人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
10月28日金曜日は大学史の会議と高槻市
◆9:20から大学史移転のWGの会議、そのまま大学史運営委員会。これで昼。そこから高槻へ。大学史の、恒藤記念室を含む展示設計のプレッシャーも、なかなかのものである。
◆大阪城の表面波調査は、木金で計画されていて、この日も高槻市の会議から大阪城へ向かうつもりにしていたが、予定の調査が木曜日に終了したので、大学に戻る気力もなく帰宅。そのまま爆睡。ああ、大歴の仕事をせなあかんのに・・・。
◆大阪城の表面波調査は、木金で計画されていて、この日も高槻市の会議から大阪城へ向かうつもりにしていたが、予定の調査が木曜日に終了したので、大学に戻る気力もなく帰宅。そのまま爆睡。ああ、大歴の仕事をせなあかんのに・・・。
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10月27日大阪城表面波探査
◆聚楽第の堀が、つまりは平面形や構造がわかったという新聞記事はいつだったか。これを豊臣大
坂城本丸の、内に入り込む3段構成で深さ10mの堀をつかめないか、ということでお願いしたもの。文理で取り組むこの事業の推進者であるNさんと、理学部のMさんでセッティングされたもので、どんなものか見たいし、昨日、17時からの現場に行きました。
◆結果はすぐわかるようだし、楽しみにしておこう。大きな掛矢で2mごとに舗装された地面を叩いて、振動を2mごとに配置された受信機でつかまえて地下構造をさぐるもの。測線3本が、わりあいあっという間に(2時間かかっていないのではないか)終了した。学生・院生等が叩き役だが、大きな振動を与えるほど深い情報がえられるので、どこまでの深さが探索できたか、というところ。
◆カミサンのところに新潟大の古生物の人が計測に来ており、様子をのぞきにくることになってい
たが、意外に早く終わってしまい、到着したのは片づけたあと、写真を撮っている時でした。解散後、天満橋で飲み会。
◆結果はすぐわかるようだし、楽しみにしておこう。大きな掛矢で2mごとに舗装された地面を叩いて、振動を2mごとに配置された受信機でつかまえて地下構造をさぐるもの。測線3本が、わりあいあっという間に(2時間かかっていないのではないか)終了した。学生・院生等が叩き役だが、大きな振動を与えるほど深い情報がえられるので、どこまでの深さが探索できたか、というところ。
◆カミサンのところに新潟大の古生物の人が計測に来ており、様子をのぞきにくることになってい
槇尾川沿いの水利
◆大学院演習でちょっとしゃべれということになり、これまで作ってきた図をがっちゃんこして、
理解しているところを説明。しかし、池田下・芦部・伯太、今年の肥子も含め、現地調査時の元図もあるとはいえ、記憶はあやしく、正確な現状認識がちゃんとできているかといえば、できていない。たとえば写真も撮ってきてはいるが、どこのポイントがどの写真ということを含め、正式な調査報告書にまとめ上げる、という作業をやっとかないといけない。その都度の合同調査時の時点でしっかりまとめておく、というのは大前提。ある時点からは『市大日本史』にまとめの図が掲載されるようになってはいるが、こちらが手を入れたものもあるが、担当班の図をそのまま載せている場合、線や面の網などの関係で実はよくわからなかったりする。自分の資料を取りだしても、歩いて確認した線なのか、絵図なのか、地籍図なのか、聞き取りなのか、よくわからなくなる。
◆近世の人に、村の絵図や水利争論の図があるかどうかは、もうひとつ次の時点で突き合わせるとして、まずは再度、現地をぜんぶ歩いて、池田の一ノ井からすべて系統的に踏破し、必要な写真を残し、やり直したいところである。おおよそはわかっているのだが、決定版の図を作ろうとすると、あいまいな部分、未確認の部分などが出てくる。完全とはいえないとしても、そして現代の付け替えはあるにしても、ともあれ現状はこうだ、という決定版までいかないと、認識のレベルがもうひとつアップしないと感じる。さて・・・、来年、前期にでも授業で・・・。
◆もひとついうと、こういう作業は、古墳時代後期、古代の理解にかかわっている。そして、ということはその後の歴史を通して、地域社会の骨格として決定的に必要なのだと思う。が、いずれ手遅れになるだろう。タンボが少なくなっても、1枚あるだけでも用水はなかなかつぶれない、という面もある。が、いつまでもそうではないし、見えなくなり、付け替えられ、なくなり、と。そして肥子でもそうだが、水利組合はもうなく、伝えられてきた水利関係資料はどこにいったかわからなくなっている。歴史地理のものを読んでいると、図が載っていたりするが、概して図が小さい。誰かが既に同じような作業をやっている地域もあるわけだが、元データがなにで、どこまでのことをやってできあがった図か、そこまではわからない。『和泉郡の条里』のレベルで(1/8000)、まとめあげ、のちのち参照してもらえるものを。河内の平野でもどこでも、これは文化財の仕事だと思うんですけどね。水利調査といえば、荘園調査が行われた特定地域しか、こうしたものは作成されにくい。
◆近世の人に、村の絵図や水利争論の図があるかどうかは、もうひとつ次の時点で突き合わせるとして、まずは再度、現地をぜんぶ歩いて、池田の一ノ井からすべて系統的に踏破し、必要な写真を残し、やり直したいところである。おおよそはわかっているのだが、決定版の図を作ろうとすると、あいまいな部分、未確認の部分などが出てくる。完全とはいえないとしても、そして現代の付け替えはあるにしても、ともあれ現状はこうだ、という決定版までいかないと、認識のレベルがもうひとつアップしないと感じる。さて・・・、来年、前期にでも授業で・・・。
◆もひとついうと、こういう作業は、古墳時代後期、古代の理解にかかわっている。そして、ということはその後の歴史を通して、地域社会の骨格として決定的に必要なのだと思う。が、いずれ手遅れになるだろう。タンボが少なくなっても、1枚あるだけでも用水はなかなかつぶれない、という面もある。が、いつまでもそうではないし、見えなくなり、付け替えられ、なくなり、と。そして肥子でもそうだが、水利組合はもうなく、伝えられてきた水利関係資料はどこにいったかわからなくなっている。歴史地理のものを読んでいると、図が載っていたりするが、概して図が小さい。誰かが既に同じような作業をやっている地域もあるわけだが、元データがなにで、どこまでのことをやってできあがった図か、そこまではわからない。『和泉郡の条里』のレベルで(1/8000)、まとめあげ、のちのち参照してもらえるものを。河内の平野でもどこでも、これは文化財の仕事だと思うんですけどね。水利調査といえば、荘園調査が行われた特定地域しか、こうしたものは作成されにくい。
万博よりも
◆母親が息子を殺して自殺。1歳児が未確認なまま手当をもらっていた容疑で親が逮捕され、その子は行方不明。その下には釣り人を突き落とした中学生の処分記事。このあいだは大阪府警が、沖縄で「この土人が」と差別丸出しの発言(府知事はよくやっていると)。大阪の貧困、子どもの貧困、学力の低さ、犯罪の多さ、すべてはつながっているわけです。これをいかにマシにしていくか総合的対策を打ち出すのが大阪府市の最大の課題だと思っています。万博よりも。
◆同じ朝刊に沖縄独立学会なるもので、まじめな議論が重ねられていることを知る。
◆世界の男女格差で144ヶ国中101位だとか。育休期間延長という発想は、さらに位置を下げることになるだろう。
◆新共通テストの記述式の実現は厳しいと。そんなこと今更だし、民間調査の前に、そういう方向を検討しようという時期に文科省が現実性の確認をちゃんとすべきですよね。審議会などでエライ先生が提言する、もっともかもしれないが、実際にそういう方向に舵を切るかどうかは、慎重にプロフェッショナルが検討することが必要。この議論、どこまで議論が進み、後戻りできないものかわからないが、出願先の大学が採点する方向が出され、ますます現実性が薄くなってきた。2020年度に始まる新共通テストなるものは、2019年1月が最初ということかな。ここまでやってきた以上、なにがしか変えたものにせなあかんのでしょうね。しかしそもそも論として、ぜんぜんダメ、機能していないものは早く変えていく必要があるが、入試制度なるものはあまり変更するものではないし、ベストではないにせよ、そう悪くはないのだ。大きく変える理由や必然性はなく、中身をどうやって充実させていくかというところに腐心すべきものだろう。
◆中国の選挙妨害の話も興味深い。
◆同じ朝刊に沖縄独立学会なるもので、まじめな議論が重ねられていることを知る。
◆世界の男女格差で144ヶ国中101位だとか。育休期間延長という発想は、さらに位置を下げることになるだろう。
◆新共通テストの記述式の実現は厳しいと。そんなこと今更だし、民間調査の前に、そういう方向を検討しようという時期に文科省が現実性の確認をちゃんとすべきですよね。審議会などでエライ先生が提言する、もっともかもしれないが、実際にそういう方向に舵を切るかどうかは、慎重にプロフェッショナルが検討することが必要。この議論、どこまで議論が進み、後戻りできないものかわからないが、出願先の大学が採点する方向が出され、ますます現実性が薄くなってきた。2020年度に始まる新共通テストなるものは、2019年1月が最初ということかな。ここまでやってきた以上、なにがしか変えたものにせなあかんのでしょうね。しかしそもそも論として、ぜんぜんダメ、機能していないものは早く変えていく必要があるが、入試制度なるものはあまり変更するものではないし、ベストではないにせよ、そう悪くはないのだ。大きく変える理由や必然性はなく、中身をどうやって充実させていくかというところに腐心すべきものだろう。
◆中国の選挙妨害の話も興味深い。
ほんでもってゴクローサン会
◆もう一人の講師は大手前大のMさん、Kさんと同級生で、わたしはその下。なので、カミさんが呑
みたいと。なので、終わったらいっぱいやりませんか、と提案すると成立。駅前で17:15くらいから関係者の呑み会のスタート。いや~実に楽しく、お酒も進みました。帰る頃には、翌日の立命館の授業の準備が頭をよぎる。なんとか資料は前日午前に作り上げPDFにしておいたので、コンビニででも刷ることができる。パワポは、天理のパワポを流用。5回目の10月23日は、祭政分権王制の話をする回になるので(ちなみに「祭」が上位にあることこそ倭王権の特質なので、以前は「政祭」としたが博士論文段階で「祭政」に改めている)。
◆天理駅に降り立つとこんな看板がありました。それと文化センターには内山永久寺の江戸期の大
伽藍の様子の図絵が掲示してあり、パチリと。
◆で翌日は立命館。資料を刷ったが、ミスしてました(配り直しです)。立命事務室でパワポの最終調整をした。終了後、本務校に14時に到着。研究会。終了は17時過ぎ。そこからこの2日間の整理をしました(とはいえどっか出かけた場合はガイドマップなどの資料の整理と写真の整理などが発生しますが、要するにこのブログを書くという行為です)。なんとか土日を乗り切りました。さて、今週は、大歴の仕事!、ですね。先週、ほとんどメールもチェックできてないし。
◆天理駅に降り立つとこんな看板がありました。それと文化センターには内山永久寺の江戸期の大
◆で翌日は立命館。資料を刷ったが、ミスしてました(配り直しです)。立命事務室でパワポの最終調整をした。終了後、本務校に14時に到着。研究会。終了は17時過ぎ。そこからこの2日間の整理をしました(とはいえどっか出かけた場合はガイドマップなどの資料の整理と写真の整理などが発生しますが、要するにこのブログを書くという行為です)。なんとか土日を乗り切りました。さて、今週は、大歴の仕事!、ですね。先週、ほとんどメールもチェックできてないし。
でですね天理です
◆土曜日帰ってきてから、日曜日の天理のパワポを作り始める。こっちは授業でも他の講演会でも
使ってきたものがあるので、しゃべる筋にしたがって使えるものを配列しつつ、黒塚と行燈山のものを入れ込んでいく。だいたいできそうなメドが立ち、寝て、前日と同じように朝起きてから仕上げにかかる。同じように12時招集で、何時に出たのだったか、平端から天理駅に降り立ったのは11:30過ぎ。文化センターの方向に歩いていくが、市役所の方へ行きすぎ、引き返して到着。むかし大和天神山古墳の鏡がぜんぶ並べられたときに来たな~、と思い出す。山辺文化会議という名前で、天理の歴史文化を活かしたまちづくりなどをめざし、勉強会や、今回が5回目になるというシンポジウムを開催するなどしている。どこでも地域のために何かしたいと活動している人々がいます。
◆大学の先輩である天理大学Kさんが理事になっていて、今回の企画をセッティングしたようで、頼まれて断るわけにはいかない。3人が40分ずつしゃべって、結構長く討論時間があった。
◆黒塚の護岸工事の調査をやった反対側側面の方が残りよく、そのくびれ部を掘ったら、きっと葺石は残っていると思うし、全体に柳本藩の陣屋になり傷んではいるが、なんとか箸墓古墳に近いという判断ができる材料がえられるだろうと思う。あれだけの内容のものがあって、史跡は当然であるとしても、本来は、範囲確認をやって指定すべきなんだが・・・。まあそんなことは言いませんが、墳丘を確認してほしいという願望は表明しておきました。そして行燈山。なぜ崇神墓とみることができるか、という説明をして、ハツクニシラスの話をしてオチ、としました。参加者は230名くらい?。
◆大学の先輩である天理大学Kさんが理事になっていて、今回の企画をセッティングしたようで、頼まれて断るわけにはいかない。3人が40分ずつしゃべって、結構長く討論時間があった。
◆黒塚の護岸工事の調査をやった反対側側面の方が残りよく、そのくびれ部を掘ったら、きっと葺石は残っていると思うし、全体に柳本藩の陣屋になり傷んではいるが、なんとか箸墓古墳に近いという判断ができる材料がえられるだろうと思う。あれだけの内容のものがあって、史跡は当然であるとしても、本来は、範囲確認をやって指定すべきなんだが・・・。まあそんなことは言いませんが、墳丘を確認してほしいという願望は表明しておきました。そして行燈山。なぜ崇神墓とみることができるか、という説明をして、ハツクニシラスの話をしてオチ、としました。参加者は230名くらい?。
生き急ぎ
◆木津での講演会の最後、なんだかご一緒したお二人からの私に対するメッセージをいただく形になった。なんであんなことになったか、どういう司会からの質問の振りだったかは忘れたが。まず「長生きしてほしい」と。わたしのアバウトさをしっかり指摘いただきつつ、認めてくれる面は認めていただいた。考古学的事実から歴史を語ろうとしている、と。日頃から努めているところである。What happened in history そこにどこまで肉薄できるか、ただそれだけである。歴史的な意義とか理論とかは関心はない。なんで久津川車塚古墳があり、180mもの巨大前方後円墳が築かれ、そして芭蕉塚のあと消えていくんだろう、どこまでそれが説明できるのか、といったことに挑戦し続けたいものである。遺跡にもとづく歴史学を追究したい、と思っている。そういう志向性があり、そういう人も必要なんだ、と認めてくれはりました。そして長生きしてください、と。
◆でもね。ある必要性からある本を読んだんですけど、専門家というのはそうだ、事象を説明できるようになりたい、資料に即して自分の考える歴史像なりを構築したい。そうやって、なるほど、と思われる脈絡を語れる、これがプロである、と。が、そこに資料と理解の緊張関係をどこまで保持できるか、ということ。ある見方や理解を学説として出す、そうするとそれに縛られるわけです。むろん、手堅く確実なことをコツコツ積み上げ、訂正を要しない人もいるだろう。が、わたしなんかは、元来、感性的で、実証はアバウト。ころころ見方も変わる。このことを友人にも指摘される。なので、そもそもダメなんだけれど、しかしいい線いっているところも、たぶんあると、これはまあ自分くらいは信じてやりましょう。だけど、その本質にかかわるものほど、変えられなくなる。いままでの研究が瓦解するから。実はその危機感はあります。
◆話が脱線しましたが、その本では、一定の筋道や理解や脈絡を説明できるようになることが、次の段階には、それにもとづく解釈になっていくと。そういう頭になってしまっているわけだ。難しいですね。ある見方なりで、事例にあたっていき、それが通用することで事例を増やし、より確からしいものにしていくという深化と、ヘタをすれば別の見方をしなければならないのに、その線で理解してしまおうとする、きわどさがある。そのへん、資料に向かう常にフレッシュな頭で観察する姿勢というか、オヤ違うなと思ったら柔軟に組み立て直すみたいなことが、どこまでできるかですね。それができなくなったら引退すべきですね。
◆で、もうおひと方からは「生き急いでるように見える」と・・・。そうですね、なにもかもできんし、いろいろ委ねて、ゆったりと進みたいもの。50を越えて徹夜して、タバコをプカプカ吸って資料を作りパワポを作り。いみじくも、その日の朝、カミサンに「死ぬで」と言われたところ。自分でも自覚はあり、たぶんやられるとしたら心筋梗塞やろな、と思っている。早く死んでは、そこで終わってしまい、長生きしてこそ、やりたいこともやり続けられるんだし。持続するようにしないといけませんね。でもまあ、ストレスかというとそうではあっても、こういう機会をいただくことで、いろんな勉強ができ、楽しくやってはいる。
◆すいません。木津の講演会だけで、長々と。が、あの最後のいただいた言葉は、ほんとにありがたいものでした。
◆でもね。ある必要性からある本を読んだんですけど、専門家というのはそうだ、事象を説明できるようになりたい、資料に即して自分の考える歴史像なりを構築したい。そうやって、なるほど、と思われる脈絡を語れる、これがプロである、と。が、そこに資料と理解の緊張関係をどこまで保持できるか、ということ。ある見方や理解を学説として出す、そうするとそれに縛られるわけです。むろん、手堅く確実なことをコツコツ積み上げ、訂正を要しない人もいるだろう。が、わたしなんかは、元来、感性的で、実証はアバウト。ころころ見方も変わる。このことを友人にも指摘される。なので、そもそもダメなんだけれど、しかしいい線いっているところも、たぶんあると、これはまあ自分くらいは信じてやりましょう。だけど、その本質にかかわるものほど、変えられなくなる。いままでの研究が瓦解するから。実はその危機感はあります。
◆話が脱線しましたが、その本では、一定の筋道や理解や脈絡を説明できるようになることが、次の段階には、それにもとづく解釈になっていくと。そういう頭になってしまっているわけだ。難しいですね。ある見方なりで、事例にあたっていき、それが通用することで事例を増やし、より確からしいものにしていくという深化と、ヘタをすれば別の見方をしなければならないのに、その線で理解してしまおうとする、きわどさがある。そのへん、資料に向かう常にフレッシュな頭で観察する姿勢というか、オヤ違うなと思ったら柔軟に組み立て直すみたいなことが、どこまでできるかですね。それができなくなったら引退すべきですね。
◆で、もうおひと方からは「生き急いでるように見える」と・・・。そうですね、なにもかもできんし、いろいろ委ねて、ゆったりと進みたいもの。50を越えて徹夜して、タバコをプカプカ吸って資料を作りパワポを作り。いみじくも、その日の朝、カミサンに「死ぬで」と言われたところ。自分でも自覚はあり、たぶんやられるとしたら心筋梗塞やろな、と思っている。早く死んでは、そこで終わってしまい、長生きしてこそ、やりたいこともやり続けられるんだし。持続するようにしないといけませんね。でもまあ、ストレスかというとそうではあっても、こういう機会をいただくことで、いろんな勉強ができ、楽しくやってはいる。
◆すいません。木津の講演会だけで、長々と。が、あの最後のいただいた言葉は、ほんとにありがたいものでした。
久津川車塚の被葬者は在地豪族か
◆向日市のUさんはそうはみていないよう。わたしは突き詰めて考えていなかったが、そうだよな、そういうことも考えとかなあかんわなと。というのも、太田茶臼山である。あれは継体の祖父のもひとつ前の、フタマタ王の次のオホホド王と考えられる。そうでなければ、継体が倭国王に担ぎ出されることや、彼が三嶋を本拠とすること、新池で埴輪を焼くことが説明できないと思うから。オホホドは三嶋を任せるために河内政権から送り込まれたと。ただし後続しないことから、オホホドの次は允恭即位により近江方面かどっかへ転封されたと。
◆継体が担ぎ出され、倭国王となり地盤のある三嶋に返り咲いた、と。そう考えると、230mだか、
確かに久津川車塚古墳よりもデカク、墓山や市野山の規模とも同等で、そのクラスとなると王族とみることも可能だろうと思うが、しかしその線引きはどこやねんと。180mやったらちゃうとか、なかなか言えないだろう。箱塚とか、車塚の前身とか、4世紀末から5世紀前葉の車塚登場以前からの脈絡の復元が難しい点はある。しかし、あれだけの階層構成を取る久津川古墳群、そして180mもの車塚、それは河内政権期に王権と深く結びついた久世の首長と言い切れるかというと、確かに???なのである。また、恵解山古墳との格差も著しい。125mと180mの格差はたいへんなものである。
◆なお県の理解についても、向日市Uさんと違った。これも和泉市史での理解をしゃべったが、違うあり方もありうるなと。つまり王権直轄地に近い性格のアガタについて、和泉では伝統勢力をつぶした上で設置し、茅渟県主氏を管掌者として登用したと理解しているわけだが、重要拠点に王族を送り込むアガタがあっていい、ということだ。アガタの意味からして確かにありうる話やなと、とても勉強になった。和泉は百舌鳥古墳群とも近く、茅渟県の経営に王族を送り込まなくても済むんだろう。しかし畿内の要地(あるいは畿内だけでなく-アガタの論文を読まないといけませんね)については、王族を送り込んで(封じて)統治させる、ということは十分考えられるのだろう。ちなみにUさんは葛野県主は恵解山とみているようである。
◆まあそんなんで、やったらやったで、なにがしか前進があるし、地域の古墳群を調査し、歴史的脈絡を考えている方々と話をすることで、いろんな示唆をいただいている。多謝。
◆継体が担ぎ出され、倭国王となり地盤のある三嶋に返り咲いた、と。そう考えると、230mだか、
◆なお県の理解についても、向日市Uさんと違った。これも和泉市史での理解をしゃべったが、違うあり方もありうるなと。つまり王権直轄地に近い性格のアガタについて、和泉では伝統勢力をつぶした上で設置し、茅渟県主氏を管掌者として登用したと理解しているわけだが、重要拠点に王族を送り込むアガタがあっていい、ということだ。アガタの意味からして確かにありうる話やなと、とても勉強になった。和泉は百舌鳥古墳群とも近く、茅渟県の経営に王族を送り込まなくても済むんだろう。しかし畿内の要地(あるいは畿内だけでなく-アガタの論文を読まないといけませんね)については、王族を送り込んで(封じて)統治させる、ということは十分考えられるのだろう。ちなみにUさんは葛野県主は恵解山とみているようである。
◆まあそんなんで、やったらやったで、なにがしか前進があるし、地域の古墳群を調査し、歴史的脈絡を考えている方々と話をすることで、いろんな示唆をいただいている。多謝。
宇治二子塚はすごいですね
◆片袖式石室の話をして、まあ宇治二子塚が今城塚型という以前からの話を図で示した、というだ
けのことですが、和田アツム先生が被葬者について言及しているようだ。継体の妃のひとり、ワニ臣河内の娘のハエ姫と。が、まあワニ臣河内の墓であって、ハエ姫は死んだら帰葬されるんでしょう。断夫山が安閑母のメノコ姫の父である尾張のなんとか墓と言われているのと同様、可能性はある、いや高いのではないか。つまり、そういう関係のもとでしか、6世紀前半に112mものあれだけの前方後円墳は説明しにくいだろう。
◆それよりでかいのが西乗鞍ですが・・・。まあそれは置いておき、やってみてびっくりしたのは、二子塚古墳の横穴式石室の基礎がとんでもなくデカイ、ということ。ご覧あれ。ちなみに置いているのは市尾墓山です。
◆あと、前方後円墳のあと、方墳が基調と思っているが、嵯峨野は円墳が多い(円山塚など)というのも興味深いですね。蘇我全盛ではあっても、ぜんぶがぜんぶ方墳になるわけではない。牧野や叡福寺とかくらいしか思い浮かばず、白石先生の挙げる壬生車塚を含め、限られた存在というイメージでみていたが、そんなことはないですね。いっぺんに方墳化はできず、前方後円墳は廃止されても、そりゃ円墳やろ、という層はしぶとくいる、と理解しなければならない。
◆それよりでかいのが西乗鞍ですが・・・。まあそれは置いておき、やってみてびっくりしたのは、二子塚古墳の横穴式石室の基礎がとんでもなくデカイ、ということ。ご覧あれ。ちなみに置いているのは市尾墓山です。
◆あと、前方後円墳のあと、方墳が基調と思っているが、嵯峨野は円墳が多い(円山塚など)というのも興味深いですね。蘇我全盛ではあっても、ぜんぶがぜんぶ方墳になるわけではない。牧野や叡福寺とかくらいしか思い浮かばず、白石先生の挙げる壬生車塚を含め、限られた存在というイメージでみていたが、そんなことはないですね。いっぺんに方墳化はできず、前方後円墳は廃止されても、そりゃ円墳やろ、という層はしぶとくいる、と理解しなければならない。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。