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玉手山古墳群の消長と政権交替(2005年3月)

◆『玉手山古墳群の研究Ⅴ』に書いた論文。近つの図録は、これをもとに松岳山の記述をリニューアルしようと考えているが、改めて読んでみたが、まあひと通りのことを書いていると、手前味噌ながら思う。ただ、五社神は、この時点でも宮内庁の発掘で新しいことがわかりつつあり、そう書いているが、それでも松岳山は五社神に似ていると正直に書いている。

 玉手山古墳群研究会が組織され、基礎的な資料の集積と分析がなされ、多面的な検討が進んだ。大阪市立大学日本史研究室が玉手山古墳群の調査を企画したのは、研究会がスタートして間もない時期であり、初期の段階にメンバーに加えていただき、調査が研究会の進行と平行して実施できたのは貴重なことであった。玉手山古墳群の調査は、主として墳丘を確認して王墓と比較していくことに主眼があったが、この4年間の調査で、当初の想定以上に目的に即した成果をえることができたが、研究会の成果によるところが大きい。
 玉手山古墳群の調査はいましばらく継続したいと考えているが、本稿では、これまでの調査研究にもとづき、玉手山古墳群の理解について荒削りな見通しをまとめておきたい。

1.古墳時代前期の王墓と時期区分
 以下の考察の前提となる古墳時代前期の王墓の変遷と時期区分についてふれておきたい。王墓ないしそれに準ずる巨大古墳の築造順序については、箸墓・桜井茶臼山・西殿塚・メスリ山・行燈山・渋谷向山・佐紀陵山・五社神という順序を考えている〔岸本2000〕。系列差をこえての時間的指標としては、後円部上段の発達度合いを参考にしている〔都出1985〕〔澤田2000〕。ただし、これは厳密には計画時の順序を示すとみるべきで、完成時期・埋葬時期は別途考える必要がある。
 メスリ山古墳からは鏃形石製品や滑石製合子が出土していて、一般的に年代を下げる傾向が強いが、埴輪研究者は古く位置付ける。メスリ山古墳の墳丘は前方部が傷んでいて全形を正確に復元しがたいが、後円部上段の発達具合からすると、それほど下げることはできない。筆者は柳本行燈山古墳よりも先行すると理解している。メスリ山古墳の相似墳といえる確実例はないが、寺戸大塚古墳はその蓋然性が高い。寺戸大塚古墳後円部からは三角縁三仏三獣鏡が出土しており、筆者は舶載末期の波文帯鏡群の段階に位置づけている〔岸本1995a〕。
 五社神古墳については、2003年の宮内庁の発掘によって埴輪の資料がえられ、また造出の存在が想定され、年代の下降が明らかになった。佐紀陵山古墳に比べて前方部上段が発達していることは、中期に進行する現象の始まりとして矛盾はない。陵山古墳の墳丘の系譜が問題となり、渋谷向山古墳に後続すると理解する澤田秀実の理解が当たっているのかもしれない〔澤田2000〕。五社神古墳そのものは、行燈山の枠組みをもとに前方部を発達させたものであり、仲津山古墳に受け継がれていくことは変更を要しない。佐紀古墳群の形成が200mあまりの陵山古墳に始まり、五社神が後続するという新たな理解に立つこととし、五社神古墳については改めて検討したい。
 前期古墳の編年については、副装品の組み合わせにもとづく大賀克彦の最近の編年案が参考になる〔大賀2002〕。大賀の前Ⅰ期はひとまずおき、前Ⅱ・前Ⅲ・前Ⅳの区分は、舶載三角縁神獣鏡の変遷観に照らして妥当なものであり、倭製三角縁神獣鏡の初期にあたる前Ⅴ期についても同様である。前Ⅵ・前Ⅶ期については、倭製三角縁神獣鏡は主体的な副葬品目からはずれ、普遍性からは倭製鏡の編年区分を軸とすることが適当であり、下垣仁志の倭製鏡の時期区分〔下垣2003〕をふまえているが、他の副葬品との組み合わせについては違和感のある部分もある。
 したがって、大賀編年をふまえつつ調整をはかる必要があり、いまただちにそれを示す準備はないが、およそ3世紀中頃から4世紀後半までを6期程度に区分することは可能になりつつある。したがって、副葬品の組み合わせによる区分案もなお検討を要するが、これに加えて埴輪の編年、墳丘の編年との対比を進める必要がある。埴輪については、オオヤマト古墳群の新出資料などをもとに細分化が進んでいるが〔鐘方2003〕、規格化が進むⅡ期の埴輪はともかく、Ⅰ期の埴輪については、まだ埴輪そのものが普遍的な存在ではなく、畿内においても地域差は大きいようである。またⅡ期の埴輪をともなう古墳は、それ以前に有力古墳群を築造していた系譜と異なる場合が多い。そうすると、最新の埴輪のもつものと、より古い形態をとどめる埴輪を作り続けているものが併存することは十分に考えられることであろう〔高橋2004〕。
 古墳の副葬品は被葬者の活躍時期を、埴輪は埋葬時期を示すのに対し、墳丘は寿墓とすれば生前の倭王権との政治的関係を示していよう。被葬者が短命や長命な場合には、同じ墳形であっても、副葬品による時期に一定の幅が生まれることも予想しうる。しかし、現段階はまだそうした議論をする以前であり、副葬品・埴輪・墳形の推移が整合的であることを確認し、それぞれの時期区分の妥当性を検証するとともに、三者の平行関係を確立すべき段階である。
 実年代については、箸墓古墳を3世紀中頃とする見方が強くなっており、筆者も三角縁神獣鏡の研究成果に箸墓型前方後円墳を加味してそれを主張した〔岸本2004〕。また倭製三角縁神獣鏡の出現時期を4世紀第1四半期に考える福永伸哉氏の見方〔福永1994〕を踏まえ、前Ⅴ期が4世紀前葉であり、行燈山型の前方後円墳がこの時期にあてうると考えている。桜井茶臼山・西殿塚・メスリ山古墳までを3世紀後半から4世紀初頭までに割り振る。しかし、これ以降は中期の開始時期を含めて年代は定点はない。中期の開始年代については、白井克也・桃崎祐介の研究が参考になる〔白井2003〕〔桃崎2004〕。いずれもTK73型式あるいは大庭寺の須恵器も5世紀におさまるとするものであり、大陸・半島の馬具や土器をふまえた見方は手堅いものがある。それをふまえた上で、問題は窖窯焼成以前のⅢ期の埴輪をもつ中期はじめの時期が4世紀のどこまで食い込むのかであるが、確定的ではない。ここでは古市・百舌鳥古墳群の埴輪の細分と須恵器との平行関係を参考に〔上田2003〕、現段階の暫定的な見方として、石津丘を5世紀前葉、仲津山を4世紀末葉、津堂城山を4世紀後葉としておく。そして渋谷向山古墳・佐紀陵山古墳・五社神古墳を4世紀中頃から後半にあてる。

2.玉手山諸墳の墳丘と年代観
 ここまでを前提として、玉手山古墳群の前方後円墳について、主として墳丘形態から、これに副葬品や埴輪、埋葬施設の構造に関する研究を参考に、個々に位置づけを試みよう。
 9号墳 玉手山古墳群で最古の前方後円墳である。墳形は東側面が失われているが、前方部は細く長い。柄鏡形の前方部をもち桜井茶臼山古墳に類似するが、9号墳は茶臼山よりも前方部相対長は長く、相似形とはいえない。ただし、9号墳の前方部前面は、崖が迫っているため十分に明らかになっておらず、なお検討の余地はある。茶臼山型の相似墳については、いまだ確実例は少ないが、椿井大塚山古墳や下池山古墳が該当すると考えている。9号墳の埴輪は特殊壺形・器台形埴輪であるものの、都月型線刻は形骸化し線刻のないものが多いが、壺形埴輪は胴部に突帯のつく形態をとどめている。これらがテラス面に樹立されていることは注意される。竪穴式石室の下部構造は古い特徴を示している〔安村2003〕。副葬品は鉄剣と琴柱形石製品2が知られる。琴柱形石製品のうち1点は濃緑色の碧玉製品であり、雪野山古墳から類品が出土しており、もう1点は緑色凝灰岩であるが、同質の石製品が桜井茶臼山古墳から出土している(腕輪形石製品・特殊弓形模造品)。
 以上のことから、9号墳については倭製鏡や腕輪形石製品が出現する、最古段階の次段階、大賀のいう前Ⅲ期にあてうるが、埴輪を既にテラスに樹立していることからすると、やや年代を下降させて考えるべきかもしれない。
 3号墳 発掘調査で確認できた前方部、測量図から推測できる後円部の墳端からすると、西殿塚古墳に類似する(本書収録概報)。とくに、ほぼ直線化しながらわずかに反りを見せる前方部の形状および3段の前方部の割り付けは、西殿塚古墳の墳丘が著しく左右非対称であるため比較がやや難しいが、おおむね共通している。墳丘規模は西殿塚221m160歩に対して、3号墳は97m70歩と推測する。後円部の墳端および各段の規模を発掘調査で確認できていないが、西殿塚型の相似墳である蓋然性が高い。3号墳の埴輪は、壺形埴輪と円筒埴輪、そして朝顔形埴輪がある。いずれも全容は不明であるが、底部穿孔がなされた壺形埴輪があり、一方で器台形埴輪の口縁部を表現した朝顔形埴輪があり、東殿塚古墳のものに共通する事例である〔加藤2001〕〔鐘方2001〕。巴形の透孔をもつ壺の胴部片もある。また1点のみであるが都月形線刻のあるものが存在する。また出土状況から、埴輪が据え置かれたのは墳頂部のみで、テラス部にはいまだ樹立されていないことが確認できた。
 埋葬施設は、竪穴式石室とみられるが盗掘大破しているらしい。なお、安福寺にある割竹形石棺は、この3号墳にあったものと伝えられている〔梅原1914〕。直弧文をもつ香川県鷲の山石の石棺である。しかし、これが3号墳の石室に内蔵されていたものかどうかは、検討の余地があると思われる。かつてのレーダー探査では、石棺に見合う幅のある石室とされたが、天理大学の実施した最新のレーダー探査では、石室は大きく破壊されて壁体がよく残存している様子はないとのことである。前期古墳に通有の狭長な竪穴式石槨とみるべきかもしれない。この石棺が3号墳の墳丘北側にあったのだとすると、すぐ北の2号墳では石棺があったことは確かなようであり〔岸本2002a〕、2号墳の石棺であった蓋然性も考えられる。
 3号墳は、西殿塚型の墳形、都月型線刻がほぼ消失し朝顔形埴輪が出現している埴輪の様相から、9号墳に後続するものと考えられるが、あまり時間差はないように思われる。西殿塚古墳が3世紀後半とすれば、3号墳は3世紀末頃から4世紀初頭に位置付けうる。
 7号墳 行燈山型の前方後円墳である。また行燈山古墳の推定規模180歩(249m)に対して、7号墳は110m80歩の比率でよく類似する。埴輪は、円筒埴輪・朝顔形埴輪・家形埴輪があり、円筒埴輪は器台型埴輪の系譜を引く受け口状口縁のものが残る。埋葬施設としては、中心主体が石棺直葬と推測され、第2主体は粘土槨である。副葬品には、滑石製合子・坩、ガラス小玉1がある。滑石製合子は新しくされる場合が多いが、7号墳の楕円形合子は、丈高で突起や凹線が丁寧に表現された蓋、身部も受け部に凸帯をともなうこと、蓋と身を合わせるための紐がかりの孔のある突起をともなうなど、むしろ緑色凝灰岩製の楕円形合子に近い特徴をもつ。滑石製坩も丁寧な作りであり、淡く青みがかった黄灰色で、暗灰色の滑石ではなく、色合いからすれば緑色凝灰岩に近いものを選択しているともみられる。石製品については、これ以上、専門外の立場からコメントするのはさしひかえるが、墳形や埴輪からすると、これら滑石製品の存在により、7号墳を前期後半に押し下げることは適当でないと判断している。
 行燈山古墳が4世紀前葉の時期とすれば、7号墳の時期は、滑石製合子・坩の存在を考慮しても、4世紀前半には位置付けうるであろう。
 2号墳 後円部に対して前方部は短く、くびれ部位置はわからないので前方部の形状は不明ながら、より締まったものだとすると行燈山古墳の形態に近いものになる。後円部西斜面で石棺が露出したことがあり、7号墳第1主体が石棺直葬と見込まれることとも対応する。
 1号墳 発掘調査の結果、後円部3段、前方部2段であることが確認され、その形状は渋谷向山古墳に近い(本書収録概報)。埴輪は、これまでに知られていた円筒埴輪・楕円筒埴輪に加え、朝顔型埴輪そして形象埴輪らしき小片をえている。墳頂には丈の高い板石積みの方形壇があり、内部に竪穴式石室が想定される。前方部で粘土槨が確認されている。白石円礫の使用が顕著である。1号墳の位置づけについては見直す必要があると思われる。
 玉手山古墳群の埴輪については、1号墳を古く考え、7号墳と松岳山古墳をこれに後続する同じような時期とする見解が支配的である(『玉手山古墳群の研究 Ⅰ 埴輪編』2001年)。しかしながら、1号墳が渋谷向山古墳に対応するとなると、行燈山型の7号墳よりも新しくなる可能性を否定しがたい。この点は埴輪においても認めうるのではないか。1)円筒埴輪口縁部の形状は、7号墳に受け口状口縁が残存するが、1号墳にはなく大半が外反口縁である。2)透孔はともに三角形であるが、7号墳は5~6孔で、三角形と逆三角形を組み合わせており、かつ1段の上下に振り分けるものも認められるのに対し、1号墳では、三角形も逆三角形もあるが、1段に施されるものはどちらか一方であり、かつ4孔である。また長方形透孔もある。3)朝顔形埴輪の二重口縁を見ると、7号墳は一重目を外折させた内側に刻み目を入れて二重目の口縁を接続するのに対して、1号墳は粘土を一連で積み上げ成形したのちに粘土紐を突帯として貼りつける。4)埴輪の樹立間隔が、7号墳ではかなり疎であるのに対し、1号墳ではほぼ接するように密に樹立する。5)7号墳では、実物としては確認できない蓋形埴輪があったとされるものの、発掘調査では家形埴輪しか認められなかったが、1号墳では盾形埴輪かと推測される菱形紋の入った板状の破片があり、器財埴輪の導入が考えられる。器財埴輪が存在するらしい点は、渋谷向山に近い墳丘と整合的であろう。
 以上に加えて、有無の問題であるが、1号墳には後円部テラスの円筒棺に使用された楕円筒埴輪がある。楕円筒埴輪は松岳山古墳にもあり、埴輪ではないが白色円礫の使用も1号墳と松岳山古墳で共通するが、7号墳では認められない。松岳山古墳については後述するが、全体として1号墳と松岳山古墳が近い時期にあり、7号墳には認められない新しい要素が加わってくるとみることもできるだろう。したがって、1号墳を7号墳のあとに位置付け、7号墳に後続する4世紀中頃の築造とみる試案を提示し、諸賢の批判を仰ぐことにしたい。
 5号墳 1960年代に消失したが墳丘調査がなされておらず、平面形や段築は不明ながら、前方部の幅がかなり発達しており〔北野2002〕、渋谷向山古墳あるいは五社神古墳や佐紀陵山古墳など前期後半の王墓に近い。しかし、後円部後端と前方部前端の高低差は4mあり、さらに前方部側面はかなり低い位置にあり、そこから墳端が後円部にかけてどのようにまわっていたのかよくわからない。 竪穴式石室は壁体が粘土床上面から積まれており年代の下降が考えられ〔新納1991・安村2003〕、また基台が発達している点もあわせて北玉山古墳と共通している。中心主体の竪穴式石室は盗掘を受けて大破し全容不明ながら、巴形銅器が出土している。巴型銅器は、前期後葉から中期はじめまでに特徴的な器物である〔福永1998〕。筆者の課題である墳丘からの位置づけを明確にすることはできないが、7号墳よりも後出することは明らかである。
 北玉山古墳 墳丘の平面形〔安村2002、93-94頁〕は7号墳すなわち行燈山古墳に近い。盾形埴輪かとみられる線刻のある板状の埴輪片があり、器財埴輪があったとすれば年代は下がる。石室構造は5号墳に近い〔安村2003〕。さらに滑石製勾玉の存在がかねてより注意されている。北玉山古墳の墳形が7号墳に近いことを積極的に評価すれば、最新の形態による1号墳に対して、7号墳の墳形を継承して築造されたと理解することができるかもしれない〔澤田1992〕。
 駒ヶ谷宮山古墳 墳形を正確に推定することは困難で位置付けがたい。竪穴式石室は北玉山よりさらに新しいとされている〔安村2003〕。また、前方部の粘土槨のうちの1基は、墓坑底を掘りくぼめて直接粘土を置く点でもっとも新しい構造であり、末期の倭製三角縁神獣鏡が出土している。前期末葉に位置付けられるであろう。
 その他 年代があまり明確でなく、墳形からの言及も難しいものについて取り上げよう。
 まず8号墳であるが、9号墳に近い位置にあり、玉手山丘陵の最高地点に位置する。現在は墳丘の崩落で旧状を失っているが、澤田秀実の過去の空中写真の判読では、9号墳に近い細く長い前方部をもつという〔澤田2002〕。採集された埴輪片はわずかである。埋葬施設は竪穴式石室で、鉄剣が出土したとの伝聞もあるが内容不明である。9号墳に後続するものとみておく。
 次に6号墳であるが、宅地開発以前の測量図〔北野2002〕によると、丘陵の高い側に置く前方部は細身で先端が開く形状に見える。墳丘調査がなされることなく消失したため確認できないが、地形図による限り、バチ形前方部とみることもできる。埴輪があるとの記述もあるが実物は確かめられない。竪穴式石室の構造は9号墳に類似し古相を示す〔安村2003〕。中心主体の竪穴式石室は撹乱を受けていたが、3世紀前半の画文帯神獣鏡2面や中国製の冑とみられる小札ががあり、前期前半期の様相をうかがわせる。後円部の追加埋葬も竪穴式石室(東石室)である。竪穴式石室の構造や副葬品の内容からすると、9号墳・3号墳とならぶ、玉手山古墳群中でも最古級の前方後円墳とすべきであろう。南に位置する7号墳よりも確実に古い。

3.玉手山古墳群の消長
 以上の検討をもとに、玉手山古墳群の主要な前方後円墳をならべてみよう。玉手山古墳群中では、9号墳・3号墳・6号墳がもっとも古い一群となる。2号墳・7号墳がこれに後続する。次いで1号墳、さらに5号墳や10号墳が位置づけられる。したがって、1~4号墳、5~7号墳、8・9号墳は、平行しながら前方後円墳を築いていると判断されるので、首長系譜としては別とみることができる。そのなかで、墳丘規模から優位な前方後円墳の推移をあとづければ、北群の3号墳、中群の7号墳、再び北群の1号墳、そして中群の5号墳という順が考えられる。5号墳もやや規模を縮小する(75m)とはいえ、玉手山古墳群末期のものとして規模は大きい。とくに、3・7・1号墳については、西殿塚・行燈山・渋谷向山古墳の相似墳とみられ、オオヤマト古墳群の王墓と玉手山古墳群の大型前方後円墳との対応が、三代にわたってあとづけられる点は重要である。
 なお、丘陵南半部の北玉山・駒ヶ谷北・駒ヶ谷狐塚・駒ヶ谷宮山古墳は、首長系譜をなすのかどうか不明であり、むしろ前期後半から末に、それぞれ単独で築造された様相が強い。
 厳密な時期比定の難しいものもあるが、以上の検討をまとめれば図3のようになる。7号墳に後続する1号墳を4世紀中頃、5号墳および丘陵南半部のものは4世紀後半に位置づけておく。
 大和の王墓は渋谷向山古墳のあと、4世紀後半には、佐紀陵山古墳や五社神古墳など、佐紀古墳群に築造されるようになる。佐紀古墳群と平行すると考えられる時期になると、玉手山古墳群では、1号墳を最後に100mを越える前方後円墳はなくなり、規模を縮小していく。また、佐紀古墳群の時期こそ、規格的な鰭付円筒埴輪が波及し、各種の器財埴輪が拡散する画期であるが、玉手山古墳群からは、盾形かと思われる線刻のある形象埴輪などがいくつか知られるものの、こうした最新の埴輪はほとんど導入されてはいない。この時期に該当すると思われる前方後円墳には、古くに消失したものが多く埴輪の内容は十分わかっているわけではないが、4号墳・5号墳・北玉山古墳・駒ヶ谷宮山古墳などからⅡ期の鰭付円筒埴輪は見つかってはいない。
 玉手山古墳群の最盛期は3号墳・7号墳・1号墳という100m前後の前方後円墳の時代であり、それはオオヤマト古墳群に王墓があった時代に重なる。佐紀古墳群の形成時期になると、玉手山古墳群は断絶したわけではなく、なお古墳の築造を継続するものの、この段階には倭王権との関係は希薄になり、地位を落としていったといえよう。

4.松岳山古墳の墳丘復元
 松岳山古墳は推定墳丘長は150m、玉手山1・7号墳の110mよりはるかに大きい。100m前後の前方後円墳について王墓との比較が可能とすれば、このクラスのものは、当然、王墓の相似墳として造られていると考えるのが妥当であろう。玉手山古墳群との関係を考える上で、松岳山古墳の墳丘をいかに復元し、どの王墓に対応するのかを追求することはきわめて重要な課題である。
 しかし、松岳山古墳の墳丘については不明な点が多い。まず、測量図が十分でなく周囲の状況がわからない。とくに大和川に面する北側側面については、今後の測量調査が不可欠である。また茶臼塚と接して見つかった板石垂直積みの部分が前方部前端とされているが、その前面部分も測量調査がおよんでおらず、松岳山古墳と茶臼塚古墳の図が分離している。さらに、前方部前面は開墾のため傷んでいて、前方後円墳相互を比較する場合に重要な前方部頂前端位置が失われ、両隅角の位置もよくわからない。柏原市教育委員会の発掘によって南側の段築構造の一端が明らかにされているが、墳端はまでは明らかになっていない。
 以上のように、松岳山古墳の墳丘復元は困難であるが、測量図および発掘調査の成果から墳丘を復元してみよう。まず松岳山古墳と茶臼塚古墳の位置関係については、玉手山古墳群研究会で示された石田成年氏の復元図を利用する。これによると墳丘長は約150mになる。発掘で明らかになった位置を上段と仮によぶ。前方部前面は土取りで一段下がっているが、等高線の折れ曲がりが西北部分では認められ稜線の名残と理解する。この点は、測量図を1/2500の都市計画図に貼り込んだ場合(図1)、地形図に見られる等高線の曲がりとも整合している。これを推定中軸から折り返し西南側の稜線を推定し、両稜線と茶臼塚の調査で見つかった前端線をつなぐと、前方部前面幅は80mを越えるが、1/2500都市計画図からすると十分おさまるものである。
 次に段築であるが、前方部前面でいえば、上段推定裾から前端までは距離があり、その間は2段で構成されていたとみられ、これを中段・下段と呼ぼう。その間のテラス面ではないかと思われる平坦部が、前方部南側面にはある(高さ53mあたり)。前方部南側面をみる限り、中段・下段は十分おさまるし、また成形されているとみてよい。後円部についても、国分神社のところまで斜面はさらに広がっているので、ヌク谷北塚・東塚のある後端側のおさめ方はわからないが、やはり中段・下段はおさまるものと思われる。さらに後円部については、上段裾から墳頂部までは著しく長い斜面であるので、途中にテラスがあり2段で構成されていすると推測される。いわゆる後円部3段・前方部2段の前方後円墳の場合、後円部上段の円丘は、前方部頂と同じ高さか、やや下位にあり、松岳山古墳の場合も図示したような位置に想定しておこう。後円部背後の撹乱坑の位置で埴輪が確認されているとのことであり、大きく誤ってはいまい。
 以上の復元によると、後円部4段・前方部3段となる(図2)。前方部3段や前方部頂のあり方は渋谷向山を想起させるが、そうすると前方部頂前端線がまったくあわない。渋谷向山は前方部相対長はかなり長いのである。これまでの細長い前方部のイメージにみあうのは向山古墳や佐紀陵山古墳であるが、前方部頂前端線や段築が合致しない。墳端がかなり大きくなるとすれば、印象は前方部墳頂とは異なり、かなり太く短い前方部になる。いまの復元案にもっとも近いのは五社神古墳である。前方部の開き具合にやや差があるが、全体の平面形や各段のあり方は、五社神古墳がもっとも整合的である。なお検討を要するが、試案として示しておきたい。

5.松岳山古墳の年代
 松岳山古墳出土の埴輪であるが、まず楕円形埴輪の装飾的な独特の鰭は、蓋型埴輪・靱形埴輪・鍬形石・滑石刀子・環頭束頭などに認められるもので〔清野1996〕、出現は前期後葉であるものがほとんどである。1点ながら円形透しがあるとされ〔鐘方2001、112頁〕、また蓋形埴輪の立ち飾りと考えられるもののほか、草ズリ形らしきものもあるようである〔安村2004〕。また茶臼塚古墳からは鰭付円筒埴輪の鰭が出土している〔安村2004〕。松岳山古墳の埴輪については、鰭付楕円筒埴輪がよく知られているが、実のところ円筒埴輪については十分な資料がえられていないのである。不確かな点、少数例であることを認めつつ、上記の点から新しい様相が加わっているとみる。
 埋葬施設は長持形石棺で、この香川・鷲の山石の石棺は今のところ長持形石棺として最古のものであり、中期の竜山石製の典型的な長持形石棺の祖型になるもので、あまり古くするわけにはいかないと思われる。また長法寺南原古墳と同笵の大型銅鏃が出土しており、南原古墳は中国製三角縁神獣鏡ばかりをもつものの、出土した埴輪はⅡ期に下る〔梅本2003〕。
 また、丘陵上の消失した古墳についてははっきりしないが、前方部に接する茶臼塚古墳は主墳と密接な関係にあることは認められよう。この茶臼塚の竪穴式石室、あるいはヌク谷北塚の粘土槨も、4号墳・北玉山・駒ヶ谷宮山の主体部の構造が新しいとすれば〔安村2003〕、同じような段階にあたると思われる。茶臼塚の多量の石製腕飾類、松岳山古墳も重なる盗掘のあとながら多くの石製腕飾類があり、多量の分配・配布は前期後葉から末に集中する特徴である〔田中1983〕。茶臼塚古墳の倣製三角縁神獣鏡は4世紀前葉のものであるが、以上のような点から時期は下がるとみる。字向山茶臼塚出土とされる三角縁神獣鏡2面は3世紀第3四半期頃のものであるが、早くにこれらを副葬した古墳が存在したのか、伝世したのちに副葬されたのかは明らかでない。
 以上のように、根拠は不足しているが、不確かながらも五社神古墳に類似する墳形、埋葬施設、出土品、埴輪の諸特徴、周囲の古墳の年代から、松岳山古墳は7号墳よりも新しいと思われる。また、同様に1号墳にも後出するものと考えられる。先に7号墳を4世紀前半、1号墳を4世紀中頃としたが、松岳山古墳は4世紀後半に位置づけることにしたい。1号墳が渋谷向山古墳の相似墳とすると、松岳山古墳は佐紀古墳群の形成時期にあたるものと位置づけうる。

6.玉手山墳群と松岳山古墳群の関係
 松岳山古墳は150m前後の規模を誇り、玉手山古墳の大型古墳よりもはるかに大きい。この松岳山古墳と玉手山古墳群との関係を考えてみたい。
 1960年代のひとつの理解は、玉手山古墳群に対して、新たに大和の勢力が進出してきて松岳山古墳を築いたとする理解があった。つまり被葬者像としては、河内の在地勢力というよりも、倭王権側の人物像を想定する理解である。しかし、柏原市教育委員会の1号墳や松岳山古墳の発掘調査の結果、楕円形埴輪の連続性、墳頂の高い石積土壇、板石の多用、白色円礫の使用などが共通し、玉手山1号墳との親縁性が明らかになってきた。また鷲の山石は、安福寺石棺と共通する讃岐からの搬入品であり、河内地域と讃岐地域との関係〔高橋1997〕のなかでもたらされたものとして共通の背景があろう。以上の点から、松岳山古墳の被葬者は、やはり玉手山古墳群の被葬者集団と共通する河内の在地勢力とみる。では両者の関係はどういうものであったのか。
 松岳山古墳・古墳群の被葬者像としては、次の二つが想定できるるだろう。1)玉手山古墳群につながる被葬者で、1号墳のあと、場所を大和川沿いに移動して築造したと考えるか、2)国分一帯の流通に携わってきた集団で、玉手山古墳群の被葬者集団とは親縁性が高いものの別系譜の集団であるとみるかである。その際、国分神社や茶臼塚出土の三角縁神獣鏡がひとつのポイントになるように思われる。例えば和泉市黄金塚のように、前期末中期初頭になって初めて古墳を築き、長らく持ち伝えてきた三角縁神獣鏡を副葬する場合もあり、一方で、前期前半以来、累代的に首長墓を築いてきた首長系譜では、通常、入手から副葬までは順次なされている。倭王権との政治的関係の更新ごとに、新たに鏡を入手し、墓に副葬していることが、阪神地域や乙訓地域で確かめられている〔森下1998〕〔福永1999〕。もしも、松岳山古墳が玉手山古墳群の首長系譜にあるとすると、9号墳・3号墳・7号墳・1号墳から、いまのところ三角縁神獣鏡は出土していないが、墳丘からオオヤマト古墳群との関係が確かめられたところであり、それぞれの代に三角縁神獣鏡を入手していたと推測できる。玉手山古墳群は1系列ではなく複数系列であると考えるが、いずれにしても、1~4号墳の系譜、5~7号墳の系譜は、それぞれに三角縁神獣鏡を入手・副葬したはずである。
 したがって、出土古墳が不明ながら松岳山古墳の西方から出土したとされる国分神社の古式の三角縁神獣鏡は、玉手山古墳群のグループとは別の配布対象として、かつて松岳山古墳群の被葬者集団にもたらされたと考えられるのである〔下垣2004〕。松岳山古墳群が古い時期から小規模墳を築造していたのか、前期後半の限られた時期に一斉に築造されたのか不明であるが、いずれにしても大型前方後円墳を築造したのは玉手山1号墳と交替する4世紀後半のことであり、それ以前の玉手山古墳群の盛期においては、傍系の集団であったと思われる。

7.佐紀古墳群の出現と河内の政治変動
 松岳山古墳の築造時期は、既にふれたように、佐紀古墳群の形成期にあたると考えられる。オオヤマト古墳群から佐紀古墳群への墓域の移動現象の理解については、近年、佐紀から古市・百舌鳥に匹敵する政治的変動期と理解されるようになりつつある。この交替期において、都出比呂志は以前から京都・乙訓地域において首長系譜の移動を指摘していた〔都出1989〕。筆者は、佐紀古墳群に王墓があった期間が短く、中期における古市古墳群の成立にともなう再編ほど顕著ではないが、幾つかの地域で乙訓地域と同じような変動が認められるなど、佐紀古墳群の成立にともなう現象に注意してきた〔岸本1995b〕。①王墓の移動-佐紀古墳群の形成開始、②首長系譜の変動が認められる地域があること、③200m規模の大型前方後円墳が奈良盆地以外にも現れること、④前方後円墳の築造規制が始まり、大型円墳・方墳が出現すること、⑤棺・槨の階層化の顕在化、粘土槨の普及や長持形石棺の出現、⑥斉一的な埴輪の普及、などを挙げることができる。都出比呂志も、前期末から中期初頭と表現してきた政治的変動について、佐紀古墳群と古市古墳群の成立時に分離し、佐紀古墳群段階における変動を示唆しており〔都出1999〕、福永伸哉も特徴ある副葬品目を取り上げて、オオヤマトとは別勢力という見方を示している〔福永1998・1999〕。この点は、石製腕飾類の大量配布・埋納について田中晋作が早くから取り上げていた点である〔田中1983〕。したがって、⑦三角縁神獣鏡の生産衰退、鉄製短甲・筒形銅器・巴形銅器の登場など、威信材の交替を加えうる。
 墳丘から言えば、この時期の移行過程はなお未解明な部分が大きいが、渋谷向山古墳が茶臼山-メスリ山という系列を受け継ぐもので、箸墓-西殿塚-行燈山古墳の系列にかわって王墓になったことは大きな画期であると考えている。そして、向山古墳に後続する佐紀陵山古墳が佐紀の地に現れ、各地で首長系譜の変動が生じていることは興味深い。なお検討すべき課題も多いが、そうした変動は、渋谷向山古墳の出現がひとつの契機となっており、佐紀に古墳群が形成される時期に顕著に進行したと理解することができるだろう。
 松岳山古墳群の被葬者像、玉手山の大型古墳との年代的関係を先にのべたように考えることが妥当であるとすれば、河内最大の有力前期古墳群であった玉手山古墳群が衰退し初め、そのタイミングで松岳山古墳が出現することは関連あるみるべきである。同じ河内の在地勢力でありながら、力関係の逆転があったと考えられよう。そして、この変動はオオヤマト古墳群から佐紀古墳群への墓域移動とほぼ対応したものと理解することができると思われる。
 松岳山古墳群が時の中央権力、佐紀古墳群と結びつき、それまでオオヤマト古墳群との関係が深く主流であった玉手山古墳群の勢力はそこからはずれていったと考えられる。大和川に面する松岳山古墳の登場は、大和と河内をつなぐ重要な交通路をおさえるものであり、明石海峡に面する五色塚古墳や、大阪湾沿いの和泉地域に一斉に出現する摩湯山古墳などの前期末の前方後円墳、山陰道の入り口にある天皇の杜古墳、そして丹後に現れる大型前方後円墳などと、まったく共通する現象の現れとみることできる。
 さらに、この時期に、旧玉手山古墳群の被葬者集団の本拠地であったと思われる河内平野部に、萱振1号墳あるいは長原塚ノ本古墳など、佐紀古墳群と密接な関係のうかがえる中小古墳が現れてくる〔高橋2002〕〔安村2003〕。これらは規模は小さいものの、佐紀古墳群の段階で普及する最新の鰭付円筒埴輪と器財埴輪をともなうⅡ期の埴輪〔高橋1994〕をもつ。松岳山古墳の登場と中河内の中小規模墳の出現も関連ある現象ととらえるべきであろう。それは、玉手山古墳群の被葬者集団が基盤としていた河内平野部への倭王権の直接的な進出であり、松岳山古墳の被葬者を起用するとともに、河内地域を掌握しようとする動きである。
 しかし、松岳山古墳群が大型前方後円墳を築造しえたのは1代限りであって後続しない。もっとも、大和川沿いの丘陵に、大型前方後円墳を築造する余地はあまりないともいえる。次の段階には、津堂城山古墳が出現し、さらには仲津山古墳という確実な倭国王墓が古市古墳群に築かれ、佐紀古墳群にかわる王墓の形成が始まることになる。これまでの河内政権論などの議論の中では、倭王権の河内への進出という立場からも、あるいは河内在地勢力の台頭とみる立場からも、松岳山古墳から津堂城山古墳への連続を考える見方があった。次にこの問題を考えてみたい。

8.古市古墳群の成立
 古市古墳群の津堂城山古墳が松岳山古墳の後継者と理解できるのかどうかを検討したい。まず、津堂城山古墳の墳形が佐紀陵山型に直続する最新の型式である点があげられる〔岸本1992〕。佐紀陵山型の設計や、五色塚・摩湯山・網野銚子山などの相似墳を築く技術基盤は、やはりあくまでも佐紀の王権にあるのであって、松岳山古墳はの墳形はなお検討を要するが、これを基礎に独力で津堂城山型を生み出したとは考えがたい。とくに埴輪は重要である。松岳山古墳の埴輪は十分わかっていないが、特殊な鰭付楕円筒埴輪の存在が示すように、玉手山古墳群の埴輪生産の延長にあり、在地的な生産をベースとする。Ⅱ期の埴輪を特徴づける鰭付円筒埴輪は松岳山古墳本体では今のところ確認されておらず、器財埴輪も存在するようだが顕著ではない。これらは調査の進展によってさらに確認できる可能性はあるが、基本は在来の埴輪に、最新の埴輪が一部導入されているという構成になると思われる。これに対して、津堂城山古墳の埴輪は、Ⅱ期の埴輪が発展したものであり、河内平野部の中小規模墳に見られる典型的なⅡ期の埴輪作りをベースにしたと理解するのが妥当であろう。この点で松岳山古墳から津堂城山へは不連続である。
 したがって、倭王権と結びつき150mもの前方後円墳を築いたとはいえ、松岳山古墳の被葬者は大和川沿いの在地勢力であり、葺石への板石の多用、後円部頂の土壇、玉手山古墳群から受け継ぐ埴輪生産など、在地性を色濃く残しており、その後継者が川下に208mの津堂城山古墳を築いたとは考えにくいのである。また、松岳山古墳と同様、前期末に突如として現れた五色塚など、先にあげたような大型前方後円墳も、ほぼ1代限りで後続しないか、また円墳等に転化していくことも参考になるだろう。以上のことから、松岳山古墳と津堂城山古墳は系譜関係になく、津堂城山が新たに出現したという理解に立つ。
 古墳時代前期後葉は、先にもふれたように、畿内およびその周辺を中心とする地域(一部それ以遠の地域にも)における変動期である。オオヤマト古墳群の段階は、基本的にそれぞれの地域の支配や首長層の地域的な結びつきを承認していたのに対して、地域支配に介入して服属化を進めるとともに、特定勢力に強い協力関係を求めるなど、中期にかけて進行する大きな政策転換が始まった時代である。河内の在来の玉手山古墳群の被葬者集団の弱体化がほぼ達成され、河内地域に倭王権の直接統治がおよぶようになったと考える。さらに、大阪湾岸、和泉地域の海運に長けた集団を引き込み、一方で西摂諸集団を従属させ明石海峡までを押さえ、山城・丹波を結び、丹後の港湾も確保している。これは4世紀中頃から後半のことであろう。
 河内は畿内から瀬戸内へと出ていく要所であり、重要拠点として倭王権の機関が置かれたことも十分に考えられよう。河内のどこかに置かれ(船橋遺跡から国府遺跡にかけてか)、河内湖をおさえ河内を統治するとともに、和泉地域方面への交通路を確保し、大阪湾岸の住吉から堺にかけての港津も設置されたのではないか。おそらく佐紀政権下の有力者が、こうした河内・和泉方面の統治のために送り込まれたのではなかったかと推測する。津堂城山古墳の被葬者のイメージは、こうした人物である。津堂城山古墳の被葬者は、河内地域をおさえ、西方諸集団との関係を構築することによって、王権内部での地位を高め、その次代にあたる仲津山古墳の段階で、ついに佐紀政権に代わり大王位を占めるに至ったのではないだろうか。
 古市古墳群の成立については厚い研究史があり、王墓の理解以外に、平野部での中小古墳群の出現や集落遺跡の動向など、今後は総合的に論じられる必要がある。ここでは松岳山古墳との関係のみ指摘したにとどまるが、以上のように在地勢力の成長とはとらえがたいのである。しかしまた、倭王権は奈良盆地から河内へと進出してきたと大きくとらえることができるとしても、単純に河内への拠点移動の結果として理解できないのである。都出比呂志が明らかにしたように、オオヤマト→佐紀→古市という王墓を含む巨大古墳群の墓域移動のタイミングで、地域の首長系譜の優劣関係が組み変わっている。これを中央の政治変動にともなう組み替えとみる見方〔都出1989〕に賛成する立場に立っている。中期における各地の有力首長系譜の変動は明らかであり、そこには倭王権の権力闘争があり、佐紀政権にかわる河内政権へ、倭王権内部の権力主体が転換したとみるべきである〔塚口1993〕。近年の河内政権に対する反論では、和風諡号の問題や、ホムダワケの出自の作為性などにまったくふれないのは疑問である。
 河内地域は、佐紀段階で倭王権の直接的進出が進み、前期までの在地勢力にかわり、大坂湾岸をおさえ瀬戸内を通じた西日本さらには半島・大陸との門戸を確保した。古市・百舌鳥古墳群の出現は、こうした前期後半からの河内の拠点整備の上に、この地域を基盤とする王権内勢力が急速に成長し、佐紀政権にとってかわることになったと考える。

付記
 本稿の構想は、柏原市立歴史資料館における企画展「玉手山古墳群を探る」会期中の講演に際して準備したものである。こうした機会を与えていただいた資料館の安村俊史氏に感謝する。また、冒頭にものべたように、玉手山古墳群の理解をめぐっては、玉手山古墳群研究会での取り組みや、その成果物である『玉手山古墳群の研究』に大いに依拠しており、研究会を通じてご教示を賜ったメンバーの方々に謝意を表したい。さらに、玉手山古墳群の発掘調査に際して、柏原市教育委員会には全面的にご理解とご協力をいただいている。発掘調査によって、予想以上に研究目的に即した成果がえられているが、これは素材のよさに起因するところであり、今日まで残る主要前方後円墳が史跡として保存されることを願っている。発掘調査を手がけた以上、その責任の一端をになっているのであり、われわれとしては発掘成果の刊行をもってまずは責を果たしていきたい。


(1)五社神古墳の造出および埴輪については、鐘方正樹氏にご教示をいただいた。
(2)例えば滑石製品については、すべての種類の初現を上げることには抵抗がある。和田晴吾が容器類と模造品  を分けたように〔和田1987〕、刀子など模造品はやはり前Ⅵ期を主体とすると考えるべきであろう。また方形  板短甲については、鴨都波1号墳で波紋帯鏡群と共伴したことをもって前Ⅳ期に上げているが、これも主体は  前Ⅵ期まで下げるべきであろう。方形板短甲を出土した古墳は、Ⅱ期の埴輪との共伴例が大半であり、新しい  器物と考える。
(3)3号墳のレーダー探査については、天理大学置田雅昭・桑原久男両氏にご教示をえた。
(4)1号墳と7号墳の埴輪については城倉正祥氏にご教示をいただいている。
(5)安村俊史氏にご教示いただいた。

参考文献
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