人を幸せにする人になろう

やっぱり和泉市史

◆提出したもの、中身はともかく、多いので、大幅に減らさないといけないとの反応に、やっつけてしまい、かなり削る。あわせて挿図の予定も、と。一旦、原稿を出してエントリーし、10月中でというのは実際そうなるわけだが、これも自分のイメージで作り上げるには、自分が選定し、枠を取り、割り付ける必要がある。編集部も全体をやっており、たいへんですし。
◆ということで、することは他にもあるので、できるだけ時間を取らず、図の完成は10月末とし、挿図を選定し、インデザインで枠取りまでして、原稿として再提出しようと思う。祝日、8:20に研究室に座っております。
◆台風の被害が最低限でとどまりますように。

2014年10月10日守山市

◆12日の日曜日9:20、研究室。まあ、誰もいやしないが、しばらくすると日本史院生室の明かりが つく。課程博士論文を書いているSさんだろう。頑張って欲しい。この3連休、ここまで不義理をしている滞貨を一掃するありがたい3日間だ。1日目は、和泉市史で暮れてしまったが。本日、読み直して脱字など気づいた誤りの最低の直しをして、再度、送信した。これでひとつが終わり。あと10個くらいはあるんだろうか。大きいのは2つで、今日と明日で、と思っている。また別に、18日に陵墓の勉強会でのしゃべりが待っており、この準備も頭が痛い。
◆できれば息抜きでブログも、とも思う。金曜日に滋賀へ見学会に行った。目的は守山に行き、下 之郷遺跡、伊勢遺跡、下長遺跡について勉強すること。詳しく書いていく余裕はないので、行程だけ。守山市マイブンセンター、史跡下之郷遺跡、銅鐸資料館、桜生古墳群(閉まっていた)、古冨波山古墳、冨波古墳、大津の渡来人歴史館、皇子山古墳、大津市博、本日はここまで。久しぶりの呑み会を設定していたので。17時過ぎに引き返し、18:30難波はずれこみ、18:50となるが、ウイグル料理屋ムカーム。22時前までいただろうか。詳しく書きませんが、とても盛り上がりました。
◆守山市の方には親切に対応いただき、マイブンセンターで話をしていると、下之郷の方に電話を入れていただき、そっちに行くとKさんに待っていていただき、概要の説明をいただいた。またそのあと話をする。史跡指定をしてガイダンス施設を設け、いろんな取り組みをしているが、なにか昔のことで、現在の住民にとっての必ずしもつながっているように思ってもらえない、といった感覚があるのだろうか、一般論的な話であったが、そういう話題になった。元は土器の話。凹線文がどうのこうの。専門的には必要だが、地域の歴史を語るには、それによってどう考えられるのかというストーリーが必要。和泉市史とも重なり、いろいろおしゃべりした。集落遺跡、古墳、寺院、須恵器、それらをどう組み合わせて歴史を描くか、中世やら近世まで行かずとも、弥生や古墳はやはり遠く、6世紀7世紀くらいまでをつなぎ、古代の地域社会までをなんとか描きたいと思う。(1)まずそういう志向性があるか、がまず大事。これがなければ遺跡を有機的につないで考えようとはしないだろう。(2)その次に、学問的には根拠不足もあり、不明なところもあるのだろうが、総合的に考えてこういう変転ではないかと考えたとして、それを明確なビジョンとして語る志向性があるかどうか。そんな話をしていました。

和泉市史信太編を書き上げる

◆10月9日に間に合わず、10日は学生らと守山市等への見学に出向く。銅鐸博物館にいるところに、電話がかかってきて最後通牒。11日に出すと約束し、それででなければ切りますと。11日、90%はできており、午前中でなんとかして、午後はそれ以外の仕事をと考えていたが、結局、朝から晩までかかり、22時にほぼできあがるが末尾が未完なまま、大学を出て家に戻る。ようやく12日0:20に書き上げて送信した。
◆渾身の作品、と自分では思っている。和泉市にかかわって15年、この間の、和泉市のみならず、摩湯山古墳の測量や、古墳のみならず、寺院や条里や須恵器やら、そして文献史の研究に学んだことをすべてつぎ込み、それらを整合的に組み立て、和泉の古墳時代史を考えてみたものである。
◆淡輪のことは、やや未消化な点が残るが、これについては引き続き取り組みたい。西陵古墳をいずれ測量したいもの。博論も終わったので、ようよう摩湯山古墳の報告書に取りかかりたい。和泉の古墳時代を書く次の機会は、摩湯山の報告書であろう。和泉市史という一般向けを意識した記述だが、摩湯山の報告書では、さらに考えた上で論文としてまとめたいものである。

難波宮研のあと

◆杉本駅前いわし亭で呑む。実に楽しい。ほぼ同年代のT氏と日本酒を飲み、またまた酩酊状態で、環状線を乗り過ごしつつ、帰り着く。
またあとで書き足そう。

埼玉大学紀要のコピーを送っていただく

◆三友国五郎さんの論文を求めていると話をすると、京都大Y氏がたぶん図書館にあるだろうから送るよと、ありがたい言葉をいただき、お願いし、送ってもらった。ありがとうございます。関東の条里地割をながめ感動。で、欲していた上野国交替実録帳の言及の箇所を見る。86巻の成巻の話は、史料に書いてあることであって、史料を示し結論を簡単に述べたくらいで、この論文を引用していた論文から得ていた知識を大きく越えないものであった。こっちとしては、もうすこし解説が欲しいが、まあしゃーない。『群馬県史』を見るかな。また、有名な重要史料なので、その後の研究でも論究しているものは多くあるのだろう(知らないが)。

難波宮研で

◆文献史の発表を1本聞く。孝徳朝の検地、一定の私有地の収公、石母田の賦田制に相当する、それ らによる田地のあてがい(出生や死亡による見直し班給をしない段階)を認めようというもの、と大筋を理解した。わかる。50戸という戸単位の人口把握、検地による土地調査、それをふまえた古墳時代的、部民制的なものから、班田収授制に近い公地の再分配をやっているということですよね。それについて文献史側からも認められるのではないか、という発表だった。
◆だが、直線的に発展しない、のちの班田収授とは違う、孝徳朝は浮いている、みたいな結論になってしまうのだ。
◆それに対して反論した。孝徳朝に公田の再分配を、実態追認の面があるにしてもやっていることをチャンと評価すべき。それについて、日本がめざした人員の増減に応じて再分配を繰り返す班田収授までは、すぐにはいかないのは当たり前なのである。670年庚午年籍ができて初めて条件が整う、そして条里地割については、オレは683年頃の「五十戸」から「里」への表記変更はこの時点で領域的編制ができたことによると考えており、それを待って持統朝に班田収授が始まるというのは、順調、スムーズ、だと考えているわけです。なぜ、孝徳朝を浮いたものとして特異な時代として孤立させなければならないのかが、まったくわからんわけです。孝徳朝にほぼ構想はできあがる。あとは実施に向けての基盤整備、それに40年を費やしている、そんなもんとちゃいますか。後退して、天智朝くらいから再びやり始める、なんて「そんなことあらへん」と思っているわけです。
◆図は『条里制研究』の原稿の最後の結論図として作り始めているものです。

難波宮研10月3日

◆やはり条里制は7世紀後半なんだ、という話と、サトは領域だという話を90%、のこりで、大阪市 域を中心とする地域でこういうことがしたいという構想発表に終わりました。
◆大阪市域の発掘調査事例など、具体の話について、市の研究所で現場を知っている人にかなうわけがなく、ほとんど同じようなことを京嶋さんがやっているらしく、それは任せましょう。すこし大枠のところで、これまで歴史地理学で考えられてきたことに、なにか理解を前進させる新しいことを加えることをめざしているのと、大阪市史の付図で既にまとめられている条里について、大阪府の3000分の1地形図レベルで、もっと実情に沿った、上町台地と、その両側の低地部・平野部のイメージを図示したいこと、そこに郡界はむろんだが、なんとかサト域について特定できないか、といまのところ考えている。
◆長原遺跡を含む丹比郡条里が、磯歯津道基準から「長尾街道」基準で割り直しているという私説について、京嶋さんも紹介してくれているようだ。歴史地理学が指摘してきた北大木条里は、長原遺跡下層に一致する。5年以上前からそれは既に自分のなかではわかっていたのだが、ちょこちょこと図示するだけで、すごく明瞭になった(左図―いまやっている条里制研究の原稿で出します)。これを見ると、青の北大木条里では、赤の長原あたりの現存条里と、南北線も相違することに、遅まきながら気づく。池島福万寺の南北軸(セン線)の問題も、これで解決できるかもしれませんね。それでいけることの確認と、ではその南北軸の当初の基準はどこだったのか、それを追究すれば、アウトラインができあがりそうである。
◆話は変わりますが、三島もそうだと思っている。もともとは淀川に沿った斜行条里で、西国街道、山陽道を基準とし、郡界もその直交方向で切られた。しかしやはり8世紀を迎える頃に正方位条里にやりなおしているんだろうと、これもず~と前から思っている。これはたぶん、天坊さんが戦前に考えているのではないのかな。条里って、長い研究蓄積が正当に継承されていないのである。足利先生だって、条里109mについて、「なぜだか」と書いているのを見ると、愕然としてしまう。

ヤフーのメールが止まり・・・

◆火曜日からストップ。ヒストリアの原稿を印刷所にあと2本入れ、報告原稿もあるのだが、すべて ストップしてしまっており、これはまずいです。
◆9月25日の新聞。そう、円安がなぜいいのだ。それでトヨタは最高収益を上げると・・・、でも法人税は下げると・・・
【追記】木曜日21時過ぎ、まだ回復せず。どないなってんねん。なんとか博物館展示論の内容を更新。難波宮研、ひとつも進まず。

10月1日、『図書』の対談記事

◆送ってもらったものを読む。甕で炊かれたご飯のお焦げは、海洋リザーバー効果を受けるのだろ うか。土は海の生き物を摂取しないだろう。空中の空気と水、土中の栄養分・・・、オレにはわからん。一方で、年輪年代の元データは、やはりちゃんと提示されないと、これはいかんでしょうね。日本の較正年代だって、年輪年代があるから原理的に可能なわけだが、その大元が確かであるというカッコたる基礎がないと、危ないことになることはよく理解できる。
◆話は変わりますが、今日は東海道新幹線開業50周年だとか。自分はちょうど同じ歳なのですが、まあそれはよいとして、2014といえば、第1次世界大戦から100年なのです。8月にロンドン塔に行ったとき、焼き物製のバラが88万本ディスプレイしてある。何かと思ったら、内部の展示をめぐっていると、第1次世界大戦における(範囲不明ですが)死者数みたいです。英文の説明があるのですが、読む努力をしていないので、きわめて不正確ですけど。

サバティカル終了し、明日の授業を

◆今日は火曜日で、後期は明日水曜日から、すこしほっと。火曜日にたくさん授業があるもの で・・・。土曜日にうちわだが難波宮研究会というのがあって、発表しないといけないのです。構想、というか、こういうことができるのでは、でなく、こういうことがやってみたい、なのですが、まあ5%くらいしかできていません。なので条里の話を半分してお茶を濁すしかないかも。やりたいのは、渋河道、シワツ道、長尾街道、茅渟道、国境、郡境、郷界なんだけれど、大阪市というのは区画整理が戦前にさかのぼるので、条里が1961年地図では消えているんです。堺市もそうなんですけど。また条里地割の復元研究の基本は、ほぼ昔に終わっていて、古い文献を読み込まないといけない。が、なかなか読んでもわからんし、昔の印刷物で図が不鮮明でわからない、いろんな苦がありまして、簡単ではありません。
◆12月の大阪市と市大の連携講座も、このテーマで、そして今年もやります改新シンポⅡでもこのテーマ、要するに段々と、いくつかの機会をえて、勉強していきましょうという戦略なのですが、とはいえ10月4日の土曜日はやってくるわけです。
◆話は変わりますが、高槻市の森田さんにいただいた対談記録から、一部掲げておきます。明日の博物館概論でも紹介しようかな。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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