人を幸せにする人になろう

田辺市歴史民俗資料館2012年12月開館

◆まず、前に来た田辺城(錦水城)の水門石垣。いまW市のW城展示リニューアルを担当している S君に解説してもらった。少しその先に行くと、前にも書いたかもしれませんが、いま教会ある高台に台場があり、そこもちらりと。そして歴史民俗資料館に行く。前に田辺に来たときは、おそらく開館直前だったのだろう。いま喜界島にいるTさんが、白浜でさんざん酔っぱらった、あの研究室旅行である。
◆1階が図書館で、2階が歴史民俗資料館。入口に突線鈕の銅鐸のホンモノがでんと座り、高山寺貝塚の押型文、凹線文の弥生土器。岩陰遺跡、古目良の製塩土器、などなどがならぶ。そして三栖廃寺の瓦。顎面に型挽きのある重弧文など。きっと紀伊半島で最南端の古代寺院なのだろう。
◆中世はあんまりなかったが、熊野別当の家があったはず、そういう展示はなかったように思う。ちなみに平成の大合併で、熊野本宮は田辺市となっている。以下、ウィキ。

治承・寿永の乱以来、平家方に与していた田辺家出身の湛増(1130年 - 1198年)は、本宮・田辺 勢を率いて、源氏方に味方していた新宮・那智勢と新宮で合戦したが、敗退した。 権別当となった湛増は自らと対立する弟の湛覚を攻め滅ぼしたのを手始めに、熊野における政治的主導権を一気に掌握するべく内乱を引き起こし、平氏政権による太平洋・瀬戸内海航路の支配に不満を抱く海賊衆の組織化に成功したこともあって、東は尾張から西は阿波までの地域を反平氏・親源氏に一挙に塗り替えることに成功した。これにより、熊野別当家は完全に源氏方に味方することとなった。
寿永3年(1184年)、湛増は21代別当になり、鳥居禅尼の子・行快(1146年 - 1202年)が権別当となった。寿永4年(1185年)、湛増は熊野水軍を率いて源氏軍に合流し、壇ノ浦の戦いで源氏の勝利に貢献した。この功績によって湛増は、源頼朝から、上総国に広大な所領をもつ領家に任じられた。これにより、以前からの所領とあわせて田辺家の財政はおおきな収入を得るようになった。
承久3年(1221年)に承久の乱が起こり、後鳥羽院が倒幕の兵を挙げると、田辺家の快実(湛顕の嫡男)と新宮家の尋快(行快の嫡男)が上皇方に参加した。
加えて、戦いは幕府の一方的な勝利に終り、多くの荘園・所領・所職が失われた。特に田辺家は快実をはじめ次代を担う人材を数多く失ったばかりか、近接する南部庄や芳養上庄に幕府が地頭を送り込んできたことで、財政基盤が損なわれるにとどまらず、幕府の監視下におかれるようになった。

近世。紀州徳川初代のたぶん大阪と江戸との間の海運にかかわり栄えたのだろう。

朝飯を食べにブ~ラブラ

◆ゆっくり寝て、8:30過ぎ、朝食券があって、3軒の店を選びモーニングを食べにいくみたい。ゴリ ラというところにして、歩き始める。さかえまち商店街を行き、銀座通り というのを行き、たどりつく。田辺は城下町。江戸時代以来栄え、町はかなり大きい。道路をはさんで町の名前が付いており、古い町であることを感じさせる。むろん、商店街の一定の店はシャッターを下ろしてはいるが、まだまだ頑張っている。そのなかで銀座通りというのは、新たに現代風の町をつくろうとしているようで、飲食店などがならぶ。そこを抜け、隣町にはいったところのゴリラに入る。
◆そこでマップを見ながら、行くところを考える。車で周囲や少し距離のあるところを見て回り、そのあと駅前の駐車場に車を入れて、町歩きをしようということになる。数年前に研究室旅行で来 たことがあるが、その時は南方熊楠の資料館と城の水門跡を見ただけだっ た。もったいない。
◆モーニングを食べ、違う道を通って宿に帰る道すがら、餅屋さんにでくわす。お彼岸というので、多くの客が入っており、おはぎなどを買い求めていた。こっちはここの名物の、おけし餅というのを2個買う。こういうのも町歩きの楽しみである。

紺屋町家

◆2件目で、こっちはいろいろ食い、宿に入ったのは23時頃か。これがなかなかいいところでした。 1人だと7000円、2人だと5000円、6人だと3000円だったか。なんでも、和 歌山のいろんな職人が関与し、こじゃれた調度 に、真新しいトイレや風呂やら、キッチンやら、実に手頃でいい雰囲気である。こんな家に住みたいものである。田辺や熊野古道など、あらゆるパンフレットを集めてくれており、梅酒のおみやげももらい、至れり尽くせり。風呂に入って早々に寝る。
◆写真は翌朝、撮ったもの。テーブルのあるのは1階、梁の見えるのは寝間のある2階。ここ、お奨めです。

3月20日、紀伊田辺へ

◆10時から市大ミュージアムの件で大学史資料室に行き、各研究科のもつ資料について概略を教 えてもらう。めぼしいものは把握されているのかもしれないが、当時の運営委員の人の知る範囲で、まだまだわかっていないのだろう、と思う。
◆教授会。終了後、年2回の研究科懇親会があり、とくに3月なので送別会でもあるのだが、このところまったくこの手の宴会に出ていない。本日も、紀伊田辺に向かうことになっている。カミさんが、この日、仕事で由良町で授業をやることになっており、中・高の同級生がいま田辺市におり、その人の世話で民家をリニューアルした宿泊所に泊まることになっており、行くことにした。1ヶ月の現場の骨休め。21日は田辺でゆっくりし、日曜日は働くぞと。
◆17:30に教授会は終わり2 時間で到着。いまは紀伊田辺まで高速道路が伸びているのだが、カーナビが古く、指示されるまま「みなべ」で降り、田辺へ。
◆番地でカーナビを入れ、ほぼ来ているのだが、場所がわからん。夜でもあり。スーパーのおばさんに聞いて、ようやく場所を確認。駐車場についても、近所の人に教えられる。で、駅前に向かう。17時頃から呑み始め、すっかりできあがっている様子。駅前新道の飲み屋街を抜けて駅にたどり着く。結局、その店はわかりにくくて場所が説明しづらいということで、迎えに行くなら、もう出るというので、駅前で待ち合わせる。そしたら、宿の近くで2軒目に入ろうということになり、オレにしてみれば、元来た道をそのまま引き返すこととなる。なんやそれは、と言いたいこともあるが、なにせ2人とも酔っぱらっており、まあしゃーない。

堺台場シンポ

◆チラシをもらったので掲げておきます。南台場はよく残っています。それと大浜公園が内国勧業 博覧会の第2会場で、日本初の水族館があり、関西の一大リゾート地であった歴史が、もっと顕彰されてもいいのにと思っています。ひとつひとつの歴史遺産を、ひとつずつサインなど充実させ、文化と歴史の匂いのする町づくりが進むことを期待している。
◆なお、堺港の場所は、中世以来変わりがないだろう。いまはヨットハーバーだけど、堺の南蛮文化を打ち出すのに、港の場所そのものをもっと活用できないものか。それにとどまらず、この港、古墳時代までさかのぼっておかしくないと思っている。砂堆があり、一定の幅のある停泊地だったかもしれないが、現堺港の位置そのものがより古くに遡るのでは、と「丹比道」との関連で考えている。
◆現場が終わり、いよいよ大会報告の準備にかからないと間に合わない。なので、台場シンポには行けないと思うが・・・。

3月19日

◆雨。天王寺のレンタカー屋8:30過ぎ。本日はうちの学生・院生フルメンバー(といっても5人だ が)。車塚のごく近くのセブンイレブンに出てくるよう学生等に指示し、まさにコンビニの駐車場に入ろうとする時、交差点に侵入した車があり、その前でおばあさんが倒れているのを視認、サーとうちの学生が救助に走るのが見えた。おそらく車には当たっておらず、車が入ってくるのに驚いて倒れたのだろう。しばらくして立ち上がり、身柄を確保。ほどなく救急車が来る。事故として処理されていないかも知れない。目撃した者として状況説明が必要かとも思ったが、そのまま宿舎へ。
◆宿舎の器財を積み、現場の発掘器財は夏まで城陽で保管してくれることになったので、測量道具だけを持ち帰ることとし、城陽の整理事務所へ。これが11時。出土遺物の台帳登録を全員でやり、ほぼ12時過ぎに完了。弁当を食べ、1ヶ月分の支払いを済ませ、1人のみ、レンタカーの乗員定数の問題で駅へ送ってもらい、残る4人を乗せて大学へ。15時頃着、器財を136部屋に放り込み、解散。車を返し、無事、春の陣は終了した。
◆整理事務所で遺物の登録終了後、記念撮影。みなさん、肖像権は主張しないように。あとは金の計算だが、やってられね~。

3月18日、車塚終了

◆ポカポカ陽気、だが天気予報通り、午後ある程度時間が経過すると曇りとなり、16時に雨が落ち てくる。学生・院生等の書いた層位図を注記したり、あれやこれや。で、昨日、書いたようにトレンチを1本伸ばすことにして、幅50㎝くらいで掘り始めるが、造出上面の赤土が続く。5回にわたってのばし、総延長5mくらいまでのばしたが、造出はついに落ちず!!!!。まあ、しゃーない。手をつくしたが、そこまで続くことが確認でき、相当の面積を開けないと全面にならないことが判明という収穫を得た。それと祭祀用の小壺などの土器片がパラパラ確認された。食物供献の土器類が造出北辺で確認できるかもしれない。なお、ベースも北 端でやや下がっており、また礫が集積し、上面の礫がずっているようにも感じられ、「遠からず」かもしれない。
◆降雨のなか、1/20平面図の書き直し・書き足し終了、層位図の土色帳による記載のみ残り、17時をやや過ぎたくらいに終了か。院生のYさんが12時までで帰ったが、院生2、学生2の。うちの全メンバーがおり、作業員の工藤さんを加えて、現場最終日の最後までいた人間で記念写真。ただし、なぜだか(雨?)オートフォーカスがきかず、マニュアルにするも、老眼鏡なく適当にピントをあわせるが、帰ってから写真を見ると、やはりピンぼけでした。そうか、液晶画面上で2段階で拡大できるのだった・・・。
◆以上、予定通り大団円を迎えることができた。ぱちぱちぱち。明日は宿舎の引き払い、現場小屋 の片付け、埴輪台帳の登録、大学へ荷物を運ぶ、という段取りである。

車塚の復元案等

◆こないだのは委員会用モノクロなので、カラーにしてみるのと、造出中央で埋葬施設が検出さ れ、1/20の手直しは明日やるので、正確ではないが、アバウト入れ込んでみた(いくぶんの振れをもうちょっと直さなあかん)。で墓坑のおさまりから、正方形でなく、南北にやや長い案としてみました。そうなると、後円部側がより窮屈になるので、やはり正方形の方がいいのかもしれませんが・・・。そういうことでやり直しました。測量図にはめ込んだものには、この夏の調査区も入れてみました。ただし周濠部は、地表下4mでの平面をイメージしており、上口はずっと広くなります。段堀の設計など、夏に向けて入念に戦略を練る必要があります。
◆昨日実家で、NHKのプロフェッショナル仕事の流儀というのを見ていて感動した。小児外科医の話。痛み等の原因を見極めること、そして外科的に何をどこまで除くことが必要か、しかしそこに横たわる患部へ至る臓器等、あるいは患部の癒着、大きく切開できない子供の体、その体力、しかし目的を実現するためのオペの戦略を考え抜く。ほとんど不可能。しかし「お前はあきらめるのか」。考え抜く。ひとつひとつ到達する術を考え、手順を考え、危険性を考え、その危険性を回避する手段を考え、ノートに書き込みチェックしていく。そうすることで、困難と思われるものが、徐々にやれるというものへと変わっていく。手術の9割は手術前に終わって いるのだとか。気が小さいと自己分析する性格が、慎重な判断、万全の準備、あせらな い施術に結びついている。彼の言うプロフェッショナルとは、可能な限りの準備に努力し、施術を決める、ということだったか。
◆今回の現場では、最初いなかったこともあり開始にあたって言っていないが、発掘する際「オペを始める」とけっこうマジメに言う。発掘も共通する面がある。現場で掘り進み変わってくる状況を的確に判断し、段取りと手順をひたすら考えることは、まさにオペなのである。さっきも、この図を描き直していて、ふと。このままでは夏の発掘区設定に不安を残す。そのためにやっておくことがある。明日しかない。おわかりでしょうか。北辺の肩部をたとえ幅50㎝のトレンチでも入れ、正方形か長方形かを明らかにしておくこと。そうでなくとも、後円部西側の過去の調査区で確認されている墳端にもとづく復元円と、造出推定案で、北辺の取り付きがうまくいっていない。
◆むろん車塚の墳丘復元案そのものを再度点検しなければならないし、おそらくそれでも解決せず、くびれ部ねらいのトレンチ設定はなかなか難しそうだが、不確定要素をつぶしておくことは重要ではないか。なにせ地表下4mなので、はずれた時、そう簡単に拡張できない。また、造出の調査事例を探索し、取り付き部のあり方の事例を頭に入れ、決断しなければならない。ほぼ入るという確信のもとに調査区を設定したい。

車塚実測中

◆16日月曜日から実測にかかる。ひたすら壁面の線引きをする。また水糸を張るなどして準備し、 やれるところから、学生・院生等が分担して、一部の1/10および層位図にかかる。
◆土曜日だったか叔父がなくなる。98歳。旧陸軍。月曜は、18時からのお通夜に出るため16時で現場を離れる。
◆せっかくなので実家に宿泊。翌日の本日17日の10時から、高槻市の会議に出る。13時前くらいまで、それから現場に向かい、到着は13:30頃。
◆思ったよりも人が少ない(3人)。1補佐員となって図面を書くほかなく、画板に向かう。現場での作業で、前からの左膝と右肩の痛みが顕在化する。明日は午後天気が崩れるとの予報だったが、なんとか日中はもつのではないかという風に変わってきた。すべて明日、終える予定である(埴輪列の埴輪は仕上げて夏に実測する)。午後、文化庁の視察あり。その時の風景ならびに実測作業風景です。

孝徳を評価すべき

◆日曜日は、土曜日の難波宮研の後始末をしたあと、孝徳のことをずっと調べることになり、さぼってしまいました。改新諸政策を、どのへんが考えていたかであるが、高向玄理やミンなど舒明朝の遣唐使の新知見をふまえ、年齢的にも孝徳を中心としたブレーンが形成されていたのではないか。カマタリは孝徳の指図で中大兄を利用したとも考えられる。とにかく、孝徳が傀儡で、中大兄が主役などという見方が、とくに根拠のない妄説なのであろう。作為的に人物像を描くことはありうるが、孝徳朝において、孝徳を貶めるなにものもなく、前もっての倉梯麻呂や石川麻呂との姻戚関係の構築の上に、ただちに左右大臣にする体制作り、諸政策でのリーダーシップなどが目立つ。まず、当時の国際情勢による情報戦のなかで、倭国の実態はビッビッドに知られるところであり、ウソをついてでも先進性をことさらに古くする理由はない。天智・天武、とくに天武を持ち上げるのなら、天武朝こそ起点のように歴史書をまとめればいいのである。しかし、同時代人のなかで孝徳朝、天智朝の画期性は、明々白々であって、ウソで塗り固めることはできない。
◆孝徳朝こそが、天智・天武もまたモデルとすべきものであったに違いない。孝徳晩年に中大兄は確かに飛鳥に戻ってしまったのかも知れない。そこに初めて、孝徳の失意も表明される。しかし百官がみな戻るということはおそらくなかったのであろうし、本当のところはわからないし、どうでもいい。いずれにしても斉明の土木工事のような失政として描かれるようなことも一切ない。むろん皇極だって、いいオバアチャンではないし、天智も意識がより高くなるであろうし、外交路線の対立など、意見のあわないこともありえたのかもしれないが、そこは、先代の晩年と新体制の発足にかかわる皇位継承期の話は、たぶんに作為性の働く部分であろう。
◆とにもかくにも、改新以来の政府のめざす孝徳が敷いたレールは、政権がかわろうとも目指すべきものであって、実際には人間がいて、人間関係が働きうるものであるとしても、歴史としては、めざすべき路線を一歩ずつ進めていくということに何ら変わりはないと思っている(白村江は確かにイレギュラーだが)。なので、飛鳥に戻ろうが、難波を離れて後岡本宮であろうが、それで急進的改革にブレーキがかかったとか、そんな風に考える必要はないと思う。

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HN:
雲楽
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61
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男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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