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半島派兵

◆レキハクの研究会の時に、オレが佐紀段階前半の派兵について書いたことに対し、交易でもいいのではないかと質問を受ける。ありがとうございます。考えがあって書いたが忘れている場合、あまり深く考えずに書いてしまった場合、いろいろあるが、この場合は後者か。そのへんの論拠はなくとも考え方をもう少し書き込み、さらに慎重な言い方が必要だろうと反省。
◆しかし、白村江に至る倭の半島関与は、文献から明らかと考えている。考古学的証拠は、オレは4世紀中頃までさかのぼるとみたわけだが、それ以降を含めて、直接的なものはない。だけどあったと考えているのがベース。考古学者が、考古学的証拠がない以上、あったとはいえないという姿勢は取らない。派兵の頻度や中身についての、文献史側の到達点を熟知しているわけではないが・・・。で、400年前後の対高句麗戦も確かだろう。そして、360年代・370年代の百済支援も、吉田晶先生のいうように、盟約が成立した以上、派兵しているんだろうと思う。で、どこまで明言するかは別に、そう思っているのが大方であろう。
◆オレは、それがいま少し早く4世紀中頃までさかのぼり、それは伽耶からの要請による派兵とみたわけだ。いままで見たような時代背景がひとつ。そして大阪湾岸および丹後半島を押さえている、というのが自分の拠って立つ根拠。それから、紫金山古墳はじめ、朝鮮半島系の遺物が登場し始め、それが鉄製甲冑でありヤリに取り付けた筒形銅器である、ということによる。それくらい。
◆海上交通を押さえようとしたことが古墳からうかがえるとみているわけだが、それが兵隊を送り込むこと、とまでいえるのか、それは王権が直接交易を仕切ろうという姿勢の表れか、という、そこのところの判断になる。交易ならば、玄界灘沿岸をより強固に王権が直接管掌するということでもいいのではないかと思う。いずれにしても、王権直属の倭軍などはなく、各地の豪族が兵卒を連れての出兵なのだが、5世紀のイメージが列島各地からの動員であるのに対し、佐紀段階は畿内および周辺地域だろうと。したがって、豪族に委ねる形に変わりなくとも、5世紀のそれぞれ行ってね、でなく、大阪湾岸と丹後半島から送り込む体制を整えなければならなかった、そんなことが考えられます。ハカザの船の絵や、神明山の船の絵、船形埴輪など、そこから攻めることもちゃんとやらねばなるまい。それが交易が大規模化するとかというのでなく、多くの人間を乗せるためだった、といえるかどうか、指摘をふまえ、さらに考えてみたい。
◆もひとつ。半島派兵などという言葉は、自分でも、そう言いながら、あんまり声高には言えないな~と思うことがある(言葉は考えてみます)。どうも、そういうオレの言い方に対する危惧もあるようだ(前に聞いた)。確かに慎重な言い方を心がけます。しかし、4世紀中頃にさかのぼるかどうかは程度問題で、古墳時代から7世紀にかけて、そういう時代であったことに変わりはない。それは、例えば日本の優位性といったことを主張したいヤツラに使われる虞はあるのは確かだろう。壬申倭乱や近代史と結びつけられるかもしれない。が、あったことはなしにはできない。また、古墳時代などにおける日韓の考古学の交流は、そんなことで反目することはないと思う。礼儀は必要ながら、事実関係をそれぞれで明らかにしていける、そういう関係はできあがっているのではないでしょうか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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