人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
ねごろ、岩出市民俗資料館
◆根来の現地で確認したいことがあったので行く。何を見たいか。改めて、調査地点のある尾根の状況を見て
おきたかった。いま、道が斜めに横切っている。イメージは北側が高く、南半はやや低く、その境で道がむかしから横切っていたんだろうと。
◆しかし、道の南側も十分に高い。そんなに低くなるわけではない。一定の高さの尾根が南にずっとのびている。そのなかで、いま道が横切っている地点は、広域農道の地点のように、やや谷が入っていたのかもしれない。絵図では、そこから蓮華谷川に橋がかけられているので、大門とならぶネゴロへの入り口として、尾根を切り櫓門を置いていたのかもしれない。
◆ついでに根来市民俗資料館に行く(はじめて)。ちゃんとした資料館ですね。和歌山県内市町村で、こうした資料館をもっているところは少ないだろう。ただ、岩出市の資料館で、岩出の歴史をひととおり扱っているんだけれど、根来についてはもっともっとボリュームをもたせられるであろう。所在地からして、ある程度、特化すべき。オープン時点までの調査成果を踏まえているのだろうが、根来寺旧境内遺跡について、どこまで調査されわかっているのか、最新の成果を学ぶことはできないわけだ。
◆しかし、道の南側も十分に高い。そんなに低くなるわけではない。一定の高さの尾根が南にずっとのびている。そのなかで、いま道が横切っている地点は、広域農道の地点のように、やや谷が入っていたのかもしれない。絵図では、そこから蓮華谷川に橋がかけられているので、大門とならぶネゴロへの入り口として、尾根を切り櫓門を置いていたのかもしれない。
◆ついでに根来市民俗資料館に行く(はじめて)。ちゃんとした資料館ですね。和歌山県内市町村で、こうした資料館をもっているところは少ないだろう。ただ、岩出市の資料館で、岩出の歴史をひととおり扱っているんだけれど、根来についてはもっともっとボリュームをもたせられるであろう。所在地からして、ある程度、特化すべき。オープン時点までの調査成果を踏まえているのだろうが、根来寺旧境内遺跡について、どこまで調査されわかっているのか、最新の成果を学ぶことはできないわけだ。
日前宮(紀伊いちのみや)
◆ここは前から行きたかった。ニチゼングウ、と言っているが、ヒノクマであり、飛鳥檜隈の渡来人の一派が移
住したんだ、みたいな話をどこかで聞いたが・・・
◆ここには、日前神宮と國懸(くにかかす)神宮が、完全に横並びでふたつある。以下、【ウイキ】。
日前神宮は、日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀。國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀している。神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命(おもいかねのみこと)の議に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、天香山から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡を鋳造しました。その初度に鋳造された天照大御神の御鏡 前霊(さきみたま)を日前國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された御鏡を伊勢の神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。爾来、天道根命の末裔である紀氏(きいし)によって歴代奉祀され、両神宮の祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡とされたために、伊勢の神宮に次いで朝廷からの崇敬も篤く、延喜の制には両社とも明神大社に列し、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)の祭祀には天皇から幣帛(御供)を賜るほどでありました。また古くから紀伊國一之宮として一般の人々からも崇敬をあつめ、両神宮の総称を「日前宮」(にちぜんぐう)とし、親しみをもって呼ばれています。
◆秀吉の天正の兵乱により境内荒廃、社領没収。紀州藩初代藩主、徳川頼宣が社殿を再興。明治4年、官幣大社。大正8年、国費による境内建物すべての改善工事、いまに至る、とのこと。
◆印象、完全な左右対称で、2社が並び建つのが面白いと思った。
◆ここには、日前神宮と國懸(くにかかす)神宮が、完全に横並びでふたつある。以下、【ウイキ】。
日前神宮は、日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀。國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀している。神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命(おもいかねのみこと)の議に従い種種の供物を供え、天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、天香山から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡を鋳造しました。その初度に鋳造された天照大御神の御鏡 前霊(さきみたま)を日前國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された御鏡を伊勢の神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。爾来、天道根命の末裔である紀氏(きいし)によって歴代奉祀され、両神宮の祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡とされたために、伊勢の神宮に次いで朝廷からの崇敬も篤く、延喜の制には両社とも明神大社に列し、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいなめ)の祭祀には天皇から幣帛(御供)を賜るほどでありました。また古くから紀伊國一之宮として一般の人々からも崇敬をあつめ、両神宮の総称を「日前宮」(にちぜんぐう)とし、親しみをもって呼ばれています。
◆秀吉の天正の兵乱により境内荒廃、社領没収。紀州藩初代藩主、徳川頼宣が社殿を再興。明治4年、官幣大社。大正8年、国費による境内建物すべての改善工事、いまに至る、とのこと。
◆印象、完全な左右対称で、2社が並び建つのが面白いと思った。
和歌山県立博物館
◆8月13日、土曜日、出勤。なにかとゴテゴテやった。22時前、和歌山へ向かう。この日、カミさん、智弁和歌
山3期生の、年1回の同窓会。盆でのカミさんの実家への里帰りもあり、和歌山で宿を取り、翌日、紀美野町へ行くことにする。
◆9:30開館の和歌山県立博物館へ行く(近代美術館とセット)。はじめてだ。図録の解説によると、県立美術館がまずでき、博物館が次にでき、全面的な建て替えを経て、リニューアルオープンしたのが1994年らしい(バブルの産物なんでしょうね)。平成6年か。カミさんは、旧博物館を含めて来たことがないらしい。
◆まあ、ちゃんとしている。100円でコーヒーも飲めた。各地のいろんな情報も集まっている。入館料が、節電のため(?)半額の140円!。通常でも280円!、で常設展示が楽しめる。どんどん和歌山県民に来てほしいもの。しかも、県内の高校などとのジョイントイベントや、いろんなコーナー展示などもやっていて、スペースを利用しての試みを積極的にやっている様子に好感を覚える。
◆常設展もちゃんとしている。特展会場では、江戸時代の絵画をやっていて、とくに天保期の、和歌山城下の200あまりの職の人々を描いた絵巻が面白かった。
◆2階はちょっと贅沢な空間で、学習スペースなど。だが舘蔵品も多くあるだろう、できるだけ、惜しまず並べてほしいものだ。1階の常設展で、通史的な学習はできるが、あと幕末の台場があってよいし、友が島の要塞施設などにも言及がほしい。1994年の新博物館のオープン以来、基本的にそのままなんだろう。図録を含めてリニューアルを希望する。
◆9:30開館の和歌山県立博物館へ行く(近代美術館とセット)。はじめてだ。図録の解説によると、県立美術館がまずでき、博物館が次にでき、全面的な建て替えを経て、リニューアルオープンしたのが1994年らしい(バブルの産物なんでしょうね)。平成6年か。カミさんは、旧博物館を含めて来たことがないらしい。
◆まあ、ちゃんとしている。100円でコーヒーも飲めた。各地のいろんな情報も集まっている。入館料が、節電のため(?)半額の140円!。通常でも280円!、で常設展示が楽しめる。どんどん和歌山県民に来てほしいもの。しかも、県内の高校などとのジョイントイベントや、いろんなコーナー展示などもやっていて、スペースを利用しての試みを積極的にやっている様子に好感を覚える。
◆常設展もちゃんとしている。特展会場では、江戸時代の絵画をやっていて、とくに天保期の、和歌山城下の200あまりの職の人々を描いた絵巻が面白かった。
◆2階はちょっと贅沢な空間で、学習スペースなど。だが舘蔵品も多くあるだろう、できるだけ、惜しまず並べてほしいものだ。1階の常設展で、通史的な学習はできるが、あと幕末の台場があってよいし、友が島の要塞施設などにも言及がほしい。1994年の新博物館のオープン以来、基本的にそのままなんだろう。図録を含めてリニューアルを希望する。
大阪城探査ねらい
◆本日の大阪城見学会を終えて、レーダー探査のねらい目を整理した。原稿書かなあかんのに、こんなことばっ
かりして!。まあ、メンツの中では、わたしはこういうコーディネートをやるにふさわしいかもしれない。深いところはわからんし、まずは地表下1mで検出されうる最上段の石垣天場を、天守閣および貯水場周辺をぐるっとやる。そして徳川御殿は別途やる。
◆レーダー探査、実は昭和60年代はじめに奈文研がやってるんだって(追記:1989年だそうです)。だけどよ~、そういうことは、誰も知らない。かつまた、天守閣の中で情報が共有されていないみたい。困ったもんだ。
◆こっちは、理学部の先生が機械を借りてきてやる。まずは何本か試しで、と言っている。かつての探査は古いんだろうが、ともかくもやっている。やろうとしていたことがヤラレているわけだ。ま、それにしてもな~、大阪城については、いろんな試みはやられてるんだけど、まとまっちゃいない、レポートも分散、いったい何がどこまでやられているんだ!。まあ、西村ヤッサンに聞こ・・・
◆レーダー探査、実は昭和60年代はじめに奈文研がやってるんだって(追記:1989年だそうです)。だけどよ~、そういうことは、誰も知らない。かつまた、天守閣の中で情報が共有されていないみたい。困ったもんだ。
◆こっちは、理学部の先生が機械を借りてきてやる。まずは何本か試しで、と言っている。かつての探査は古いんだろうが、ともかくもやっている。やろうとしていたことがヤラレているわけだ。ま、それにしてもな~、大阪城については、いろんな試みはやられてるんだけど、まとまっちゃいない、レポートも分散、いったい何がどこまでやられているんだ!。まあ、西村ヤッサンに聞こ・・・
大阪砲兵工廠
◆大阪砲兵工廠のうち、残った建物はほぼ1棟。化学分析場というもの。城の西北にある。門があり敷地を囲
うレンガ塀なども残り、そして建物。
◆この建物、実は、難波宮第1号瓦を採集した置塩章さんお設計したもの。置塩さんは、そのあと兵庫県に出て、設計した建物は、だから兵庫県内の方が多く残るんではないか。あんまり知りませんが・・・。で、兵庫県もやめて、個人事務所で設計をやり、各所の公共建物などを手がけた人である。
◆さて、文化庁の戦争遺跡の史跡指定候補として、詳細調査のリストに、大阪府では3箇所が挙げられていたはずだ。うちひとつが大阪砲兵工廠跡。その化学分析場。なんか悲しくなる。公園整備の資材置き場みたいなものになっている。ここが砲兵工廠のかつての建物の中で、唯一残るものなんですよ、といった扱いになっていないのである。国の史跡になろうがなるまいが、大阪市としては、あるいは大阪府としては、文化財として整備すべきですよね。土地利用上、そういうように公開物として整備したとして、人がどれくらい来てくれるんだろうか、という問題はあるんでしょう。砲兵工廠のなかでも本体部分というより端っこ、ということもある。
◆建物は使ったらどうなんでしょう。ただし、見学者も入ってきて、玄関先あたりには、しっかりと砲兵工廠としてのアナウンスがしてある、といった使い方もできるように思うが・・・。
◆この建物、実は、難波宮第1号瓦を採集した置塩章さんお設計したもの。置塩さんは、そのあと兵庫県に出て、設計した建物は、だから兵庫県内の方が多く残るんではないか。あんまり知りませんが・・・。で、兵庫県もやめて、個人事務所で設計をやり、各所の公共建物などを手がけた人である。
◆さて、文化庁の戦争遺跡の史跡指定候補として、詳細調査のリストに、大阪府では3箇所が挙げられていたはずだ。うちひとつが大阪砲兵工廠跡。その化学分析場。なんか悲しくなる。公園整備の資材置き場みたいなものになっている。ここが砲兵工廠のかつての建物の中で、唯一残るものなんですよ、といった扱いになっていないのである。国の史跡になろうがなるまいが、大阪市としては、あるいは大阪府としては、文化財として整備すべきですよね。土地利用上、そういうように公開物として整備したとして、人がどれくらい来てくれるんだろうか、という問題はあるんでしょう。砲兵工廠のなかでも本体部分というより端っこ、ということもある。
◆建物は使ったらどうなんでしょう。ただし、見学者も入ってきて、玄関先あたりには、しっかりと砲兵工廠としてのアナウンスがしてある、といった使い方もできるように思うが・・・。
旧代師団司令部&大阪市立博物館
◆いまの大阪歴博ができたことにより、2001年に市立博物館としては閉館し、そのまま。大阪城の魅力
アップ会議の課題のひとつ。
◆大阪市は1929年2月に昭和天皇即位の記念事業として、大阪城公園の整備と大阪城天守閣の復興とともに、城内に分散していた陸軍施設を集約するために陸軍第4師団司令部庁舎を新築し、国へ寄贈した。設計は第4師団経理部、施工は清水組があたり、1929年4月に着工し、1931年3月に竣工した。この記念事業の財源は大阪市民からの寄付150万円によって賄われたが、天守閣の再建費用が47万円であったのに対し、第4師団庁舎建設費用は80万円だった。外観は左右対称のロマネスク様式で、ノルマン地方の古城の意匠をもとに褐色色斑スクラッチタイルで仕上られた。戦災を受けず終戦を迎え、戦後は連合国軍により1948年まで接収される。返還後、大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として利用される。大阪府警が現在地の大手前に移転した1958年に再び大阪市の管理下に置かれ、利用方法として大阪市は郷土博物館、歴史博物館とすることに決め、1960年5月1日に教育委員会に博物館創設事務室を設置した。この時、開館日を12月1日と決定し、博物館への転用のための改装工事が行われたが、軍事施設として頑丈に作られていたため、改装に時間がかかることから、1階と地階部分を第1期改修とし、2~3階部分を未改修のまま、1階部分のみを開館することとなった。また、もともと所蔵品が無く、資料の蒐集と調査の準備期間が短かったため、当初は他館やコレクターの所蔵品による企画展示に頼っていた。1962年に一旦休館した上で、2~3階の改修工事を行い、11月1日に全面会館。大阪の歴史に関する史料・資料を最終的には7万点も揃えるようになり、1963年に人文系博物館資料の分類表をはじめて発表するなど、研究活動も盛んになり、地域の歴史を扱う博物館の先駆的存在だった。【ウィキ】
◆そうか、それまでは美術館だったんだ。それで市立博物館ができる。たぶん、これで考古系は博物館に移るんだろうな。そういうことも、あんまり知らない。
◆大阪歴史博物館の分館として、大阪近代史博物館とでも命名すればよい。あるいは軍都大阪博物館、名前がいやなら戦争博物館。で、ピースには行ったことがないが、右翼に軍都大阪の歴史を、左翼にピースを移設するとか。いずれにしても、大阪砲兵工廠は終戦前日の空襲で焼け落ち、城東は様変わりしてしまったので、大村益次郎に始まる大阪の軍の歴史をたどる博物館にすればいいのだ。
◆あるいは、大阪文化財研究所が入るとか、大阪城の公園事務所が入り、将来的には大阪城研究所が入ればよい。とはいえ、大阪城本丸に来る外国人を含む観光客の多さを考えると、戦争博物館にすれば、かなり優れた教育施設になりうるだろうな~。
◆大阪市は1929年2月に昭和天皇即位の記念事業として、大阪城公園の整備と大阪城天守閣の復興とともに、城内に分散していた陸軍施設を集約するために陸軍第4師団司令部庁舎を新築し、国へ寄贈した。設計は第4師団経理部、施工は清水組があたり、1929年4月に着工し、1931年3月に竣工した。この記念事業の財源は大阪市民からの寄付150万円によって賄われたが、天守閣の再建費用が47万円であったのに対し、第4師団庁舎建設費用は80万円だった。外観は左右対称のロマネスク様式で、ノルマン地方の古城の意匠をもとに褐色色斑スクラッチタイルで仕上られた。戦災を受けず終戦を迎え、戦後は連合国軍により1948年まで接収される。返還後、大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として利用される。大阪府警が現在地の大手前に移転した1958年に再び大阪市の管理下に置かれ、利用方法として大阪市は郷土博物館、歴史博物館とすることに決め、1960年5月1日に教育委員会に博物館創設事務室を設置した。この時、開館日を12月1日と決定し、博物館への転用のための改装工事が行われたが、軍事施設として頑丈に作られていたため、改装に時間がかかることから、1階と地階部分を第1期改修とし、2~3階部分を未改修のまま、1階部分のみを開館することとなった。また、もともと所蔵品が無く、資料の蒐集と調査の準備期間が短かったため、当初は他館やコレクターの所蔵品による企画展示に頼っていた。1962年に一旦休館した上で、2~3階の改修工事を行い、11月1日に全面会館。大阪の歴史に関する史料・資料を最終的には7万点も揃えるようになり、1963年に人文系博物館資料の分類表をはじめて発表するなど、研究活動も盛んになり、地域の歴史を扱う博物館の先駆的存在だった。【ウィキ】
◆そうか、それまでは美術館だったんだ。それで市立博物館ができる。たぶん、これで考古系は博物館に移るんだろうな。そういうことも、あんまり知らない。
◆大阪歴史博物館の分館として、大阪近代史博物館とでも命名すればよい。あるいは軍都大阪博物館、名前がいやなら戦争博物館。で、ピースには行ったことがないが、右翼に軍都大阪の歴史を、左翼にピースを移設するとか。いずれにしても、大阪砲兵工廠は終戦前日の空襲で焼け落ち、城東は様変わりしてしまったので、大村益次郎に始まる大阪の軍の歴史をたどる博物館にすればいいのだ。
◆あるいは、大阪文化財研究所が入るとか、大阪城の公園事務所が入り、将来的には大阪城研究所が入ればよい。とはいえ、大阪城本丸に来る外国人を含む観光客の多さを考えると、戦争博物館にすれば、かなり優れた教育施設になりうるだろうな~。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。