人を幸せにする人になろう

ふじのき

◆10月に生駒で話をしないといけないのですが、竹林寺古墳について調べなあかんな~とは思っているのですが、より広く平群も入れ、土地勘はないが富雄丸山も考えてと・・・。
◆で藤木なんですけど、新泉社のシリーズ本があったのでぱらぱらと。最初は、これが穴穂部とかなんとか言ったところで、ぜんぜん斑鳩地域の歴史になってないやん、ということを書こうとしておりました。被葬者論だけではダメですよね。なぜそこかという必然性にも合致しないと。上宮王家以前の斑鳩はどうなっとんのか、ぜんぜん知らないけれど。まずなにより藤木はいつやねん。560年くらいでもおかしくないとのN先生の大刀の話がありました。MT85くらいでTK43よりは前でもおかしくないだろう。丸山が571没の欽明墓なので、藤木の石室が550年代でも問題ない。
◆で、ぱらぱらやっていると、表の一番上、箭田大兄ちゃうか、と。552没です。+石前皇女?(これはいつまで生存が確認できるか調べないといけません)。
◆まあ、被葬者論だけではあかんと自分で言っているのに、結局それかと笑ってください。でも、こないだ葛城に行きましたが、飯いまの香芝は敏達の所領とか聞いたことがあり、馬見丘陵周辺は敏達系の所領として、長屋王までいきますよね。尼寺廃寺もある。このへんなんかも、もっと明確な歴史像が描けそうなもんである。そして対岸に斑鳩があり、王寺があり、平群がありと、いろんなことを結びつけ構築できるような気もするのですが。シヅミも前から気になっているわけです。市辺の子がなんで美嚢郡の志染に逃げなあかんねん、と。保護するとすれば葛城残存勢力ですよね。北部。そこにシヅミがある。ほんまはしづみちゃうんか、と前から思っているわけです。欽明段階に王権は大きく伸張した。箭田が早くに死んでしまい、のちの敏達がその地位を継ぐが、彦人や茅渟王といった敏達の子らの本拠地が馬見丘陵周辺にあり、それが元は欽明段階に敏達に与えられたと考えられている根拠なのかもしれませんが、それは元は箭田の利権だったっていいと思うわけです。あるいは兄弟で、斑鳩から香芝のあたりを占めていたのかもしれません。そんなんで、藤木の被葬者が箭田である必然性が示せたとは思いませんが、まあ少なくとも、香芝あたりの葛城北部あたりについては、いろいろ古墳はあるけど、まったく歴史的展開の像はピントしていないわけである。

プラグイン

カレンダー

08 2024/09 10
S M T W T F S
2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13
16 17 18 19 20
22 23 24 25 26 27 28
29 30

カテゴリー

フリーエリア

最新コメント

最新トラックバック

プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

バーコード

ブログ内検索