人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
安保法制は違憲といわれ
◆3人の参考人である法学者が3人とも違憲だと言い、そんなあほなことあるかいと与党は反論。全国の法学者よ、バカにされてるのとちゃいますか。法律の専門家のいうことなんぞ、取るに足らん、と言われているのですよ。一斉に蜂起した方がいいのではないですか。専門家が尊重されない。一定、それを認めながら、しかし、という言い方をするのでもない。
◆法科大学院について、お前のトコロやめろと指示できるようにするとかなんとか、しばらく前に記事にありました。文科省が法曹人を増やすために作ったものでしょ、そのために大学は金をかけて体制を整え、環境整備などして対応したのですよ。それをあんた、すっかり道筋を別のものにして、お前らの言うとおりやったものをつぶしにかかるんか。金返せ。保証しろ、ということだ。間違ってましたと頭を下げんかい。
◆文科省の言うことなんぞ、しばらく寝かして様子を見ることです。さっそくに対応することが無駄になることが多いんとちゃいますか。なんか言っとる、くらいで。恫喝があっても、やってみい、と開き直ればよい。
◆国立大学の人文系など、役に立つ人材を育てられないところをつぶすといった記事が出てまし
たね。あほちゃうか。いま地方を元気にする大臣を置いているんと違うんですか。人口が減る中で、いかに自律的に地域がまわっていくように、各地で頑張っているし、文化庁だけでなく、国交省も町づくりということを政策に掲げるようになっているのではないのですか。地域に暮らし働き、そこで地域のために生きていく、地域のためによかれとおもうことをやる、そういう学生を育てないといけない。地域の培ってきた文化や歴史こそが、固有の拠って立つべき重要なファクターで、そういうものを大事にしながら、人づくり、町づくりをやろうとみんな頑張ってます。それこそ、それぞれの地域の地勢や地理や、自然環境、人の暮らし、歴史、文学、民俗、芸能、気質、そういう広い意味の文化がそれぞれにあり、それを研究するのが人文学でしょ。そういうものは研究せんでいいという宣言ですよ。日本文化は東京や、と言われているのに等しい。そんなあほなことがあるかい。そういう直接的な人文学の必要性のみならず、人文学というのは、人々が生きていくベースに経済でなく考え方としての文化を据える、そういう人間を育てていくという大事な仕事がある。何か役に立つ技術開発とかそういうことも必要でしょう。けど、そういうものだって、それを誰のためにどう使うか、というのは人間性の問題です。ハートがなく、それが自分らだけが、会社だけが、日本国だけが、金を儲け、いい暮らしができればいいという思考のヤツばかりなら、なんぼ技術ができても意味はない。
◆理系のいろんな分野があり、とても1大学でぜんぶカバーなどできやしないでしょう。そこは全国にあまたの大学があり、自分のやりたいことに合致する大学院に進学すればいい。人文学は、どの地域にも、人の暮らしある限り、生きた人々がおり、残してきたものがあり、それを研究する必要なものなのである。
【追記】うちの文学部、2000年に赴任したころは108名の定員だったが、いまや69名です。さらに減るようです。
◆法科大学院について、お前のトコロやめろと指示できるようにするとかなんとか、しばらく前に記事にありました。文科省が法曹人を増やすために作ったものでしょ、そのために大学は金をかけて体制を整え、環境整備などして対応したのですよ。それをあんた、すっかり道筋を別のものにして、お前らの言うとおりやったものをつぶしにかかるんか。金返せ。保証しろ、ということだ。間違ってましたと頭を下げんかい。
◆文科省の言うことなんぞ、しばらく寝かして様子を見ることです。さっそくに対応することが無駄になることが多いんとちゃいますか。なんか言っとる、くらいで。恫喝があっても、やってみい、と開き直ればよい。
◆国立大学の人文系など、役に立つ人材を育てられないところをつぶすといった記事が出てまし
◆理系のいろんな分野があり、とても1大学でぜんぶカバーなどできやしないでしょう。そこは全国にあまたの大学があり、自分のやりたいことに合致する大学院に進学すればいい。人文学は、どの地域にも、人の暮らしある限り、生きた人々がおり、残してきたものがあり、それを研究する必要なものなのである。
【追記】うちの文学部、2000年に赴任したころは108名の定員だったが、いまや69名です。さらに減るようです。
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けいたいさん
◆継体はやはり王族で、息長氏とみるべきではないとのこと。ワカノケフタマタがおり、オオホド王がいて、オシサカオオナカツヒメがいると。倭国王が重要な拠点に王族を分封するということは、古墳時代にあると考えるべきなのでしょう。太田茶臼山は、森田さんの言うようにオオホドとみるのが妥当なんだと思います。応神394没、継体527没、単純な割り算で、1世代25年。オオホドはほぼ450年前後没となり、茶臼山にふさわしい。フタマタは425くらいで、墓山とかがいいのかもしれません。
◆三島の王族墓といえるのは茶臼山で、誉田御廟山型というのが妥当なら、フタマタ王家の次世代のオオホドは反正の段階に三島に封じられたということになる。王族の分封ということを考える上で、茶臼山は重要な位置を占める。
◆問題はそのあとで、1世代のみ。妹が允恭のキサキとなるも、三島の王としての地位は次世代では認められないということ。オシサカオオナカツヒメが允恭キサキであるので、一定の優遇が続いてもよさそうだが、そこは厳しい対処といえようか。三島県というのも、茅渟県などを考えれば、オオホドを送り込んだが、直轄化に移行し、領地は取り上げられ、三島県を設け、その管掌は県主にまかされると。フタマタ王家としては、オシ王、ウシ王と続くものの、オオホド後はどこへ行ったのか。田中大塚がどうのこうのという議論があったが、あれは何だったか(読み直そう)。近江に移されたのでしょうか(フタマタ王家の奈良南部の領地であるオシサカは、ナカツヒメ後も伝領されていくのでしょうが)。
◆即位前の継体は、どこにいたんでしょうか。やはり近江なんでしょうかね。近江各地や北陸や尾張との関係が深く、婚姻関係を結ぶが、王族としての出自は三島にあり、山城を含めてオオホド王との関係も引き継がれているのでしょうか。恵解山は上石津ミサンザイ型で、久津川は誉田御廟山型とみているが、その上には太田茶臼山があって、密接な関係を保持していたとみられ、允恭即位後、退転はするものの、そうしたつながりは完全になくなるわけではないのだろう。継体が担ぎ出されることにより、三島県を王権拠点にしたと。
◆継体は日常、どこで政務していたんだろうか。隅田八幡の鏡で503にオシサカにいると。磐余宮は即位後20年も経ってからだと。入れなかったというが、そうではないと。一方で、今城塚こそ、王宮か王墓という議論において、大和じゃなく、権力基盤と思われる地に王墓を営んだとみられる事例になり、河内の王墓だって、王宮伝承のある奈良南部じゃなく王墓造営地こそが本拠地だという根拠として考えてきた。が、本拠地は三島と考えながらも、大和に入れなかったわけじゃないという議論、そして6世紀に奈良南部が中心になってくるイメージから、権力基盤は三島にあるが、奈良南部にいるんだろうと漠然と考えてきた。が、森田さんは三島やと思っているのだと思う。その主張を読んでいると、そうかもしれないなと。自分の勢力基盤という意味のみならず、畿内のなかで東西日本をつなぐ要所にあるのが淀川流域の三島で、大和・河内という古い王権に対し革新的な意義がある。
◆継体にとって、三島は権力基盤ではあるが生まれ育った場所ではなく、王位に就き大和の御田を与えられるも、もっと疎遠である。王権を支える中央豪族は、それぞれ大和にも河内にも本拠をもつ。大伴は大和築坂はわからんが最終的に住吉に引きこもる。物部も中河内と布留。大臣や大連とともに合議するとして、その前は河内であったわけであり、それが三島になるだけか。継体の王宮として、樟葉・乙訓・綴喜はあっても三島はないとの意見はあろうが、それらよりも三島のどまんなかの方がふさわしい。大伴も物部もその他中央豪族は、三島に必要な場合にはせ参じる、それでよいのではないか。継体については、そう考えるようになった。
◆次の世代である。とはいえ、安閑は即位するも排除されるわけだが、継体生前の話である。マガリ大兄とセンカという2人のメノコヒメを母とする子がいる。で、安閑未完陵である河内大塚山は松原にある。センカはよくわからないが、宣化陵は大和の畝傍山の西にある。王墓の所在地こそ本拠地との論理からすれば、安閑の本拠地は丹比である。そこは古市の本拠地でない、やや西に寄った位置であることが意味深長か。しりきれとんぼです・・・
◆いや~、近畿にいる者としては、吉備や日向のこともやれば面白いのですけど、それより近畿の古墳のあり方から話を作っていくのが本務だと改めて思うわけです。古墳の年代もかなり詰まっている、倭国王墓との関係について墳形はやはり有意。そういうことをふまえ、また記紀を参照すれば、もっと立体感のある歴史像を打ち出すことができるのでは、そういうことに一所懸命にならんとあかんな、と思う次第。どこから手をつければいいのか、しんどいですが。
◆三島の王族墓といえるのは茶臼山で、誉田御廟山型というのが妥当なら、フタマタ王家の次世代のオオホドは反正の段階に三島に封じられたということになる。王族の分封ということを考える上で、茶臼山は重要な位置を占める。
◆問題はそのあとで、1世代のみ。妹が允恭のキサキとなるも、三島の王としての地位は次世代では認められないということ。オシサカオオナカツヒメが允恭キサキであるので、一定の優遇が続いてもよさそうだが、そこは厳しい対処といえようか。三島県というのも、茅渟県などを考えれば、オオホドを送り込んだが、直轄化に移行し、領地は取り上げられ、三島県を設け、その管掌は県主にまかされると。フタマタ王家としては、オシ王、ウシ王と続くものの、オオホド後はどこへ行ったのか。田中大塚がどうのこうのという議論があったが、あれは何だったか(読み直そう)。近江に移されたのでしょうか(フタマタ王家の奈良南部の領地であるオシサカは、ナカツヒメ後も伝領されていくのでしょうが)。
◆即位前の継体は、どこにいたんでしょうか。やはり近江なんでしょうかね。近江各地や北陸や尾張との関係が深く、婚姻関係を結ぶが、王族としての出自は三島にあり、山城を含めてオオホド王との関係も引き継がれているのでしょうか。恵解山は上石津ミサンザイ型で、久津川は誉田御廟山型とみているが、その上には太田茶臼山があって、密接な関係を保持していたとみられ、允恭即位後、退転はするものの、そうしたつながりは完全になくなるわけではないのだろう。継体が担ぎ出されることにより、三島県を王権拠点にしたと。
◆継体は日常、どこで政務していたんだろうか。隅田八幡の鏡で503にオシサカにいると。磐余宮は即位後20年も経ってからだと。入れなかったというが、そうではないと。一方で、今城塚こそ、王宮か王墓という議論において、大和じゃなく、権力基盤と思われる地に王墓を営んだとみられる事例になり、河内の王墓だって、王宮伝承のある奈良南部じゃなく王墓造営地こそが本拠地だという根拠として考えてきた。が、本拠地は三島と考えながらも、大和に入れなかったわけじゃないという議論、そして6世紀に奈良南部が中心になってくるイメージから、権力基盤は三島にあるが、奈良南部にいるんだろうと漠然と考えてきた。が、森田さんは三島やと思っているのだと思う。その主張を読んでいると、そうかもしれないなと。自分の勢力基盤という意味のみならず、畿内のなかで東西日本をつなぐ要所にあるのが淀川流域の三島で、大和・河内という古い王権に対し革新的な意義がある。
◆継体にとって、三島は権力基盤ではあるが生まれ育った場所ではなく、王位に就き大和の御田を与えられるも、もっと疎遠である。王権を支える中央豪族は、それぞれ大和にも河内にも本拠をもつ。大伴は大和築坂はわからんが最終的に住吉に引きこもる。物部も中河内と布留。大臣や大連とともに合議するとして、その前は河内であったわけであり、それが三島になるだけか。継体の王宮として、樟葉・乙訓・綴喜はあっても三島はないとの意見はあろうが、それらよりも三島のどまんなかの方がふさわしい。大伴も物部もその他中央豪族は、三島に必要な場合にはせ参じる、それでよいのではないか。継体については、そう考えるようになった。
◆次の世代である。とはいえ、安閑は即位するも排除されるわけだが、継体生前の話である。マガリ大兄とセンカという2人のメノコヒメを母とする子がいる。で、安閑未完陵である河内大塚山は松原にある。センカはよくわからないが、宣化陵は大和の畝傍山の西にある。王墓の所在地こそ本拠地との論理からすれば、安閑の本拠地は丹比である。そこは古市の本拠地でない、やや西に寄った位置であることが意味深長か。しりきれとんぼです・・・
◆いや~、近畿にいる者としては、吉備や日向のこともやれば面白いのですけど、それより近畿の古墳のあり方から話を作っていくのが本務だと改めて思うわけです。古墳の年代もかなり詰まっている、倭国王墓との関係について墳形はやはり有意。そういうことをふまえ、また記紀を参照すれば、もっと立体感のある歴史像を打ち出すことができるのでは、そういうことに一所懸命にならんとあかんな、と思う次第。どこから手をつければいいのか、しんどいですが。
宇治の古代官道
◆いま宇治橋にまっすぐつながる斜め道、これ巨椋池を迂回し、宇治川を渡り、山科に抜け近江に
至る重要ルートとして昔からあるものではあるが、この直線道そのものも古代に整備されたとみるのが自然。が、宇治橋は昔はより上流部で、平等院の拡張のなかで前に出したと考えられているらしい。斜め道も宇治川手前で東西道になっていたとするのかな。そうかもしれませんが。たしかに宇治川に橋を架けるのは難事業で、中州がある上流部の方がやりやすいだろう。が、7世紀的に考えると、やはり直線道で宇治川を渡河するようにしたが、なんぼ作っても橋が流れてしまうなかで上流部に架け直され、それが再び下流側になる、とみた方がいいんではないか、などと考えていた。勉強が足りません。
平等院
◆前に歴史学ハイキングで宇治に来たのはいつだったか。鳳凰堂は修理中?、ミュージアムはでき
ていた。今度、平成の修理が行われ、外側の塗装をやりかえ瓦を葺き直し、昨2014年に竣工したところで、色が鮮やかである。鳳凰堂は、平等院に入る入館料とは別に金を払って少人数ごとに入るようにしてあり、2時間待ちというのでスルー。えらい人がぎょうさんいてます。大観光地ですね。
◆ミュージアムとかでちゃんとパネルを読んでいくと、いかに茶のあきないが宇治を支えてきたかがよくわかる。上林家というのが代官。そういう近世のあり方はあんまり今回のテーマになっていなかったが、こっちの関心がそういう方面に向いてきているので、上林記念館とか、そういう選択肢もあったように思う。昼飯の自由時間で町歩き
をする。もひとついうと、交通の要衝というのも、いますこし解説がほしいところ。古来、いくたの戦いが宇治川で行われていることの意味ですね。
◆でウジノワキイラツコを宇治神社で祀っていると。陵墓も作られた。住吉中皇子が宇治宮を攻めるべく進軍し、宇治で溺れさせられた。で、ウジノワキイラツコって誰なんですか。いるんですか。応神とミヤヌシヤカワエヒメとの間に生まれたワキイラツコ。応神の子であるワカヌケフタマタ王のことを考え、太田茶臼山はオオホド王墓なんだろうと思うが、そういう畿内の要所に王族を配置するということはありうるのだが、ウジノワキイラツコなり宇治宮なりが営まれたこともありえたと思わせる中期はじめの前方後円墳はない。近いところでいえば久津川車塚があるが、まあ宇治じゃないですわな。
◆ウジノワキイラツコとオオササギの譲り合い、というか、その前の応神の詔り分けというのは、実はオオササギとイザホワケの間のことで、ウジ=オオササギと思っているが・・・。むしろ6世紀の宇治二子塚の方が重要で、これを考えないといけませんね。
◆ミュージアムとかでちゃんとパネルを読んでいくと、いかに茶のあきないが宇治を支えてきたかがよくわかる。上林家というのが代官。そういう近世のあり方はあんまり今回のテーマになっていなかったが、こっちの関心がそういう方面に向いてきているので、上林記念館とか、そういう選択肢もあったように思う。昼飯の自由時間で町歩き
◆でウジノワキイラツコを宇治神社で祀っていると。陵墓も作られた。住吉中皇子が宇治宮を攻めるべく進軍し、宇治で溺れさせられた。で、ウジノワキイラツコって誰なんですか。いるんですか。応神とミヤヌシヤカワエヒメとの間に生まれたワキイラツコ。応神の子であるワカヌケフタマタ王のことを考え、太田茶臼山はオオホド王墓なんだろうと思うが、そういう畿内の要所に王族を配置するということはありうるのだが、ウジノワキイラツコなり宇治宮なりが営まれたこともありえたと思わせる中期はじめの前方後円墳はない。近いところでいえば久津川車塚があるが、まあ宇治じゃないですわな。
◆ウジノワキイラツコとオオササギの譲り合い、というか、その前の応神の詔り分けというのは、実はオオササギとイザホワケの間のことで、ウジ=オオササギと思っているが・・・。むしろ6世紀の宇治二子塚の方が重要で、これを考えないといけませんね。
木曜日は某所の測量
◆木曜日はうってかわっての快晴も快晴。山から見ると、ハルカスがあり六甲山が見える。海は見えないが、昔はよく見えたことでしょう。なんとか1日で予定箇所をすべて終えた。そのあと寝屋川のスーパー銭湯で2時間、湯治。露天で仰向けになり快晴の空を見上げ、暮れていくのを18時から20時まで眺め、サウナで阪神の試合を見ていました。
◆翌日は、そのトレース。金曜日はそんなんで暮れていきました。
◆翌日は、そのトレース。金曜日はそんなんで暮れていきました。
水曜日は雨
◆某所へ出向くつもりが、前日の天気予報ではかなり降るが9時頃にはやんで、なんとか作業はできると思っていたが、今日の天気予報では、その後も雨が来るとのことで、明日全力を上げることにして中止。おかげでヒストリアの仕事などはできたが、その他、いろんなことを、やってもやっても終わらず、疲弊してきました。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。