人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
牽牛子塚古墳について書いたもの
◆前にだいたいの考えは書いた。これが原稿になったので掲げておく。
658年に天智の子である孫の建王が八歳で没し今来谷に葬られ、斉明は自分の死後、必ず合葬するように指示したという。斉明は661年7月に筑紫で没するが、その後、しばらく埋葬の記事はない。665年に間人皇女が没し、667年2月の記事で両者が小市岡上陵に「合葬」されたことが記され、この時、小市岡上陵の前に大田皇女を葬ったという。そして30年後の699年10月に天智陵とともに越智山陵の修造が命じられる。
2010年に牽牛子塚古墳およびその東南で新たに発見された越塚御門古墳が調査され、牽牛子塚古墳が斉明陵であり、また越塚御門古墳が大田皇女の墓であることが確定した。
また西光慎治は、敏達未完陵である平田梅山古墳、その東の吉備姫王墓であるカナヅカ古墳に続く、二つの石槨を内蔵する「鬼の俎・雪隠古墳」(明日香村、長辺40m)を、斉明と建王の合葬墓とみる。そうすると、665年の間人皇女の死没にともない、天智が新たに牽牛子塚古墳を造営し移葬したところ、667年に大田皇女が没し、隣接して越塚御門古墳に葬ったということになる。
以上が妥当とすれば、花崗岩の底石と蓋石の組み合わせによる鬼の俎・雪隠タイプの横口式石槨は、650年代末から660年代に位置づけられる。そして、それと重なる660年代半ばに、凝灰岩刳り抜き式の石槨が導入されたことがわかる。
これに対し、白石太一郎は、牽牛子塚古墳の石槨が7世紀末から8世紀初頭のものとみて、岩屋山古墳が斉明陵で、その前面に大田墓も造営されたが、699年に場所を移して新造したものが牽牛子塚古墳と越塚御門古墳と主張する。
問題は牽牛子塚古墳の石槨の年代である。牽牛子塚古墳では、羨道や明確な墓道は検出されていないが、塚御門古墳では墓道がある。688年に天武を埋葬した檜隈大内陵である野口王墓古墳では、約3.5mの前室があり、その前面に「石橋」があり、墳丘側面に入口を開いていた可能性がある。キトラ古墳のような石槨のみで、それを墳丘に埋め込む形態は確かに8世紀に下る。牽牛子塚古墳の前面については、構築過程はなお明確ではなく、現状は8世紀末にふさわしいとみることもできるが、隣接する塚御門古墳の墓道の存在と矛盾する。修築を考える余地があろう。
鬼の俎・雪隠タイプでは蓋石は花崗岩を刳り抜くものであるが、益田岩船のように花崗岩を完全に刳り抜くことが試みられるが、刳り抜きの容易な凝灰岩の導入へと進んだと考えられる(西光慎治)。また凝灰岩によるものは、刳り抜き式から、接合部の合い欠きなどの加工を施した精緻な切石の組み合わせ式に進むと考えてよいだろう。そして切石組み合わせ式のなかでは、完全に導入部をなくし石槨のみを墳丘に埋め込む方式へ最終的に推移する。以上のような変遷観からすると、牽牛子塚古墳の凝灰岩刳り抜き石槨は、花崗岩による鬼の俎・雪隠タイプと、凝灰岩でも切石組み合わせ式の野口王墓古墳の間にやはり位置づけられるのではないだろうか。
牽牛子塚古墳は、665年の間人没後に、凝灰岩を導入することとし、完全刳り抜き式として築造されたものと考えておきたい。
658年に天智の子である孫の建王が八歳で没し今来谷に葬られ、斉明は自分の死後、必ず合葬するように指示したという。斉明は661年7月に筑紫で没するが、その後、しばらく埋葬の記事はない。665年に間人皇女が没し、667年2月の記事で両者が小市岡上陵に「合葬」されたことが記され、この時、小市岡上陵の前に大田皇女を葬ったという。そして30年後の699年10月に天智陵とともに越智山陵の修造が命じられる。
2010年に牽牛子塚古墳およびその東南で新たに発見された越塚御門古墳が調査され、牽牛子塚古墳が斉明陵であり、また越塚御門古墳が大田皇女の墓であることが確定した。
また西光慎治は、敏達未完陵である平田梅山古墳、その東の吉備姫王墓であるカナヅカ古墳に続く、二つの石槨を内蔵する「鬼の俎・雪隠古墳」(明日香村、長辺40m)を、斉明と建王の合葬墓とみる。そうすると、665年の間人皇女の死没にともない、天智が新たに牽牛子塚古墳を造営し移葬したところ、667年に大田皇女が没し、隣接して越塚御門古墳に葬ったということになる。
以上が妥当とすれば、花崗岩の底石と蓋石の組み合わせによる鬼の俎・雪隠タイプの横口式石槨は、650年代末から660年代に位置づけられる。そして、それと重なる660年代半ばに、凝灰岩刳り抜き式の石槨が導入されたことがわかる。
これに対し、白石太一郎は、牽牛子塚古墳の石槨が7世紀末から8世紀初頭のものとみて、岩屋山古墳が斉明陵で、その前面に大田墓も造営されたが、699年に場所を移して新造したものが牽牛子塚古墳と越塚御門古墳と主張する。
問題は牽牛子塚古墳の石槨の年代である。牽牛子塚古墳では、羨道や明確な墓道は検出されていないが、塚御門古墳では墓道がある。688年に天武を埋葬した檜隈大内陵である野口王墓古墳では、約3.5mの前室があり、その前面に「石橋」があり、墳丘側面に入口を開いていた可能性がある。キトラ古墳のような石槨のみで、それを墳丘に埋め込む形態は確かに8世紀に下る。牽牛子塚古墳の前面については、構築過程はなお明確ではなく、現状は8世紀末にふさわしいとみることもできるが、隣接する塚御門古墳の墓道の存在と矛盾する。修築を考える余地があろう。
鬼の俎・雪隠タイプでは蓋石は花崗岩を刳り抜くものであるが、益田岩船のように花崗岩を完全に刳り抜くことが試みられるが、刳り抜きの容易な凝灰岩の導入へと進んだと考えられる(西光慎治)。また凝灰岩によるものは、刳り抜き式から、接合部の合い欠きなどの加工を施した精緻な切石の組み合わせ式に進むと考えてよいだろう。そして切石組み合わせ式のなかでは、完全に導入部をなくし石槨のみを墳丘に埋め込む方式へ最終的に推移する。以上のような変遷観からすると、牽牛子塚古墳の凝灰岩刳り抜き石槨は、花崗岩による鬼の俎・雪隠タイプと、凝灰岩でも切石組み合わせ式の野口王墓古墳の間にやはり位置づけられるのではないだろうか。
牽牛子塚古墳は、665年の間人没後に、凝灰岩を導入することとし、完全刳り抜き式として築造されたものと考えておきたい。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。