人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
谷首古墳の石室のスキャン
◆五条野丸山の測量を構想し、橿原市にも了解をもらったのだが、既に実施されていることを知る。知
らんかった・・・。できあがりを楽しみにしよう。
◆そこで、ほかの古墳の墳丘測量も考えたが、ややこしいのは無理。草を刈らないといけないようなものもダメ。話の早いヤツでいくしかない。そこで、牧野に続いて、谷首の石室のスキャンをすることにした。丸山は金がないし、墳丘部分の計測だけで、データ処理や図化は次年度以降で、金をみつくろいながらやっていくほかないと思っていたが、石室なら1日でOKで、ひととおりの仕上げまで可能だ。
◆石舞台をやりたいのだが、承諾をもらうこともしんどいし、もうこれも既に実施済みかもしれない。前から、石舞台について、改めて要請して無理なら次の一手として、同じく石舞台式の谷首をやりたいと考えていた。桜井市には地元調整もしていただきました。橋本さん、ありがとうございます!。条件は整ったので実施する。また、成果が出れば公表します。
◆そこで、ほかの古墳の墳丘測量も考えたが、ややこしいのは無理。草を刈らないといけないようなものもダメ。話の早いヤツでいくしかない。そこで、牧野に続いて、谷首の石室のスキャンをすることにした。丸山は金がないし、墳丘部分の計測だけで、データ処理や図化は次年度以降で、金をみつくろいながらやっていくほかないと思っていたが、石室なら1日でOKで、ひととおりの仕上げまで可能だ。
◆石舞台をやりたいのだが、承諾をもらうこともしんどいし、もうこれも既に実施済みかもしれない。前から、石舞台について、改めて要請して無理なら次の一手として、同じく石舞台式の谷首をやりたいと考えていた。桜井市には地元調整もしていただきました。橋本さん、ありがとうございます!。条件は整ったので実施する。また、成果が出れば公表します。
大阪府知事は最低
◆あの知事。こないだの、安部晋三と八木秀次と、3人のタウンミーティングだって、そんなヤツなんや。こんな知事をトップとする大阪府・・・。ばからしい、ふつ~だと知事なんぞになるはずないが、勢いだけで・・・、コワイ。どうせなら、名古屋市長みたいに、もっとバカな発言をじゃんじゃんやって、府民に早くそっぽ向かれますように。
◆育鵬社の公民教科書だったか、東大阪市の中学校とかで選定されたという。どないなっとんのか。
◆育鵬社の公民教科書だったか、東大阪市の中学校とかで選定されたという。どないなっとんのか。
天理大学のレーダー探査結果
◆桑原さんからさっそくにレーダー探査の結果が送られてきた。あっしには、これをどう判読すればいいのかわ
からない。青地のなかのシャドウ部分などが遺構なのかとも思うが、そこは、こっちで、御殿の平面図とをつきあわせ、また第4師団時代に紀州和歌山城の御殿が移築された位置なども考慮し、一方で、天理大の専門のみなさんの判読とをあわせて、総合的に検討する必要がある。画像は一例。
◆前に、埋設管工事で、この探査範囲の右端で、2列にならぶ礎石列が出ているのだが、そうした礎石と思われるような反応は明瞭ではないようだ。
◆できれば、これ以外の御殿域、それに現存天守閣の東北の貯水池北側で、豊臣期の天守台をねらった探査もやってみたい。
◆前に、埋設管工事で、この探査範囲の右端で、2列にならぶ礎石列が出ているのだが、そうした礎石と思われるような反応は明瞭ではないようだ。
◆できれば、これ以外の御殿域、それに現存天守閣の東北の貯水池北側で、豊臣期の天守台をねらった探査もやってみたい。
郷について
◆今日は3月4日の日曜日、あることをしに大学に来たのだが、昨日の研究会の後、ず~と、どうしたら郷が
領域といえるかを考えていて、やるべきことをほっぽって、郷のことをやっていた。
◆それで『福井県史』で重要な史料を見つけた。こんなんも、丹念に越前の東大寺領の論文を読めば書いてあるのかもしれないが、そんなことはとってもやってられん。『福井県史』の通史編には書いてないようだが・・・。誰か言及している論文をご存じの方は教えてください。
◆坂井郡の桑原荘と高串荘の立荘関係の文書で、前者は100町が「堀江郷地」とあるではないか、後者は「海部郷之地」とあるではないか。前者は野地なので高い土地(大伴宿禰麻呂が売却したときはわずか9町しか開墾できていなかった)、後者は低湿地のようだが、そうした東大寺領となるまで未開地で、人が住んでいないような場所だと思うが、そういうエリアだって、○○郷に区分されていることを示している。
◆大安寺領の、紀伊国海部郡木本郷葦原5町は使える史料だとはわかっていたが、あんまりほかに見あたらなかったので、『福井県史資料篇』をめくった甲斐がある。
◆もうひとつ、天平19年の法隆寺資財帳に、和泉国軽部郷の領地が書いてあり、そこに軽部池のことが出てくる。いまも軽部池6町分があり、それは天平期のものとみてほぼよい。これは近世和泉の郷復元の隅部にぴったり一致するのだ。軽部郷の水利のために溜め池を掘る。そのためには、軽部郷のもっとも高い側、つまり東南の境界部に接して溜め池を掘って下部に水を引くのが合理的。その3×2=6町分の軽部池は、きちんと「近世」軽部郷の隅に位置する。これこそ、奈良時代前葉にも、ここに郷境があったことを示すことに使えると思う。これ、昨日、思いついたもの。これきっと当たりですよ。
◆ひとつまえの和泉郡の地図のうち、軽部郷の部分の拡大を図示する。赤線(これはのちに和泉郡を2分し南郡ができた段階の郡界だが、むろん軽部郷と、八木郷や山直郷との郷界でもある)の屈曲部にあるのが軽部池。八木郷側1町分の池はあとづけである。ちなみに池の中に坪境の陸地を残していることも興味深い。
◆それで『福井県史』で重要な史料を見つけた。こんなんも、丹念に越前の東大寺領の論文を読めば書いてあるのかもしれないが、そんなことはとってもやってられん。『福井県史』の通史編には書いてないようだが・・・。誰か言及している論文をご存じの方は教えてください。
◆坂井郡の桑原荘と高串荘の立荘関係の文書で、前者は100町が「堀江郷地」とあるではないか、後者は「海部郷之地」とあるではないか。前者は野地なので高い土地(大伴宿禰麻呂が売却したときはわずか9町しか開墾できていなかった)、後者は低湿地のようだが、そうした東大寺領となるまで未開地で、人が住んでいないような場所だと思うが、そういうエリアだって、○○郷に区分されていることを示している。
◆大安寺領の、紀伊国海部郡木本郷葦原5町は使える史料だとはわかっていたが、あんまりほかに見あたらなかったので、『福井県史資料篇』をめくった甲斐がある。
◆もうひとつ、天平19年の法隆寺資財帳に、和泉国軽部郷の領地が書いてあり、そこに軽部池のことが出てくる。いまも軽部池6町分があり、それは天平期のものとみてほぼよい。これは近世和泉の郷復元の隅部にぴったり一致するのだ。軽部郷の水利のために溜め池を掘る。そのためには、軽部郷のもっとも高い側、つまり東南の境界部に接して溜め池を掘って下部に水を引くのが合理的。その3×2=6町分の軽部池は、きちんと「近世」軽部郷の隅に位置する。これこそ、奈良時代前葉にも、ここに郷境があったことを示すことに使えると思う。これ、昨日、思いついたもの。これきっと当たりですよ。
◆ひとつまえの和泉郡の地図のうち、軽部郷の部分の拡大を図示する。赤線(これはのちに和泉郡を2分し南郡ができた段階の郡界だが、むろん軽部郷と、八木郷や山直郷との郷界でもある)の屈曲部にあるのが軽部池。八木郷側1町分の池はあとづけである。ちなみに池の中に坪境の陸地を残していることも興味深い。
そして和泉
◆3月3日土曜日の研究会が、無事、終わりました。無事、ではなく、郷は領域であるという第2部は準備不足
が露呈し、あまりうまくいったとはいえないが、まあ、終わった。大学に戻ろうかとも思ったが、もうへこたれていたので、そのまま阪和道で帰宅し、家でカミさんと呑みました。
◆和泉の「近世」の郷復元の図を、前にも出したかもしれませんが再掲しておきます。『和泉市史3池田編』に公表したもの。
◆そもそも、古代郷が領域かどうかという前に、中近世の郷の復元が不十分なのである。それは近世(前半)文書を分析しないと導けないのである。今日、福井県史をみていたが、古代郷は古代史の人間がやっていて、だいたいこのへん、くらいしか書かれていない。それが実情。むろん、その後の変化はあるにしろ、まず近世の郷を復元し、中世は中世文書での復元はまったくできないが、まあ、近世の郷をさかのぼらせればよい。というわけで、近世史の人間が全国各地でどこまで郷の復元をやっているかは知らないが、たとえやっているとしても、古代史は、ハナカラ領域じゃないからと考えていることや、近世は近世、古代なんてわからんということで、連携することがないように思う。
◆が、中近世の郷をしっかり復元し、そこから古代の郷を考えるべきなのである。ぜんぜん別物になることはない、古代があって、中世を経て近世に至る。古代の郷復元のベースは、後代の郷から考えていくべきなのである。きっと河内でもできると思うんですけどね。大和はわからんけど。
◆和泉の「近世」の郷復元の図を、前にも出したかもしれませんが再掲しておきます。『和泉市史3池田編』に公表したもの。
◆そもそも、古代郷が領域かどうかという前に、中近世の郷の復元が不十分なのである。それは近世(前半)文書を分析しないと導けないのである。今日、福井県史をみていたが、古代郷は古代史の人間がやっていて、だいたいこのへん、くらいしか書かれていない。それが実情。むろん、その後の変化はあるにしろ、まず近世の郷を復元し、中世は中世文書での復元はまったくできないが、まあ、近世の郷をさかのぼらせればよい。というわけで、近世史の人間が全国各地でどこまで郷の復元をやっているかは知らないが、たとえやっているとしても、古代史は、ハナカラ領域じゃないからと考えていることや、近世は近世、古代なんてわからんということで、連携することがないように思う。
◆が、中近世の郷をしっかり復元し、そこから古代の郷を考えるべきなのである。ぜんぜん別物になることはない、古代があって、中世を経て近世に至る。古代の郷復元のベースは、後代の郷から考えていくべきなのである。きっと河内でもできると思うんですけどね。大和はわからんけど。
畿内の集落再編について
◆律令期集落については、文化庁にいるときに、坂井さんからいろいろ教えていただいたことが大きい。段丘の発達した関東では、7末・8世紀には集落を段丘に上げ、水利系統も革新し条里を施す。9世紀後半頃だったが、不便な段丘面を降りて平野部に居を移す。とたんに集落が把握できなくなるのだと。沖積地の発掘が進んでいないこととともに、散居村になっているためだろう。
◆それにくらべると、畿内は、集落再編は7世紀前半と早く、平野の中央部はよくわからないが、やはり集落は高台に移され、狭山池や古市大溝などのような水利施設の大規模な工事も実施され、官道が敷かれる。いまの中国のイメージである。「立ち退け」の一言で集落は廃絶、新たな村々ができる。そして7世紀後半、そこに方格地割がかぶるわけだ。
◆東日本は集落の再編と条里は一体であるので、実にわかりやすい。それにくらべて畿内は段階差があるわけだ。ふと、畿内の場合、集落の全面的再編を実施するのはどこまでの意味があったのか、と思う。官道や古市大溝といった捉えやすいもののみならず、中小水路網や開墾といった、やはり立ち退かせて実施するほどの面的な改変が実は進められていたと理解するのがよいように思う。
◆いずれにしても、こうしたことに関心をもち、条里の発表なんかをやっている背景に、坂井さんにうかがった研究成果がベースにあると思う。多謝!
◆それにくらべると、畿内は、集落再編は7世紀前半と早く、平野の中央部はよくわからないが、やはり集落は高台に移され、狭山池や古市大溝などのような水利施設の大規模な工事も実施され、官道が敷かれる。いまの中国のイメージである。「立ち退け」の一言で集落は廃絶、新たな村々ができる。そして7世紀後半、そこに方格地割がかぶるわけだ。
◆東日本は集落の再編と条里は一体であるので、実にわかりやすい。それにくらべて畿内は段階差があるわけだ。ふと、畿内の場合、集落の全面的再編を実施するのはどこまでの意味があったのか、と思う。官道や古市大溝といった捉えやすいもののみならず、中小水路網や開墾といった、やはり立ち退かせて実施するほどの面的な改変が実は進められていたと理解するのがよいように思う。
◆いずれにしても、こうしたことに関心をもち、条里の発表なんかをやっている背景に、坂井さんにうかがった研究成果がベースにあると思う。多謝!
明日の資料の前半部ができた
◆表題の通り。前半とは、「条里制研究の現在」というもの。
◆河内の条里に興味あるが、いろいろ参考文献を見ていると、とて
も一筋縄ではいかないようだ。手をつけると大変。和泉のことをやっているんだから、まずは和泉。
◆大和も条里が8世紀に再編された、という記述を見るのだが、原典にあたっていない。「大和統一条里」という意味はわかっていなかったが、例えば越前や讃岐といった、郡ごとに施工されたのが明白なものと違って、施工は統一的にやられているという意味なんでしょうね。あと、そうか、名前もか。むしろこっちか。郡別に○条○里とせずに、通しナンバーを振るからか。もっとも、実際には、他国と同じく、それぞれの溝を掘ったりする作業そのものは郡別なんでしょうが。
◆河内の条里に興味あるが、いろいろ参考文献を見ていると、とて
◆大和も条里が8世紀に再編された、という記述を見るのだが、原典にあたっていない。「大和統一条里」という意味はわかっていなかったが、例えば越前や讃岐といった、郡ごとに施工されたのが明白なものと違って、施工は統一的にやられているという意味なんでしょうね。あと、そうか、名前もか。むしろこっちか。郡別に○条○里とせずに、通しナンバーを振るからか。もっとも、実際には、他国と同じく、それぞれの溝を掘ったりする作業そのものは郡別なんでしょうが。
続いて、こないだの結論部
◆以前に王陵の最新の系統図をアップしたが、こないだの羽曳野での結論部分を拡大しておく。ちなみに、『古
事記』崩年干支をあまり疑う根拠はないと考えており、基本的に信憑性があると思っているので、ワカタケルについても、479ではなく実は489と考えるのが、とくだんの理由がない限り、自分の首尾一貫性として、そっちではないかと考えるに至りました。
◆しかしまあ、重要な人物のこの10年の差はいろんなことに微妙に影響を与える。いまのところ、倭王武の問題についても(こないだは、倭王興説にもふれたが保留した)、しっくりいく成案に達していない。あくまで首尾一貫性からということで、いまの材料で考古学的に確定できるわけではない。
◆しかしまあ、重要な人物のこの10年の差はいろんなことに微妙に影響を与える。いまのところ、倭王武の問題についても(こないだは、倭王興説にもふれたが保留した)、しっくりいく成案に達していない。あくまで首尾一貫性からということで、いまの材料で考古学的に確定できるわけではない。
3月2日、大阪城レーダー探査
◆あいにくの雨模様。まずは公園事務所に行き、許可証と車の通行証を受けとり、一般駐車場へ。同志社の
岸田さんが既に到着済み。天理大学ご一行様は、阪神高速の渋滞に巻き込まれ、9時過ぎといっていたが、9時40分くらいになる。3台で本丸に乗り込む。
◆探査予定の南側広場で、範囲について相談。今回は試行的なものなので、座標は任意でよい。50m×30mの設定をする。このあと、オレは、ずっと立ち会っておくべきだが、そうもいかないので、あとは桑原さんと小田木君にお任せする。市大からは赤色コーンと虎縞のガードを搬入する。
◆雨は小降りながら降り続いている。が、なんとなく小雨模様になってきた。今日、そして明日の2日間の予定だが、うまくいけば今日中に終わるかもしれないとのこと。近世のそう大きくない礎石を検出するために25㎝ピッチで探査をしていただけるようだ。どうか、うまくいきますように。観光客が心配だが、中国人の一行は、朝イチで観光バスで押しかけていたものの、10時過ぎになるといなくなり、天気もあって、観光客はまばらになった。観光客をシャットアウトするわけにはいかないので、注意しながら探査をすることになるが、観光客の心配もあまりせずにすみそう。
◆もうひとつ、石垣のレーザースキャンを予定しており、みなさんから離れた後、候補である南内堀・東内堀の写真を撮る。東外堀や南外堀は迫力はあるのだが、堀の対岸まで100m弱はなれていて、測量業者さんからも細かく取れるか心配の声があり、より対象に近い内堀で試みるつもり。石垣に生えている草などの状況を確認することも目的のひとつだった。
【追記】終了しました、早い!。明日、データ整理にさっそくかかっていただけるようです。眼鏡落とした!。拾われておりました。
◆探査予定の南側広場で、範囲について相談。今回は試行的なものなので、座標は任意でよい。50m×30mの設定をする。このあと、オレは、ずっと立ち会っておくべきだが、そうもいかないので、あとは桑原さんと小田木君にお任せする。市大からは赤色コーンと虎縞のガードを搬入する。
◆雨は小降りながら降り続いている。が、なんとなく小雨模様になってきた。今日、そして明日の2日間の予定だが、うまくいけば今日中に終わるかもしれないとのこと。近世のそう大きくない礎石を検出するために25㎝ピッチで探査をしていただけるようだ。どうか、うまくいきますように。観光客が心配だが、中国人の一行は、朝イチで観光バスで押しかけていたものの、10時過ぎになるといなくなり、天気もあって、観光客はまばらになった。観光客をシャットアウトするわけにはいかないので、注意しながら探査をすることになるが、観光客の心配もあまりせずにすみそう。
◆もうひとつ、石垣のレーザースキャンを予定しており、みなさんから離れた後、候補である南内堀・東内堀の写真を撮る。東外堀や南外堀は迫力はあるのだが、堀の対岸まで100m弱はなれていて、測量業者さんからも細かく取れるか心配の声があり、より対象に近い内堀で試みるつもり。石垣に生えている草などの状況を確認することも目的のひとつだった。
【追記】終了しました、早い!。明日、データ整理にさっそくかかっていただけるようです。眼鏡落とした!。拾われておりました。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。