアー。遺跡脇のレストランで1杯ひっかけ、リマの中心セントロへ。もう日が暮れている。それからスーパーに行き、みやげものを買う。レストランで晩飯。そして空港へ向かい、充実したペルー旅行が終わったのでした。リマ発は29日の1:10。
◆12月26日は1日クンツゥルワシ。午前、夏休み中だが、小学校の発表会。学校から遠いところの子は来ていないが、卒業した6年生を含め、各学年が集まり、作文の読み上げ、寸劇、歌。それから博物館の見学(この日は掃除の日)。夕方近くに遺跡現地(紀元前8世紀だったか)。夜はまた呑み会。そこでNHK特集のDVD。これはわかりやすい。なぜにここクンツゥルワシの博物館ができあがったか。東大大貫先生が苦労してそこまでのことをやり、地元の人たちが運営するに至った経緯、といったことがよくわかる。
◆12月27日は、オート3輪でサンパブロに出て、カハマルカ行き乗り合いバスに乗る。途中、エンジン不調で下ろされ、乗り換える。カハマルカでは、まず昼食を取り、アルマス広場あたりから、アタワルパ皇帝が幽閉された小屋というものがある入口を見るなど(入っていない)して、少し町歩きをしてから、タクシーでオツゥスコ墳墓遺跡(横穴墓です)に。市内に戻り、17時発18:20着の飛行機でリマ。ペンション当山にまず入ろうとするも空港からのタクシーが大渋滞で動かず。そのまま、この日、リマ在住の協力隊員等との呑み会会場であるワカプクジャーナ遺跡脇のレストランへ。賑わっていて、予約なしで入れると思いきや、少し待つ必要があり、ライトアップされた遺跡外周をめぐり、戻る。4人が集まり、われわれ3人あわせ7人で楽しく語らう。このうち高橋さんが勤務するパチャカマック遺跡を、明日午前に訪ねることが決まる。
◆12月28日は、南へ向かいパチャカマック遺跡へ。これはなかなかのもんです。遺跡博物館ができたところなのだが、また新たにリマ市内にある考古学・人類学・歴史学国立博物館の、考古部門を独立させた国立博物館を建設することが決まったとのこと。高橋さんの案内でまず博物館で説明を聞き、続いて遺跡を解説してもらう。通常の観光客は入れない修復作業をやっているインカの神殿についても、所長のOKをもらって入れてもらった。
◆リマに引き返し昼食、そして国立博物館。インカ時代はほんの最後の方の部屋で、はるかに古くから多くの文化が展開したことがよくわかる。そしてワカプクジャーナを再訪。英語とスペイン語の解説グループに分かれ、時間をずらしながら見学ツアー。遺跡脇のレストランで1杯ひっかけ、リマの中心セントロへ。もう日が暮れている。それからスーパーに行き、みやげものを買う。レストランで晩飯。そして空港へ向かい、充実したペルー旅行が終わったのでした。リマ発は29日の1:10。
12月25日クンツゥルワシの夜は更けて
◆レベッカさんの店に、やはり海外青年協力隊でサンパブロの専門学校で栄養教育に入っているハ
ルナさんが入ってくる。もうひとりサンパブロに男の隊員がいるのだが不在で、今日の晩は、ハルナさんも加わって、博物館脇の部屋でクリスマスの宴となる。こちらではチョコラータ?を作り、パウンドケーキで祝うのだとか。ワインも買ってくれている。それにレベッカさんの店でクスケーナビールも買い込む。
◆ペルーの海外青年協力隊はシニアも含め94人?が、いまいるようである。いろんな職種で、あちこちにいるのだが、サンパブロ2人、クンツゥルワシ1人の3人は、比較的近傍にまとまっている方だと。いろんな話を楽しくしたが、多くは忘れてしまった・・・。途中、ポッキー問題、環状線問題に(クイズです)、文系3人が頭を絞りました。気がつけば2:30。
◆ペルーの海外青年協力隊はシニアも含め94人?が、いまいるようである。いろんな職種で、あちこちにいるのだが、サンパブロ2人、クンツゥルワシ1人の3人は、比較的近傍にまとまっている方だと。いろんな話を楽しくしたが、多くは忘れてしまった・・・。途中、ポッキー問題、環状線問題に(クイズです)、文系3人が頭を絞りました。気がつけば2:30。
12月25日いよいよクンツゥルワシへ
◆リマ15:35発、いよいよ北部カハマルカである。カハマルカは、ピサロがやってきたとき、
ここでインカ皇帝が捕らえられ幽閉され、その部屋いっぱいの黄金と引き換えに解放される約束が反故にされ、殺害された町である。皇帝位継承をめぐる分裂もあったらしい(勝利した直後だったよう)。クスコの陥落はその後。
◆16:30過ぎに到着。虹が出ている。そこからタクシーでアルマス広場へ行き、米ドルをソルに換金し、またタクシーで乗り合いバスの乗り場へ。ペルーでは米ドルでも支払いできるところが多く、基本はドルをもち、適宜ソルにすればよい。とはいえ、ほとんどの支払いは照屋さん任せである。
◆17:30バスは出発し1時間40分かけてクンツゥルワシにむかう。いわゆるバン、10人程度を積んで
サンパブロ・クンツゥルワシ方面に向かう。サンパブロの町あたりから、それぞれの家の前とかで、少しずつ客が降りていく。クンツゥルワシ村に着いたのは19:10頃。ちなみに、この村の元の名はラコンガ村(今は遺跡名の村名としている)。
◆クンツゥルワシ博物館の迎えにあるゲストハウスに入り、それから食事をしにレベッカさんの店へ。翌日、カハマルカ泊とする選択肢もあったが、本日・明日とクンツゥルワシに2泊することにした。おかげでゆっくりすることができた。このゲストハウスに何室かあり、その一部屋に照屋さんは住んでいる。村で飲食ができるのは2軒くらいだそうだが、食事はほぼレベッカさんの店で取っているとのこと。もう日が暮れた時間だが、そこにむかって歩いていると、村の人たちが口々に「マス~ミ」と寄ってくる(すっかり村になじんで受け入れられています)。
◆16:30過ぎに到着。虹が出ている。そこからタクシーでアルマス広場へ行き、米ドルをソルに換金し、またタクシーで乗り合いバスの乗り場へ。ペルーでは米ドルでも支払いできるところが多く、基本はドルをもち、適宜ソルにすればよい。とはいえ、ほとんどの支払いは照屋さん任せである。
◆17:30バスは出発し1時間40分かけてクンツゥルワシにむかう。いわゆるバン、10人程度を積んで
◆クンツゥルワシ博物館の迎えにあるゲストハウスに入り、それから食事をしにレベッカさんの店へ。翌日、カハマルカ泊とする選択肢もあったが、本日・明日とクンツゥルワシに2泊することにした。おかげでゆっくりすることができた。このゲストハウスに何室かあり、その一部屋に照屋さんは住んでいる。村で飲食ができるのは2軒くらいだそうだが、食事はほぼレベッカさんの店で取っているとのこと。もう日が暮れた時間だが、そこにむかって歩いていると、村の人たちが口々に「マス~ミ」と寄ってくる(すっかり村になじんで受け入れられています)。
12月25日クスコからリマへ
◆サクサイワマンからホテルに戻り荷物を積み、11:10空港に着く。走れと。12時のはずが、11:30とも11:45分とも・・・。理由不明だが、早くなったの
か?。リマまで1時間20分程度。飛行機からの眺めを楽しむ。
◆リマに近づくと海が見え、ほぼ1年中雨が降らず、砂漠地帯の沿岸部が見えてくる。海まで砂漠のなかを流れが続く川もあれば、両岸にオアシスのように緑地が三角形に広がる河川もある。そして890万人が住むリマ市街が見えてくる。13:10着陸。
◆14時頃、空港内で昼食。ピラミッド形のごはん。米食は日系移民が始まって以降と聞いたように思う。もともとはジャガイモ・トウモロコシ・マメ・肉、というところだが、いまは稲作がすっかり定着している。
◆リマに近づくと海が見え、ほぼ1年中雨が降らず、砂漠地帯の沿岸部が見えてくる。海まで砂漠のなかを流れが続く川もあれば、両岸にオアシスのように緑地が三角形に広がる河川もある。そして890万人が住むリマ市街が見えてくる。13:10着陸。
◆14時頃、空港内で昼食。ピラミッド形のごはん。米食は日系移民が始まって以降と聞いたように思う。もともとはジャガイモ・トウモロコシ・マメ・肉、というところだが、いまは稲作がすっかり定着している。
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HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。