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考古学通論の試験

◆昨日2限は考古学通論の試験だった。持ち込み可、あらかじめざっっくりとした論述問題であることも言ってある。持ち込み可だから、いろいろ書けるけれど、単なる羅列ではダメよとも。1時間半、みなうんうんと書き込む。これでいいと思っている。けっこう今期はマニアックな授業だったし、持ち込み不可で、ほとんど書けずに早々に出て行く者続出の試験よりも、1時間半、集中して論述すること、これはいい風景だと感じている。数年前からのスタイル。
◆試験中、本を読んでいるわけにもいかないし、いつもメモ用紙を前に思索することにしている。試験中なので、なにも資料はない、あくまでも頭で考える。1時間半集中というわけにはいかないが、これもいい時間だ。2つのことを考えていた。ひとつは横穴式石室の話だが、これもいくつかのチェックポイントに気付いた。もうひとつは、5世紀後半以降の2王並立解消および河内大塚の問題だった。
◆試験時間にまとめた考え。允恭の次の世代は、キナシカルとイチノベ、土師ニサンザイと市野山はだいたい同じ時期。
◆460年頃には総入れ替え。神聖王シラカと執政王ワカタケル、ワカタケル墓が岡ミサンザイとして、河内大塚はシラカの神聖王墓として築造開始、未完に終わったのではないか。ともかく河内大塚が土師ニサンザイの後続形式とすると、日継とされる神聖王シラカの墳墓ということになる。ワカタケルは履中系のイチノベを殺害し、履中系が執政王も独占する。ワカタケルは479に没するが、倭王武であるシラカは6世紀初頭まで生存していた可能性がある(南朝梁だったかへの倭王武の献使、これは一般的には否定的に見られているが)。
◆このあとオケ・ヲケ王が登場する。顕宗の実在は疑わしいが仁賢は実在したとされている。これはなんだろうか。仁賢陵となっているボケ山古墳は、古市の100m級の前方後円墳。河内大塚は約300mで、これは神聖王墓の規範にしたがった規模であるが、執政王墓は岡ミサンザイからは大きく規模を落としている。シラカ王の段階では、まだ2王並立で、執政王として仁賢を擁立するが、執政王の墳丘規模を制限したと思われる。
◆しかし河内大塚は未完らしい。葺石もなければ埴輪もない。両宮山と同じだ。西田さんは横穴式石室だというが、これについては来年2月の立ち入りまでにもう少し勉強しておこう。だがしかし、前方後円墳としては未完と考えざるをえない。晩年に何かあったのだ。
◆考えられるのはオホドの擁立だろう。仁賢没後に大伴金村らが担ぎ出したオホド、彼は北陸を基盤とする政治的実力者で、執政王位に就く。前に福永さんが、和歌山・隅田八幡の人物画像鏡の話をしたとき、詳しくは忘れたが、『日本書紀』による即位年より前(何年だったか、503年とかそれくらい)に、実際には王になっていたといった話をしていた。百済・武寧王との密接な関係がある。オホド擁立そのものが百済の意向がかなり反映しているのかもしれない。問題は河内政権シラカ王と、オホド王の関係である。シラカは仁賢を立てながらも権力を掌握していたとも思われるが、これに対する反動として、河内政権を支える大伴・物部に裏切られ、仁賢後にオホド王を担ぎ出し、シラカを排除したのかもしれない。これによって河内大塚は未完に終わった。実権をにぎっていたシラカ、古市古墳群と百舌鳥古墳群のちょうど中間に河内大塚を築造しながら、河内政権はオホドをかつぐ大伴・物部のクーデタによって瓦解する。
◆オホドの新政権は、従来の葬法を一挙に転換する。6世紀の畿内型横穴式石室の原型は、柏原・高井田山古墳。安村さんによれば、百済王族の墓で、475年直後と推定している。畿内の倭人の横穴式石室採用はそれ以降となる。やっぱり、5世紀までの王墓は竪穴系で、横穴式石室の採用は今城塚からと考えるべきなんだろう。今城塚古墳の入念な基礎構造を見ていると、はじめて前方後円墳に横穴式石室を組み込む葬法が採用されたことにともなう、特殊なあり方とみるにふさわしい。石室は百済として、石棺との組み合わせからすると、阿蘇石石棺を製作した有明海沿岸の百済直結勢力の影響が大きいのだろう。全羅南道の倭系百済官人の前方後円墳もちょうどこの時期。
◆武寧王の時代は、熊津時代の全盛期。475に漢城を失い遷都するが、復興を遂げ、南朝に朝貢し、安定を見ていた。倭の軍事支援を一層引き出すため、武寧王は、有明海沿岸勢力、大伴金村、オホドと密接に連携し、親百済政権を樹立したということか。これが河内政権の終焉となる(古市ではいましばらく中規模の前方後円墳は残存する)。
◆横穴式石室のリストを見ると、圧倒的に大和だ。河内の群衆墳は早いけれども、渡来系の色合いが濃い。倭人の首長墓で、比較的大型の横穴式石室墳のほとんどは大和だ。河内政権打倒には、大和の豪族がかなり荷担したのではないか。むろん淀川流域から近江~東海というラインもあるが、大和も河内にとってかわる運動を推進したことの表れか(埴輪の製作技法と関連しそうだ)。6世紀、政権本拠が大和に移る背景には、オホド擁立を推進した大和諸勢力があったのかもしれない。
◆さ、仕事しよう。

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HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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