人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
2023年9月18日 旧美杉村7 織田信雄
◆北畠を織田が乗っ取るのですね(以下、ウィキ参照)。 永禄12年、信長は伊勢大河内城を攻め、北畠具教は和議を請い、その条件として信長の次男・信雄(茶筅)が北畠の養嗣子となることが決まる。具教の娘の千代御前(雪姫)との婚儀は、元亀2年(1571年)のことという。北畠具豊と名乗る。天正2年(1574年)7月、北畠ら南伊勢衆を率いて長島攻めに参戦、これが初陣であったと思われる。天正3年6月、具豊は北畠家の家督(伊勢国司)を相続。6月23日、具教・具房父子は三瀬御所に隠居。家督相続を機に信意に改名したとみられる。
◆天正4年(1576年)11月、信長は北畠一族を粛清。三瀬の変で、北畠具教やその子らが謀殺される。北畠政成ら残党が霧山城(多気御所)に立て籠もると、信長は羽柴秀吉、神戸信孝、関盛信ら諸将と15,000の兵を差し向けて、12月4日に攻め立てて政成らを自害させた。
◆信意の正室である千代御前は、11月28日、父と兄弟が夫によって謀殺されたと知ると、自害して果てた。千代御前は戦国随一との評判の美貌で、享年19。三瀬の変によって北畠勢力は一掃され、北畠家の南伊勢5郡の勢力は、そのまま信意の権力基盤へと継承されていった。
◆織田信雄という人物、その後もなかなか波乱万丈ですね。
◆宇多松山藩について(ウィキ)
関ヶ原の戦いの功績により福島高晴が3万石余で伊勢国長島から加増転封されて立藩した。高晴は1615年の大坂夏の陣で豊臣氏に内通した嫌疑をかけられて改易され、織田信雄が大和国と上野国両国内に合わせて5万石を与えられて入封した。その際、天下人であった織田信長の子であるという所以から国主格も与えられた。信雄は上野の所領を四男の信良に与え、自身は隠居領として大和2万8000石を領した。1630年に信雄が死去すると、大和の所領は五男の高長が継いだ。その後、長頼・信武と続くが、藩内に混乱が起こり信武は自殺した(宇陀崩れ)。信長の血統であるということを重んじられて、信武の子・信休への家督相続こそ認められたが、所領を2万石に減らされた上で丹波柏原藩へ減移封された。国主格として扱われていた待遇も、このときに剥奪された。宇陀松山藩はこれをもって廃藩となった。
◆まあしかし、信雄は松山の統治は家臣に任せ、京都にいたようだ。
◆天正4年(1576年)11月、信長は北畠一族を粛清。三瀬の変で、北畠具教やその子らが謀殺される。北畠政成ら残党が霧山城(多気御所)に立て籠もると、信長は羽柴秀吉、神戸信孝、関盛信ら諸将と15,000の兵を差し向けて、12月4日に攻め立てて政成らを自害させた。
◆信意の正室である千代御前は、11月28日、父と兄弟が夫によって謀殺されたと知ると、自害して果てた。千代御前は戦国随一との評判の美貌で、享年19。三瀬の変によって北畠勢力は一掃され、北畠家の南伊勢5郡の勢力は、そのまま信意の権力基盤へと継承されていった。
◆織田信雄という人物、その後もなかなか波乱万丈ですね。
◆宇多松山藩について(ウィキ)
関ヶ原の戦いの功績により福島高晴が3万石余で伊勢国長島から加増転封されて立藩した。高晴は1615年の大坂夏の陣で豊臣氏に内通した嫌疑をかけられて改易され、織田信雄が大和国と上野国両国内に合わせて5万石を与えられて入封した。その際、天下人であった織田信長の子であるという所以から国主格も与えられた。信雄は上野の所領を四男の信良に与え、自身は隠居領として大和2万8000石を領した。1630年に信雄が死去すると、大和の所領は五男の高長が継いだ。その後、長頼・信武と続くが、藩内に混乱が起こり信武は自殺した(宇陀崩れ)。信長の血統であるということを重んじられて、信武の子・信休への家督相続こそ認められたが、所領を2万石に減らされた上で丹波柏原藩へ減移封された。国主格として扱われていた待遇も、このときに剥奪された。宇陀松山藩はこれをもって廃藩となった。
◆まあしかし、信雄は松山の統治は家臣に任せ、京都にいたようだ。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。