人を幸せにする人になろう

無題

視角15歳から24歳の5人に1人は学校に行っていないんだそうだ。5人に1人が学校に行かない事態について、森巣博は、自己責任ではない、制度が破綻しているんだという。


すべては雇用の安定

◆少子化対策のもっとも根幹は安定した雇用による生活の不安解消。カミさんが常に言う「公務員宿舎を見よ」と。相模大野の宿舎、「少子化ってどこの国のこと?」というほど子供にあふれている。3人いるのはザラだ。これが親方日の丸ということだ。ほとんどは専業主婦なんだろう。新築公務員宿舎に住んで家賃は2万数千円、首を切られることはない、安定した収入、あの一等地、民間なら13万円くらいだろう。国家公務員でも民間賃貸だと、住居手当半額、上限4~5万とか決まっている。おれも奈文研のときは公務員宿舎に入れてくれなかった。
◆脱線した。国家公務員の優遇制度を問題にしたいのではない。こういう安定した雇用、安定した収入があれば、子供ができるのだ。作れるのだ。
◆ただし子供作る作らないのは個人の自由。それがきっちり尊重されなければならない。その上でだ、やっぱり年収200万円では結婚もできないし、まして子供も作れないでしょ。そして年金も支えられない。国民年金の支払い率は6割だそうだ。4割は払えない(払わないヤツもいるのだろうが)。だから何がもっとも重要かということ。保育園・幼稚園の無償化、とかも考えてもいいかもしれないが、根本に手を付けなければ、それは小手先ということになる。安定した雇用、生活の不安解消、それをどうするかを柱に据えること、それに成功すれば、子供は自然に増加するであろう。
◆そのためにはどうするか。派遣法は1999年以前に戻すことだ。大阪大学に行ったアメリカ史の中野耕太郎氏は、派遣労働そのものの違法を指摘していた。よくわからんかったが。西欧では違うらしい。そんな雇用は許されない、といったことを言っていたように思う・・・。で、民間は民間にまかせればよい。民間が商業ベースでやれること以外の分野で、かつ不可欠な分野、さっきの小麦もそうだが、林業なども、国直轄で産業を育成すればよい。場合によっては、医療もすべて民間を禁止し、すべて国家公務員にすればよい。高齢者福祉も。極論だが、しかし2%の経済成長はいらない。公がやることは、経済成長ではない。国策的にやらねばならないことはやったらいいが、新産業創成などは民間に任せとけばよい。そうではなく、国費の再分配による雇用の安定だ。失業率0%の社会の実現だ。子供も増え、国民年金の支払い率も増え、犯罪も減る。
◆少子化担当大臣よ、国家公務員宿舎に視察に行け。

森公章さんをテレビで見ました

◆NHKの日本と朝鮮半島の特番の再放送で、7世紀のところを見た。どんなんだったっけ。乙巳の変、大化の改新、白村江、天武朝までだったかな。森公章さんを久しぶりに見た。白髪がまじり、もとから恰幅はいいし。発言は棒読みに近かったが、にやりとする表情がなかなかよい。

大雨に赤潮、養殖魚の死滅

◆赤潮のニュース。豪雨で多量の川水が海に流れ込む、川水には海水の20倍の栄養分があり、その多量供給で、植物性プランクトンが増殖して大量発生したらしい。そういうものなんだ。

キトラの壁画、高松塚は?

◆キトラ貼り戻し不可との判断が出たんだって。高松塚を戻すかどうかにも影響があろうと、新聞記事にあった。もはや恒久対策作業部会委員でもないので、高松塚の検討が、どんなスケジュールでどう進んでいるか、まったくわからないが、見守っておこう。

異常気象

◆7月末というのに梅雨あがらず。昨夜も大雨。明日1日はPLの花火だが、けっこうな大雨だという。どうなることか。例年ならもっとも暑い時期だ。海水温があがってきていないらしい。太平洋高気圧が弱いのだ。

国はどのように破綻するのか

◆50兆円の税収に対して80兆円の支出、累積赤字はいくらだろう、もうすこしで1000兆円となる。800万円の084e0686.jpg年収に換算すると、支出が1280万円、毎年480万円借金を重ね、累積1億6000万円、いわゆる自己破産だ。
◆給料があるのは定年まで、それに対して国は永遠に続くと思われている。それでもプライマリーバランスを取り、返済計画を立てなければなるまい。支出を税収の範囲50兆円に抑えても、借金は減らず利息のため増えてゆく。40兆円におさえ、10兆円を返済にまわしても、今後の金利を考慮せず1000兆円として100年かかる。
◆米国債が暴落すれば、さらに資産も目減りする。自転車操業以下である。さて、こうした行き着く先はどうなるのか。国債の格付けがあり、日本の国債は価値を下げている。返済できる見込みなく、信用されなくなるということだ。
◆返済は短期・長期いろいろある。次年度に返済しなければならない額があり、また国債を発行する。どうなるんだろうか。例えば誰も買ってくれなくなるとか。しかし、日本人はお人好しだから買うんだろう。国はなくならないから確実に返ってくると投資してくれるか。しかし限度はあろう。格付けが下がり外国および外国人投資家は買わなくなる。国内で買ってくれるうちはよいが、それも手を引き始めると、借金でまかなえなくなる。これで破綻。そうするとどうなる?取り付け騒ぎ?、外国および外国人投資家に支払わねばならないものは払い、日本人の国債はモラトリアム?。その前に円がそもそも暴落?。そうなるともっと早く外国への支払いも破綻する。また、国債は不良債権となり、預貯金は額面はともかく無価値になる?。で、IMFとかなんとかが出てくるのかな。
◆タイとか韓国とか、以前の事例を見ればわかるのかな。え~い、想像できん

竹取物語

◆キトラと高松塚が阿倍御主人と石上麻呂だとすると、天武・持統朝の重臣、5人の貴公子を思い浮かべる。この5人の墓には、壁画があってよいのではないかと。なのであと3つある、とひそかに思っていた。でも、御幸と嶋は御主人より早くに死んでいる。だからどうだかわかんないな。それにしても不比等の墓が知りたい。

◆マルコ山古墳(前園説)
691川島皇子(かわしまのみこ)斉明3(657)-持統5年9月9日(691年10月6日)
浄大参(四品) 34歳
『日本書紀』越智野
◆なんとか古墳
701大伴御行(おおとものみゆき)大化2年(646年)?-大宝元年1月15日(701年2月27日)
大納言・正広参 56歳 (贈)右大臣・正広弐
◆なんとか古墳
701多治比嶋(たじひのしま)推古32年(624年)-大宝元年7月21日(701年8月29日)
左大臣・正二位 78歳
◆キトラ古墳
703阿倍御主人(あべのみうし)舒明7年(635年)-大宝3年閏4月1日(703年5月20日)
右大臣・従二位 69歳
◆高松塚古墳
717石上麻呂(いそのかみのまろ)舒明12年(640年)-霊亀3年3月3日(717年4月22日)
左大臣・正二位 78歳 (贈)従一位
◆なんとか古墳(墓)
720藤原不比等(ふじわらのふひと)斉明5年(659年)-養老4年8月3日(720年9月13日)
右大臣・正二位 63歳 (贈)太政大臣・正一位
◆石のカラトは?
※データはウィキによる。

考古学通論の試験

◆昨日2限は考古学通論の試験だった。持ち込み可、あらかじめざっっくりとした論述問題であることも言ってある。持ち込み可だから、いろいろ書けるけれど、単なる羅列ではダメよとも。1時間半、みなうんうんと書き込む。これでいいと思っている。けっこう今期はマニアックな授業だったし、持ち込み不可で、ほとんど書けずに早々に出て行く者続出の試験よりも、1時間半、集中して論述すること、これはいい風景だと感じている。数年前からのスタイル。
◆試験中、本を読んでいるわけにもいかないし、いつもメモ用紙を前に思索することにしている。試験中なので、なにも資料はない、あくまでも頭で考える。1時間半集中というわけにはいかないが、これもいい時間だ。2つのことを考えていた。ひとつは横穴式石室の話だが、これもいくつかのチェックポイントに気付いた。もうひとつは、5世紀後半以降の2王並立解消および河内大塚の問題だった。
◆試験時間にまとめた考え。允恭の次の世代は、キナシカルとイチノベ、土師ニサンザイと市野山はだいたい同じ時期。
◆460年頃には総入れ替え。神聖王シラカと執政王ワカタケル、ワカタケル墓が岡ミサンザイとして、河内大塚はシラカの神聖王墓として築造開始、未完に終わったのではないか。ともかく河内大塚が土師ニサンザイの後続形式とすると、日継とされる神聖王シラカの墳墓ということになる。ワカタケルは履中系のイチノベを殺害し、履中系が執政王も独占する。ワカタケルは479に没するが、倭王武であるシラカは6世紀初頭まで生存していた可能性がある(南朝梁だったかへの倭王武の献使、これは一般的には否定的に見られているが)。
◆このあとオケ・ヲケ王が登場する。顕宗の実在は疑わしいが仁賢は実在したとされている。これはなんだろうか。仁賢陵となっているボケ山古墳は、古市の100m級の前方後円墳。河内大塚は約300mで、これは神聖王墓の規範にしたがった規模であるが、執政王墓は岡ミサンザイからは大きく規模を落としている。シラカ王の段階では、まだ2王並立で、執政王として仁賢を擁立するが、執政王の墳丘規模を制限したと思われる。
◆しかし河内大塚は未完らしい。葺石もなければ埴輪もない。両宮山と同じだ。西田さんは横穴式石室だというが、これについては来年2月の立ち入りまでにもう少し勉強しておこう。だがしかし、前方後円墳としては未完と考えざるをえない。晩年に何かあったのだ。
◆考えられるのはオホドの擁立だろう。仁賢没後に大伴金村らが担ぎ出したオホド、彼は北陸を基盤とする政治的実力者で、執政王位に就く。前に福永さんが、和歌山・隅田八幡の人物画像鏡の話をしたとき、詳しくは忘れたが、『日本書紀』による即位年より前(何年だったか、503年とかそれくらい)に、実際には王になっていたといった話をしていた。百済・武寧王との密接な関係がある。オホド擁立そのものが百済の意向がかなり反映しているのかもしれない。問題は河内政権シラカ王と、オホド王の関係である。シラカは仁賢を立てながらも権力を掌握していたとも思われるが、これに対する反動として、河内政権を支える大伴・物部に裏切られ、仁賢後にオホド王を担ぎ出し、シラカを排除したのかもしれない。これによって河内大塚は未完に終わった。実権をにぎっていたシラカ、古市古墳群と百舌鳥古墳群のちょうど中間に河内大塚を築造しながら、河内政権はオホドをかつぐ大伴・物部のクーデタによって瓦解する。
◆オホドの新政権は、従来の葬法を一挙に転換する。6世紀の畿内型横穴式石室の原型は、柏原・高井田山古墳。安村さんによれば、百済王族の墓で、475年直後と推定している。畿内の倭人の横穴式石室採用はそれ以降となる。やっぱり、5世紀までの王墓は竪穴系で、横穴式石室の採用は今城塚からと考えるべきなんだろう。今城塚古墳の入念な基礎構造を見ていると、はじめて前方後円墳に横穴式石室を組み込む葬法が採用されたことにともなう、特殊なあり方とみるにふさわしい。石室は百済として、石棺との組み合わせからすると、阿蘇石石棺を製作した有明海沿岸の百済直結勢力の影響が大きいのだろう。全羅南道の倭系百済官人の前方後円墳もちょうどこの時期。
◆武寧王の時代は、熊津時代の全盛期。475に漢城を失い遷都するが、復興を遂げ、南朝に朝貢し、安定を見ていた。倭の軍事支援を一層引き出すため、武寧王は、有明海沿岸勢力、大伴金村、オホドと密接に連携し、親百済政権を樹立したということか。これが河内政権の終焉となる(古市ではいましばらく中規模の前方後円墳は残存する)。
◆横穴式石室のリストを見ると、圧倒的に大和だ。河内の群衆墳は早いけれども、渡来系の色合いが濃い。倭人の首長墓で、比較的大型の横穴式石室墳のほとんどは大和だ。河内政権打倒には、大和の豪族がかなり荷担したのではないか。むろん淀川流域から近江~東海というラインもあるが、大和も河内にとってかわる運動を推進したことの表れか(埴輪の製作技法と関連しそうだ)。6世紀、政権本拠が大和に移る背景には、オホド擁立を推進した大和諸勢力があったのかもしれない。
◆さ、仕事しよう。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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