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牽牛子塚

◆斉明は661没、娘の間人は665没、一旦埋葬されたあと、667年に牽牛子塚古墳に葬られ(667前とも考えられているらしい)、また越塚御門古墳に孫の太田皇女が葬られた。
◆白石太一郎は、岩屋山古墳を斉明陵と考え、牽牛子塚古墳は699年の修造の際に場所を移して新設したものと考えている。しかしかなり大規模な改修と考えられるものの(凝灰岩?の石が数百出土しているという)、新設して改葬したのではなく、やはり牽牛子塚古墳そのものに手を入れたとみるべきだろう。問題は牽牛子塚古墳の石槨の位置づけにかかっている。
◆まず、牽牛子塚古墳の石槨が前面に羨道部をもたないことは確定していない。688の埋葬までに造営された天武陵である野口王墓は、羨道があり墳丘側面に入口を開いており、キトラ古墳や中尾山古墳のように墳丘に最終的に埋め込む形態は8世紀に下る。越塚御門古墳でも墓道とされるものが検出されているが、石槨に近い部分には抜き取り穴があり羨道があったとみてよい。次に、鬼の雪隠古墳のように花崗岩を刳り抜くものがあり、次に凝灰岩の導入へと進み、より加工しやすい凝灰岩を刳り抜くことが試みられたと考えられる。688年の野口王墓では凝灰岩でも既に切石を組み立てる方式となっている。そして羨道をなくし墳丘に埋め込むキトラ古墳へと推移する変化は容易にたどることができる。
◆凝灰岩導入(刳り抜き)+おそらく羨道→凝灰岩切石(組立式)+羨道→凝灰岩切石(組立式)羨道なし、という推移は自然に理解でき、牽牛子塚古墳の石槨は野口王墓以前であり、699年に新設したと考えることは困難である。
◆全体として並存関係はあるにせよ、鬼の雪隠タイプが古相で(鬼の雪隠古墳そのものも羨道がなかったことが確定しているわけでなく、石宝殿古墳と同じように羨道があった可能性が高いだろう)。牽牛子塚古墳の頃に凝灰岩が導入され、以後、切石組み合わせに進んでいくと考えて問題はない。越塚御門古墳との並存は、鬼の雪隠タイプの1点が667年にあり、また凝灰岩導入がこの時期に位置づけられることを示す。
【追記】当然のことながら、岩屋山式を667とする見方も無理である。

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プロフィール

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雲楽
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60
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男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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