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人を幸せにする人になろう

すみ文続き

◆権禰宜さん曰く、住吉大社から真西が明石海峡なんだと。終了後のお茶の席でも、阪堺線の神ノ 木駅から見ると(もともと高いことに加えて南海線との立体交差で高いんだそうです)、明石海峡が昔はよく見えた、という話も聞く。あとは海遊館のところの観覧車に乗ると、明石海峡がよく見えるんだそうです。写真を撮りに行かなあきませんね。4世紀の話をする時、パワポの表紙で使えますよ。
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WIN10には腹が立つ

◆17日だったか、勝手に研究室のデスクトップPCがWIN10になってしまい、勝手が違って腹が立つ!。つないでいるプリンタはなんとか印刷できるようだが、スキャナーが対応していないのか、スキャンできない事態になり、腹が立つ。PCまわりの操作は、なんとかWIN10画面にも慣れてはきたものの・・・。
◆まあそんなんで、今年は入試担当が後期であったこともあり、いろいろ引きずってはや3月下旬ではないか・・・。いろいろ不義理が・・・。今日は卒業式で呑みがあり、明日からようやく数日間、完全フリーとなる。原稿2本は、まあ難しいか。1本はほぼできあがっており、もう1本の方をせっせとやらなあかん。

19日「すみ文講座」

◆頼まれ仕事で、住吉大社を会場とするシンポジウムに。国文の今年定年退職される先生 と、わたし、住吉大社の権禰宜さんと、3人が25分しゃべり、あとトーク。
◆ちょいと5分くらいオーバーしてしまったかな。すいません。WIN10で、パワポも2013で、最初勝手が違ってあせるも、なんとか。スクリーンとPC画面が違うので・・・。
◆大阪湾岸の話と丹後の話をしたのだが、最初のM先生の話は住吉の浦島太郎伝説の話で、丹後の浦島伝説の話と共通するといった話題で、打ち合わせをしたわけではないが、つながる。偶然でなく必然なんでしょうね。大元は、こっちに言わせれば4世紀の半島関係が根っこにあって、大阪湾岸と丹後が同じような役割を果たし、倭国の海の出港地となり、浦島伝説が両者にあることも説明がつくだろう。またご存じのように、長門や筑前や、壱岐やら、瀬戸内一帯に住吉社が分布することも、すべてつながってくる。権禰宜さんの話では、丹後網野の人々が、同族意識があり、住吉参りをしていたんだとか。なんか、すべてがつながってきて面白かった。沖の島の話をしたが、宗像とか紀伊の日前宮とかも、海つながりで神社同士の関係意識をもっているのだという話。そのへんは正確にはメモできておらず、書いたもので確認する必要がある。
◆M先生にはお弟子さんやファンが多く、終了後、お茶をご一緒しました。
◆終了後、研究室に戻り20:30まで仕事。帰宅後、あじもりに行く(飲み屋です)。長男は九大で開催された学会で発表し、そのあと長崎観光に1日行ったそうで、そこから大阪へ帰ってくることになっていた。23:00に合流し、4人で呑む。

3月19日は「ひとはく」と「いたこん」

◆長女は理学部生物学科なので、三田の兵庫県立人と自然の博物館と、伊丹市立昆虫館に行く。も ともとは「いたこん」の脱皮展が面白そうなので、行こうという話になったもの。19日 にシンポジウムがあり、17日に資料は送付したが、パワポの準備が0だったので、朝から出かけ、午後のどっかからは研究室で準備できると思っていたが、結局は1日がかりとなる。
◆それで、帰ってきてから、朝の3時頃まで、明日の「すみ文」のパワポ作り。

いつだったか考古の卒論ご苦労さん会

◆いつもの民族料理路線で、福島のイーカスークというところでやる。

15日と16日は免停の講習に行き

◆2万5千円を支払って長期講習、これで90日が45日に短縮となり、2月1日から停止が始まり3月15日には45日に達しているので、16日の講習修了を待って、翌日からは車に乗れ、16日はダメという印を免許証の裏に押され当日返却を受ける。
◆講習の中身や考査の話はまあええでしょ。動体視力や適性検査などを受けるも、年を感じる結果となる。反応が遅いと・・・。
◆カミサンが迎えに来てくれ、関空へ長女を迎えに行く。その帰り、生物のDNAで形質の違いのどこまでが規定されるのか、議論となる。なんでも、昔の自然淘汰説では、さまざまな遺伝の偏差のなかで適応したものが残っていき、例えばキリンの首が長くなると考えられていたのに対し、高い木の枝の実を食べようとすることによって変化し、DNAが上書きされる可能性があるというのが今日の最先端だそうです。そうですよね。進化が偶然の累積でなく、適応が形質を変えていくはずですよね。

上野の条里

◆学内のある原稿を、やっと出した・・・。もう18時をまわってしまったが、これでひとつ終わりと。
◆こないだの条里制研究会で、群馬県の方が上野の条里の発表をしていて、いちばん興味があった。その前に昨年のニンジャ君の発表が論文になっていて、会誌を読んでいたが、まあ細かいことがいろいろ書いてあって、さっぱりだが、項目としては勉強になります。が、前提が条里はずいぶんあととの認識で、土地区画がなくても班田できるんだとか、やはりそういう論調だし、やはり文献からすると8世紀以降の話しかできない、ということもよくわかる。
◆でまあ、この上野の発表は楽しみにしていた。両側の河川から水を引いてくる水路の年代が8世紀中頃で、ケイハンの下の区画溝の遺物は8世紀後半で、と結論は8世紀後半としつつ、児玉条里と同じく7世紀後半にさかのぼる可能性を示唆する。8世紀前半には面的に施工されていた、というところまで、まずはいかないかなと希望するが、それは発掘の蓄積を待つほかないだろう。なんや8世紀後半かと資料では感じたが、報告者と話をしてみると、さらにさかのぼるとみているようである。
◆資料にも児玉条里の引用はあったが、こっちと同じく『月刊文化財』で、ソースは同じだが、そ こはちゃんと埼玉県の報告書を見ておられるようで、畦下の埋納坑の土器は7世紀後半なんだそうです。すごいヤンケ。7世紀後半でっせ。関東では条里の研究会が行われているようで、どんな論調なのか知りたいところであるが、是非、『条里制・古代都市研究』で、児玉条里の土器埋納坑の遺物を報告してほしいもの。それと残念なのは、昨年の静清条里の報告が掲載されなかったことで、これについても、第2東名だか90年代の盛り上がり時には8世紀中頃みたいな話だったかと思うが、その後の成果があるかどうか知らんが、どこまでさかのぼりうるかということと、面的施工だという点を、是非、次号に掲載してほしいものです。
◆で、群馬のこういうよくできた労作の図を見ると、ついうれしくなってしまいますね。A3片側だけのスキャンで、この右側もあります。

土日は入試業務

◆タイトルだけです。大阪城とか、高槻とか、1日研究室にいることがないので、雑用がたまっている。本日、14日、久しぶりで何もないので、朝から、予算執行の最後の伝票処理やら、ブログを書いて、資料類を整理したりしております。
◆朝、杉本駅を出てコンビニによってから職場にむかうと、駅のところで4回生が立っており、電車の中でわたしを見かけたらしいが、傘をもってないようだったので、待ってくれていたのだとか。いや~、人を幸せにするひとですね。でも気をつけて、男はすぐに誤解するので。
◆ちなみに、いつも朝行く「ぱんのいえ」で、なかなかの女性が一人いるのですが、前に「歩けるようになったんですね」とニッコリほほえんでくれ、幸せな気持ちになりました。
◆明日から、免停期間短縮のため、休みを取って丸2日の講習を受けに門真に通います。ちょうど90日の半分に到達するので、申し込んだ際、2日目の帰りに免許を受け取れるらしい。それはありがたい、もっかい、免許証をもらいに行かないといけないと思っていたので。で、2日目の16日には、長女が北海道から帰ってくる。長男は19日という。大学院進学の手続きを終えたらしい。こっちはこっちで、2人分の下宿の火災保険の振り込みをしたり、と。
◆で、コンビニで支払った用紙を整理していると、もうひとつ城陽の水道代を払ったのだが、何も考えずに、10月初めに引き払った宿舎の残額がえらい長いことかかっているなと思ったら、1月2月分とあり、アチャー、水道止まってない・・・!。その間、基本料金を何も見ずに支払っていたのでありました。あほ。

3月11日は高槻

◆朝、考古の作業日。年度末で買わしてもらった、136のトナー・インクやコピー用紙の整理棚、博物館実習関係の諸道具を収納する整理棚が来たので、それを据えて、モロモロの置き場所を整理し、部屋全体も整える。残り時間で、久津川の遺構トレースをしてもらうのに、2回生にイラレの使い方を教える。12時に大学を出て高槻に。2時間の予定の会議は3時間にのび、3つほどの議題について審議する。2年前のことを思い出しつつ、さてどうするか、というところ。
◆文化庁からも埋蔵の主任調査官含め2名が出席し、懇親会に誘われ出る。委員長のW先生と議論し、少しおこられ、反省する面と反発する面と・・・。いずれにしても心配をおかけしていることを認識する。
◆この間、世界史の漫画をず~と読んでいたのと、どこからか塚口先生の論文集に書く、津堂城山 古墳の原稿に取りかかる。図面をずっといじっているが、なかなか津堂はわからないですね。墳丘裾部の定点が片側しかないもので。合理的な復元案まではいかないのは仕方ない、か。空中写真、空中レーザー図、藤井寺の図、うちの地上レーザー図、濠内の探査図、調査区とのその遺構などなど、あらゆるものを総合する。が主軸もわからんし、後円部の心も決まらんし、とほほです。

ことのついでに

◆大阪城に公園駅側から入ると、いやとにかく青屋門側から入ると、東内堀は確かに迫力 がある。この石垣の陰影図を作るにはどうしたらよいだろうか。
◆大阪城はとにかくデカいので、石垣といっても、ぜんぶ観察しようとしても、なかなかできない。普通は、出入りする途中に見えるものを眺めているだけである。前に、1枚の写真を撮るのに2時間くらい、この東内堀をうろうろしていたが、ほんとはそれくらいかけて観察しないと、顔が見えてこないのだろう。もっとも、その時はあくまで写真が必要だからやったのであって、石垣を観察したわけでもない。大阪城の石垣のツラがわかっている人は、ほぼいないのだろう。
◆1期から3期の時間差や、大名による差など、学問的にやろうとすれば、途方もない観察時間がいるし、写真とメモではしんどい。やはり資料化された石垣の図を作るのが重要。とはいえ対象はでかく、ぜんぶいっぺんにとなると、結局は整理しきれなかったりもするだろう。効率的に、どのくらいの水準の図を作るか、そして南内堀→東内堀と、区切りをつけながらやっていくしかない。なにより研究費を取ってくることが大事、という根本問題もある。まじめに研究費を取りに行こうと、考えつつある。
◆どうやるか、ドローンによる写真撮影とフォトスキャンでのマッチング、それと現地での基準点 測量の組み合わせ、というのがいちばんいいかも。前に本丸500分の1作成業務を出したとき、地上レーザースキャンなわけだが、試しに天守台の1/100陰影図を作った。まあ、もひとつ前に刻印まで出るようなスキャンをやってもらった精度は出ないが、ひとまず石垣をとらえるには一定十分。それが右。やっぱり、こういう図があるからこそ、積み上げの書き込みとか、隅の処理の仕方とか、といった作業が可能となる。
◆が、内堀となると距離が離れている。また地上レーザーで、この天守台でも、石垣の上の方は見上げになって、データそのものもよくないんだろう。陰影図になっても白っぽい。やはり写真かなと。ドローンだと高いところも、いろんな角度からの写真が撮れる。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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