人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
黒田了一知事時代
◆以下、ウィキ。当時の革新首長のはしりでもあり、公害対策として画期的な政策を打ち出したという。
◆黒田了一知事(1911-2002)。1950年シベリア抑留から帰国、大阪市立大学法学部助教授に就任。憲法学を担当。1971年の大阪府知事選挙に日本社会党と日本共産党の支持を受けて、現職の左藤義詮に挑む形で立候補した。このとき、社共共闘がなかなかまとまらず、正式な出馬表明は告示日ぎりぎりまでずれこんだ。出馬にあたり社会党の亀田得治大阪府本部委員長と共産党の村上弘大阪府委員長と記者会見を行い、「このまま出馬を拒むなら革新諸勢力の統一の機運は一気にくずれ、大阪の公害は深刻化し、世界の諸都市に先がけ大阪がゴーストタウンになる」と述べ、出馬表明を行った。前年に日本万国博覧会を成功させていた現職の左藤は「黒田という人は見たことも聞いたこともない」と発言、再選を確信していた。選挙戦で黒田は「大阪にきれいな空を取り戻そう」と公害・環境対策を訴え、左藤を破って当選、初の革新系大阪府知事となった。
◆1975年府知事選では、反黒田が強くなっていたが、大型開発よりも公害対策や福祉を重視した実績に府民の支持は厚く、共産党単独の推薦であったが各党の支持層に深く食い込み、45万票の大差で黒田が再選された。1979年の知事選では自民・新自クが中心となり、自治省出身で黒田の下で副知事を務めた岸昌を反黒田統一候補に担ぎ出していく。(中略)。結局、黒田は共産党と革新自由連合の推薦で再選を目指し、前回よりも18万票伸ばしながらも僅差で岸に敗れた。
◆オレの歴史時代としては、岸知事くらいから覚えがある。背格好も小さかったように思うが、いかにも小者という感じ(ぜんぜん漠とした印象ですよ)。で、やっぱり自治省の役人だったんですね。黒田知事時代に革新府政に対し国が副知事として送り込んだらしい(当然対立し岸は辞めたという)。それにしても、共産党とか社会党とか、同和とか・・・。
◆宮本さんの話に戻せば、黒田知事が公害対策に力を入れる一方、そうした経済成長の負の側面をふまえ、文化に力を入れないといかん、ということを打ち出したという。それがこの1970年代、全国に広がったという。博物館概論で文化政策の話をして、行政の文化化ということをオレなりに理解して話をするのに苦労をしたが、そういうことが言われるようになったのが70年代で、発信元は大阪だったということを知る。
◆黒田了一知事(1911-2002)。1950年シベリア抑留から帰国、大阪市立大学法学部助教授に就任。憲法学を担当。1971年の大阪府知事選挙に日本社会党と日本共産党の支持を受けて、現職の左藤義詮に挑む形で立候補した。このとき、社共共闘がなかなかまとまらず、正式な出馬表明は告示日ぎりぎりまでずれこんだ。出馬にあたり社会党の亀田得治大阪府本部委員長と共産党の村上弘大阪府委員長と記者会見を行い、「このまま出馬を拒むなら革新諸勢力の統一の機運は一気にくずれ、大阪の公害は深刻化し、世界の諸都市に先がけ大阪がゴーストタウンになる」と述べ、出馬表明を行った。前年に日本万国博覧会を成功させていた現職の左藤は「黒田という人は見たことも聞いたこともない」と発言、再選を確信していた。選挙戦で黒田は「大阪にきれいな空を取り戻そう」と公害・環境対策を訴え、左藤を破って当選、初の革新系大阪府知事となった。
◆1975年府知事選では、反黒田が強くなっていたが、大型開発よりも公害対策や福祉を重視した実績に府民の支持は厚く、共産党単独の推薦であったが各党の支持層に深く食い込み、45万票の大差で黒田が再選された。1979年の知事選では自民・新自クが中心となり、自治省出身で黒田の下で副知事を務めた岸昌を反黒田統一候補に担ぎ出していく。(中略)。結局、黒田は共産党と革新自由連合の推薦で再選を目指し、前回よりも18万票伸ばしながらも僅差で岸に敗れた。
◆オレの歴史時代としては、岸知事くらいから覚えがある。背格好も小さかったように思うが、いかにも小者という感じ(ぜんぜん漠とした印象ですよ)。で、やっぱり自治省の役人だったんですね。黒田知事時代に革新府政に対し国が副知事として送り込んだらしい(当然対立し岸は辞めたという)。それにしても、共産党とか社会党とか、同和とか・・・。
◆宮本さんの話に戻せば、黒田知事が公害対策に力を入れる一方、そうした経済成長の負の側面をふまえ、文化に力を入れないといかん、ということを打ち出したという。それがこの1970年代、全国に広がったという。博物館概論で文化政策の話をして、行政の文化化ということをオレなりに理解して話をするのに苦労をしたが、そういうことが言われるようになったのが70年代で、発信元は大阪だったということを知る。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。