人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
3日間の岡山
◆土曜日に造山蘇生会というところに招かれ講演をしたのですが、前日に入って夜の懇親会付き。
岡山市から連絡あり、総社で茶臼嶽古墳という前方後方墳を掘っているので早めに来て見に行きませんか、と。それで、金曜日は11時岡山駅待ち合わせで総社に行き、また岡山駅に送ってもらい、ホテルに入る。その前に隣の岡山市博を見学。翌日の土曜日は、話をするのは午後なのですが、午前中適当に遺跡見学ということになっていたのですが、そこは案内いただくのも申し訳ないし、なによりパワポができていないので、1人で会場に行きますからということにする。
◆前日、懇親会でお酒をしっかり呑み、全日空ホテルという、ふつうは泊まらないようなええところに泊まるが、21時にはベッドに倒れてそのまま寝る。4時半頃目が覚め、そこからパワポを造り、朝方には完了。で11時半頃に吉備線備中高松に行くには時間がある。4月の考古学研究会の時、ホテルで鍵を忘れてきたので(そのままにしてました)、電話したらあるというので、タクシーに乗って取りに行き、そのまま後楽園まで行き、30年ぶりに県博に行きました。帰りはバスで岡山駅に行き、吉備線で高松駅に降り立ち、公民館はどこやねん、と人にききつつ辿り着く。前に千足の調査指導で来たところでした。
◆午後、無事に終了し、岡大が造山を測っていたときに3年ほど手伝いに行きましたが、その時にお会いした彫刻家の方も蘇生会のメンバーで懇親会も一緒だったんですが、岡山駅まで送っていただきました。
◆そこからです。実はカミサンと津山に行く計画を立てていたのです。むこうは東京出張から岡山へ。列車は17:10。日曜日は朝8時から15時まで津山を歩き回りました。15:30の高速バスで大阪駅まで帰り着き、2泊3日のぎゅ~と詰まった行事は終了した。ブログのネタが50くらいあるけれど、これを書いているヒマはないので、またいずれ。
◆学問的にも、いくつも大きな収穫がありましたが、これもまたいずれ。次は土曜日の弥生博の準備に入ります。
◆前日、懇親会でお酒をしっかり呑み、全日空ホテルという、ふつうは泊まらないようなええところに泊まるが、21時にはベッドに倒れてそのまま寝る。4時半頃目が覚め、そこからパワポを造り、朝方には完了。で11時半頃に吉備線備中高松に行くには時間がある。4月の考古学研究会の時、ホテルで鍵を忘れてきたので(そのままにしてました)、電話したらあるというので、タクシーに乗って取りに行き、そのまま後楽園まで行き、30年ぶりに県博に行きました。帰りはバスで岡山駅に行き、吉備線で高松駅に降り立ち、公民館はどこやねん、と人にききつつ辿り着く。前に千足の調査指導で来たところでした。
◆午後、無事に終了し、岡大が造山を測っていたときに3年ほど手伝いに行きましたが、その時にお会いした彫刻家の方も蘇生会のメンバーで懇親会も一緒だったんですが、岡山駅まで送っていただきました。
◆そこからです。実はカミサンと津山に行く計画を立てていたのです。むこうは東京出張から岡山へ。列車は17:10。日曜日は朝8時から15時まで津山を歩き回りました。15:30の高速バスで大阪駅まで帰り着き、2泊3日のぎゅ~と詰まった行事は終了した。ブログのネタが50くらいあるけれど、これを書いているヒマはないので、またいずれ。
◆学問的にも、いくつも大きな収穫がありましたが、これもまたいずれ。次は土曜日の弥生博の準備に入ります。
ふじのき
◆10月に生駒で話をしないといけないのですが、竹林寺古墳について調べなあかんな~とは思っているのですが、より広く平群も入れ、土地勘はないが富雄丸山も考えてと・・・。
◆で藤木なんですけど、新泉社のシリーズ本があったのでぱらぱらと。最初は、これが穴穂部とかなんとか言ったところで、ぜんぜん斑鳩地域の歴史になってないやん、ということを書こうとしておりました。被葬者論だけではダメですよね。なぜそこかという必然性にも合致しないと。上宮王家以前の斑鳩はどうなっとんのか、ぜんぜん知らないけれど。まずなにより藤木はいつやねん。560年くらいでもおかしくないとのN先生の大刀の話がありました。MT85くらいでTK43よりは前でもおかしくないだろう。丸山が571没の欽明墓なので、藤木の石室が550年代でも問題ない。
◆で、ぱらぱらやっていると、表の一番上、箭田大兄ちゃうか、と。552没です。+石前皇女?(これはいつまで生存が確認できるか調べないといけません)。
◆まあ、被葬者論だけではあかんと自分で言っているのに、結局それかと笑ってください。でも、こないだ葛城に行きましたが、飯いまの香芝は敏達の所領とか聞いたことがあり、馬見丘陵周辺は敏達系の所領として、長屋王までいきますよね。尼寺廃寺もある。このへんなんかも、もっと明確な歴史像が描けそうなもんである。そして対岸に斑鳩があり、王寺があり、平群がありと、いろんなことを結びつけ構築できるような気もするのですが。シヅミも前から気になっているわけです。市辺の子がなんで美嚢郡の志染に逃げなあかんねん、と。保護するとすれば葛城残存勢力ですよね。北部。そこにシヅミがある。ほんまはしづみちゃうんか、と前から思っているわけです。欽明段階に王権は大きく伸張した。箭田が早くに死んでしまい、のちの敏達がその地位を継ぐが、彦人や茅渟王といった敏達の子らの本拠地が馬見丘陵周辺にあり、それが元は欽明段階に敏達に与えられたと考えられている根拠なのかもしれませんが、それは元は箭田の利権だったっていいと思うわけです。あるいは兄弟で、斑鳩から香芝のあたりを占めていたのかもしれません。そんなんで、藤木の被葬者が箭田である必然性が示せたとは思いませんが、まあ少なくとも、香芝あたりの葛城北部あたりについては、いろいろ古墳はあるけど、まったく歴史的展開の像はピントしていないわけである。
◆で藤木なんですけど、新泉社のシリーズ本があったのでぱらぱらと。最初は、これが穴穂部とかなんとか言ったところで、ぜんぜん斑鳩地域の歴史になってないやん、ということを書こうとしておりました。被葬者論だけではダメですよね。なぜそこかという必然性にも合致しないと。上宮王家以前の斑鳩はどうなっとんのか、ぜんぜん知らないけれど。まずなにより藤木はいつやねん。560年くらいでもおかしくないとのN先生の大刀の話がありました。MT85くらいでTK43よりは前でもおかしくないだろう。丸山が571没の欽明墓なので、藤木の石室が550年代でも問題ない。
◆で、ぱらぱらやっていると、表の一番上、箭田大兄ちゃうか、と。552没です。+石前皇女?(これはいつまで生存が確認できるか調べないといけません)。
◆まあ、被葬者論だけではあかんと自分で言っているのに、結局それかと笑ってください。でも、こないだ葛城に行きましたが、飯いまの香芝は敏達の所領とか聞いたことがあり、馬見丘陵周辺は敏達系の所領として、長屋王までいきますよね。尼寺廃寺もある。このへんなんかも、もっと明確な歴史像が描けそうなもんである。そして対岸に斑鳩があり、王寺があり、平群がありと、いろんなことを結びつけ構築できるような気もするのですが。シヅミも前から気になっているわけです。市辺の子がなんで美嚢郡の志染に逃げなあかんねん、と。保護するとすれば葛城残存勢力ですよね。北部。そこにシヅミがある。ほんまはしづみちゃうんか、と前から思っているわけです。欽明段階に王権は大きく伸張した。箭田が早くに死んでしまい、のちの敏達がその地位を継ぐが、彦人や茅渟王といった敏達の子らの本拠地が馬見丘陵周辺にあり、それが元は欽明段階に敏達に与えられたと考えられている根拠なのかもしれませんが、それは元は箭田の利権だったっていいと思うわけです。あるいは兄弟で、斑鳩から香芝のあたりを占めていたのかもしれません。そんなんで、藤木の被葬者が箭田である必然性が示せたとは思いませんが、まあ少なくとも、香芝あたりの葛城北部あたりについては、いろいろ古墳はあるけど、まったく歴史的展開の像はピントしていないわけである。
和泉市史信太編が刊行されました
◆しばらく前にもらう。(1)黄金塚系譜が5世紀後半に池田谷に移配され(時期と須恵器年代との
擦り合わせがもう少し必要)、谷山池で須恵器生産にあたり、万町北遺跡を残し、7世紀には谷の北岸に移動し池田寺遺跡を営み寺院を造営する池田朝臣だ。(2)根使主は府中域の和泉最大勢力で、丸笠山以来の古墳を残した系譜に連なる人物で、5世紀後半に雄略にやられ、本拠地には茅渟県が置かれ、県主の袋かつぎとされ、池田谷の坂本に追いやられ、6世紀に太田井を掘り、推古朝には中央豪族化して坂本寺を築く。(3)両者は4世紀後葉から5世紀前半にかけて、信太と府中域の隣り合う在地勢力で、根使主事件を経て退転するが、復活を遂げ、7世紀に軽寺式軒丸瓦を共有する関係を維持している。
◆これがストーリーです。観光には関係ありません。遺跡や文献資料を総合的に考えて、地域の歴史の動態を、間違っていてもいいから筋道を作っていくことの、ささやかな試みです。こうしたストーリーが地域住民に遺跡を語る上で不可欠と考えている。もちろん学問的裏付けのある話として。
◆また、研究って面白いなと思う。市史編纂という事業あって急速に進んだという面はあるが。長丁場にわたって、合同調査15年、和泉を調査してきました。古代和泉郡研究会で文献史の人の話をいろいろ聞く機会もありました。坂本寺の瓦を調査し、干上がった谷山池で須恵器も拾いました、そんな営みの蓄積によって、古代史のイメージもかなり明確になり、そこに古墳時代史像を重ね、一定の物語を描くことができるようになる。根使主とは何ぞや、ということについても答を見つけました。紀小弓が淡輪に葬られたという記事は重要ですが、それがニサンザイ古墳の造り出し位置の方墳ではないかというオマケももらいました。研究は、やったらやっただけ進みます。
◆これがストーリーです。観光には関係ありません。遺跡や文献資料を総合的に考えて、地域の歴史の動態を、間違っていてもいいから筋道を作っていくことの、ささやかな試みです。こうしたストーリーが地域住民に遺跡を語る上で不可欠と考えている。もちろん学問的裏付けのある話として。
◆また、研究って面白いなと思う。市史編纂という事業あって急速に進んだという面はあるが。長丁場にわたって、合同調査15年、和泉を調査してきました。古代和泉郡研究会で文献史の人の話をいろいろ聞く機会もありました。坂本寺の瓦を調査し、干上がった谷山池で須恵器も拾いました、そんな営みの蓄積によって、古代史のイメージもかなり明確になり、そこに古墳時代史像を重ね、一定の物語を描くことができるようになる。根使主とは何ぞや、ということについても答を見つけました。紀小弓が淡輪に葬られたという記事は重要ですが、それがニサンザイ古墳の造り出し位置の方墳ではないかというオマケももらいました。研究は、やったらやっただけ進みます。
中山茶臼山
◆行燈山です。重なり方を見ると、茶臼山の東北の斜面部についても一定の説明が可能だと思う。
大枠は2段分なんだけど。後円部径はそこまで取れず、しかし行燈山後円部径の分を張り出させて大きさを実現しているように思う。
◆これで4世紀前葉の話がひとつ。吉備津彦でもおかしくはない。丹後の湧田山もそうだし、会津大塚山古墳も。四道将軍といったとたん袋だたきに遭うが、4世紀前葉が王権の伸張の画期であると思っており、四道将軍の伝承もそれを反映すると思っている。
◆でキンクラは五社神でばっちりなんだが、陵山型がほしいところ。神宮寺山なんでしょうか。さて、神宮寺山の図はどこにあったか・・・。岡山市史だったですよね。
【追記】すごい、リポジトリがある。が旧図はないような・・・
◆これで4世紀前葉の話がひとつ。吉備津彦でもおかしくはない。丹後の湧田山もそうだし、会津大塚山古墳も。四道将軍といったとたん袋だたきに遭うが、4世紀前葉が王権の伸張の画期であると思っており、四道将軍の伝承もそれを反映すると思っている。
◆でキンクラは五社神でばっちりなんだが、陵山型がほしいところ。神宮寺山なんでしょうか。さて、神宮寺山の図はどこにあったか・・・。岡山市史だったですよね。
【追記】すごい、リポジトリがある。が旧図はないような・・・
大学史にずぶずぶと
◆博物館実習展を通して、大学史資料室にお世話になり、学情にお世話になりしていた。が、前年度末から、大学史移転のWGのメンバーとなり、また4月から大学史運営委員会の文学部委員となり、会議があって、深みに入っている。学長裁量経費の原案を書くことにもなった。展示設計の委託費を取ってくるための申請書である。別途、構想中の大学ミュージアムとは切り離した形ではあるが、既に大学史の展示設計にかかわりつつあるということだ。生活科学の先生のところで絵は描いてくれるのも大きい。展示室壁面や空間や、そこを出たフロアの展示など、こっちで絵も描いてみたい気もあるが、そこは切り分けておこう。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。