人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
新大学プランと大学ミュージアム
◆2月27日に公表された。原案に対し意見書を出したが、研究科長が発言してくれ、わずかに文言が加わったようであ る。ほぼできあがっている資料なので、大幅な変更は無理だろうが、もっと個々の部分に即した具体の変更案を出さないといけなかったと反省する。ともあれ、できてしまっている。基調は前に書いた?通り、理系に大きく偏っている。変更されたのは地域貢献のところの見出しの、歴史、文化、という言葉のよう。
◆それと、大学博物館が加わった。これは、別の動きの反映であろうが、ここに大学博物館という、前になかったものが盛り込まれたのは、確実な一歩である。いま必要なのは、これにむけての検討を実際に進めることであり、執行部をその気にさせ、検討をせよと言わせることである。そのためには、役員会で 文・理科長あたりが発言をしていく必要があろう。
◆それと、大学博物館が加わった。これは、別の動きの反映であろうが、ここに大学博物館という、前になかったものが盛り込まれたのは、確実な一歩である。いま必要なのは、これにむけての検討を実際に進めることであり、執行部をその気にさせ、検討をせよと言わせることである。そのためには、役員会で 文・理科長あたりが発言をしていく必要があろう。
まあ、そんなんで
◆次に高山寺貝塚に行く。それから駅前に駐車し、歩き始める。梅酒専門店。かまぼこ通りで、ご ぼう巻きと天ぷらを買う。名物はなんば(南蛮)焼というものだが、1個 1000円以上する。ウナギ。あとは省略するが、前日にカミサンの同級生にもたった名刺の裏を紹介しておこう。
◆平成の合併で田辺市は肥大化した。合併はよくない。が、それはそれとして、市街地は人が少なくなり、一方で新興住宅地は広がる。ドーナッツ。また谷間に入れば、いわゆる限界集落も多いことだろう。あったかいし、一定の田地のあるところは集落がまだまだ元気だが、奥に行くほど厳しいだろう。旧市街の町屋の空いた所など、どことも飲食店をはじめ活用を盛んにやっていはいるが、しかし人が住んでいないとはじまらない。要 するに、旧市街に人を集めていく政策は取れないものだろうか。それは一 方で、限界集落を救えないということでもあるが、なかなか今からでは無理という面もある。人口が減っていく以上、それはあらがえない。
◆大都会を含めて、バブル期あたりで肥大化した居住地は、いずれ縮小し、人口にみあったコンパクトな居住環境を作りだしていく必要がある。
◆17時に田辺を出て戻る。なかなか楽しめました。うちの大学も、COCとやらで紀南と関わりがあるそうだが、あまり知られていないみたい。カミさんの大学は、ちゃんと公式に提携しているようで(和大もそうなんだろう)、そのへんが違うようだ。そういう連携というのは、結局は地元のやる気が大事なんだろうし、大学側にはどこまで本気かが問われるのだろう。そう簡単に、短時間でなにかができるわけではないだろうが、腰を落ちつけてやっていく必要があるのだろう。
◆平成の合併で田辺市は肥大化した。合併はよくない。が、それはそれとして、市街地は人が少なくなり、一方で新興住宅地は広がる。ドーナッツ。また谷間に入れば、いわゆる限界集落も多いことだろう。あったかいし、一定の田地のあるところは集落がまだまだ元気だが、奥に行くほど厳しいだろう。旧市街の町屋の空いた所など、どことも飲食店をはじめ活用を盛んにやっていはいるが、しかし人が住んでいないとはじまらない。要 するに、旧市街に人を集めていく政策は取れないものだろうか。それは一 方で、限界集落を救えないということでもあるが、なかなか今からでは無理という面もある。人口が減っていく以上、それはあらがえない。
◆大都会を含めて、バブル期あたりで肥大化した居住地は、いずれ縮小し、人口にみあったコンパクトな居住環境を作りだしていく必要がある。
◆17時に田辺を出て戻る。なかなか楽しめました。うちの大学も、COCとやらで紀南と関わりがあるそうだが、あまり知られていないみたい。カミさんの大学は、ちゃんと公式に提携しているようで(和大もそうなんだろう)、そのへんが違うようだ。そういう連携というのは、結局は地元のやる気が大事なんだろうし、大学側にはどこまで本気かが問われるのだろう。そう簡単に、短時間でなにかができるわけではないだろうが、腰を落ちつけてやっていく必要があるのだろう。
秋津野ガルテン
◆奇絶峡に立ち寄る。簡単な説明があり、石を持ち出すことに対して、当時の村長が景観を守ろう と努力したのだとか。大岩がごろごろし、なかなかきれいなところである。
◆で秋津野ガルテン、というのは、旧小学校の活用するプロジェクトが2003年に立ち上がり、農業を体験する宿泊施設としたもの。みかんが1年中実り、ジャム作りなどをやっているのだとか。運営はNPOなんでしょうか。校舎の中は、そういう研修室があるが、またミカンの展示施設もある。ここでケーキとお茶を食べたが、お母さん達が子供を連れてやってきて、テーブルでひたすら話をしていた。ほかにもけっこう客が訪れており、そういう施設として、まあ成功している様子である。
◆地域にとってのシンボルのひとつである小学校を、統廃合や移転したのち、簡単に壊してしまうのでなく、地域の人々が考え、地域の特性を示し、また外からの人をよびこむものに変えていく、という試みは、ほかでも参考になるのだろう。
◆で秋津野ガルテン、というのは、旧小学校の活用するプロジェクトが2003年に立ち上がり、農業を体験する宿泊施設としたもの。みかんが1年中実り、ジャム作りなどをやっているのだとか。運営はNPOなんでしょうか。校舎の中は、そういう研修室があるが、またミカンの展示施設もある。ここでケーキとお茶を食べたが、お母さん達が子供を連れてやってきて、テーブルでひたすら話をしていた。ほかにもけっこう客が訪れており、そういう施設として、まあ成功している様子である。
◆地域にとってのシンボルのひとつである小学校を、統廃合や移転したのち、簡単に壊してしまうのでなく、地域の人々が考え、地域の特性を示し、また外からの人をよびこむものに変えていく、という試みは、ほかでも参考になるのだろう。
紀州備長炭記念公園
◆田辺市街地から奇絶峡のある谷筋をさかのぼったところに、備長炭記念公園というのがある。備 長炭とは、備中屋長左エ門だったか、が、江戸向けに備長炭と名前をつけたウバメガシの白炭である。がその前に、備長炭ラーメンという黒い麺のラーメンを食べる。
◆それから展示を見る。なかなか体系だったいい展示である。210円取るが、こんなんも入り口で引き返す人がいるのはもったいない話。無料にして、出入り口の所にカンパ箱を置いたらいいのにと。よくできた展示だが、見てもらってナンボでしょう。入ると、職員さんが寄ってきて説明したそうであったが、申し訳ないが、説明不要オーラを出す。映像はやはり導入としても、ひと通り理解する上でも有効であ る。伐採の比率を変えていることとか、切っても10年でまた10㎝程度に成 長するようで、このあたりの龍神山系のウバメガシについても、計画的な伐採を循環させている。戦後、アホみたいに針葉樹を植林し、もはや世話することもなく、切っても金にならず、放置されているところが圧倒的に多かろう。焼き肉、串焼きなど、炭火焼の用途がなくなることはないだろうし、値崩れのないように調整しつつ、炭焼きを少しずつ拡大させることはできるだろう。さいわい、後継者も出てきているようで、途絶することはなさそう。脱臭用とか、燃料以外の利用を考えているようだが。面白い展示だったので、図録を1冊購入した。
◆そのあと、屋外で、実際に炭窯が5~6基程度作ってあり、順番に窯入れをしている。この日も2基は操業中であった。とはいえ蒸し焼き段階で、どんどん火をつけているのでなく、封をしている状態だったが。展示を見てから窯をみると、また勉強になる。
◆それから展示を見る。なかなか体系だったいい展示である。210円取るが、こんなんも入り口で引き返す人がいるのはもったいない話。無料にして、出入り口の所にカンパ箱を置いたらいいのにと。よくできた展示だが、見てもらってナンボでしょう。入ると、職員さんが寄ってきて説明したそうであったが、申し訳ないが、説明不要オーラを出す。映像はやはり導入としても、ひと通り理解する上でも有効であ る。伐採の比率を変えていることとか、切っても10年でまた10㎝程度に成 長するようで、このあたりの龍神山系のウバメガシについても、計画的な伐採を循環させている。戦後、アホみたいに針葉樹を植林し、もはや世話することもなく、切っても金にならず、放置されているところが圧倒的に多かろう。焼き肉、串焼きなど、炭火焼の用途がなくなることはないだろうし、値崩れのないように調整しつつ、炭焼きを少しずつ拡大させることはできるだろう。さいわい、後継者も出てきているようで、途絶することはなさそう。脱臭用とか、燃料以外の利用を考えているようだが。面白い展示だったので、図録を1冊購入した。
◆そのあと、屋外で、実際に炭窯が5~6基程度作ってあり、順番に窯入れをしている。この日も2基は操業中であった。とはいえ蒸し焼き段階で、どんどん火をつけているのでなく、封をしている状態だったが。展示を見てから窯をみると、また勉強になる。
闘鶏神社
◆そのあと、神社。手水鉢に炭が沈めてあるのが田辺らしい。7月末には田辺祭というのがあり、山 車が何台も出て、この神社に集結するらしい。歴史民俗資料館でも、このほかにも指定された無形文化財としての祭りなどがたくさん上がっている。
◆ちなみに弁慶は、真偽不明ながら田辺出身とされており、また熊野別当のタンゾウ君の息子とされ、源氏に味方するように説得したという話になっており、神社の中に銅像が建っている。
◆三栖廃寺跡。資料館では金堂の位置も表示してあったように思うが、現地は塔跡のみ整備されている。南面のみ発掘で検出された瓦積基壇を用い、ほかは新しい瓦で基壇を復元している。まわりは梅林。梅の花はとうに終わり、梅の実の収穫にむけて、行き届いた手入れがなされてて、きれいである。
◆ちなみに弁慶は、真偽不明ながら田辺出身とされており、また熊野別当のタンゾウ君の息子とされ、源氏に味方するように説得したという話になっており、神社の中に銅像が建っている。
◆三栖廃寺跡。資料館では金堂の位置も表示してあったように思うが、現地は塔跡のみ整備されている。南面のみ発掘で検出された瓦積基壇を用い、ほかは新しい瓦で基壇を復元している。まわりは梅林。梅の花はとうに終わり、梅の実の収穫にむけて、行き届いた手入れがなされてて、きれいである。
田辺市歴史民俗資料館2012年12月開館
◆まず、前に来た田辺城(錦水城)の水門石垣。いまW市のW城展示リニューアルを担当している S君に解説してもらった。少しその先に行くと、前にも書いたかもしれませんが、いま教会ある高台に台場があり、そこもちらりと。そして歴史民俗資料館に行く。前に田辺に来たときは、おそらく開館直前だったのだろう。いま喜界島にいるTさんが、白浜でさんざん酔っぱらった、あの研究室旅行である。
◆1階が図書館で、2階が歴史民俗資料館。入口に突線鈕の銅鐸のホンモノがでんと座り、高山寺貝塚の押型文、凹線文の弥生土器。岩陰遺跡、古目良の製塩土器、などなどがならぶ。そして三栖廃寺の瓦。顎面に型挽きのある重弧文など。きっと紀伊半島で最南端の古代寺院なのだろう。
◆中世はあんまりなかったが、熊野別当の家があったはず、そういう展示はなかったように思う。ちなみに平成の大合併で、熊野本宮は田辺市となっている。以下、ウィキ。
治承・寿永の乱以来、平家方に与していた田辺家出身の湛増(1130年 - 1198年)は、本宮・田辺 勢を率いて、源氏方に味方していた新宮・那智勢と新宮で合戦したが、敗退した。 権別当となった湛増は自らと対立する弟の湛覚を攻め滅ぼしたのを手始めに、熊野における政治的主導権を一気に掌握するべく内乱を引き起こし、平氏政権による太平洋・瀬戸内海航路の支配に不満を抱く海賊衆の組織化に成功したこともあって、東は尾張から西は阿波までの地域を反平氏・親源氏に一挙に塗り替えることに成功した。これにより、熊野別当家は完全に源氏方に味方することとなった。
寿永3年(1184年)、湛増は21代別当になり、鳥居禅尼の子・行快(1146年 - 1202年)が権別当となった。寿永4年(1185年)、湛増は熊野水軍を率いて源氏軍に合流し、壇ノ浦の戦いで源氏の勝利に貢献した。この功績によって湛増は、源頼朝から、上総国に広大な所領をもつ領家に任じられた。これにより、以前からの所領とあわせて田辺家の財政はおおきな収入を得るようになった。
承久3年(1221年)に承久の乱が起こり、後鳥羽院が倒幕の兵を挙げると、田辺家の快実(湛顕の嫡男)と新宮家の尋快(行快の嫡男)が上皇方に参加した。
加えて、戦いは幕府の一方的な勝利に終り、多くの荘園・所領・所職が失われた。特に田辺家は快実をはじめ次代を担う人材を数多く失ったばかりか、近接する南部庄や芳養上庄に幕府が地頭を送り込んできたことで、財政基盤が損なわれるにとどまらず、幕府の監視下におかれるようになった。
近世。紀州徳川初代のたぶん大阪と江戸との間の海運にかかわり栄えたのだろう。
◆1階が図書館で、2階が歴史民俗資料館。入口に突線鈕の銅鐸のホンモノがでんと座り、高山寺貝塚の押型文、凹線文の弥生土器。岩陰遺跡、古目良の製塩土器、などなどがならぶ。そして三栖廃寺の瓦。顎面に型挽きのある重弧文など。きっと紀伊半島で最南端の古代寺院なのだろう。
◆中世はあんまりなかったが、熊野別当の家があったはず、そういう展示はなかったように思う。ちなみに平成の大合併で、熊野本宮は田辺市となっている。以下、ウィキ。
治承・寿永の乱以来、平家方に与していた田辺家出身の湛増(1130年 - 1198年)は、本宮・田辺 勢を率いて、源氏方に味方していた新宮・那智勢と新宮で合戦したが、敗退した。 権別当となった湛増は自らと対立する弟の湛覚を攻め滅ぼしたのを手始めに、熊野における政治的主導権を一気に掌握するべく内乱を引き起こし、平氏政権による太平洋・瀬戸内海航路の支配に不満を抱く海賊衆の組織化に成功したこともあって、東は尾張から西は阿波までの地域を反平氏・親源氏に一挙に塗り替えることに成功した。これにより、熊野別当家は完全に源氏方に味方することとなった。
寿永3年(1184年)、湛増は21代別当になり、鳥居禅尼の子・行快(1146年 - 1202年)が権別当となった。寿永4年(1185年)、湛増は熊野水軍を率いて源氏軍に合流し、壇ノ浦の戦いで源氏の勝利に貢献した。この功績によって湛増は、源頼朝から、上総国に広大な所領をもつ領家に任じられた。これにより、以前からの所領とあわせて田辺家の財政はおおきな収入を得るようになった。
承久3年(1221年)に承久の乱が起こり、後鳥羽院が倒幕の兵を挙げると、田辺家の快実(湛顕の嫡男)と新宮家の尋快(行快の嫡男)が上皇方に参加した。
加えて、戦いは幕府の一方的な勝利に終り、多くの荘園・所領・所職が失われた。特に田辺家は快実をはじめ次代を担う人材を数多く失ったばかりか、近接する南部庄や芳養上庄に幕府が地頭を送り込んできたことで、財政基盤が損なわれるにとどまらず、幕府の監視下におかれるようになった。
近世。紀州徳川初代のたぶん大阪と江戸との間の海運にかかわり栄えたのだろう。
朝飯を食べにブ~ラブラ
◆ゆっくり寝て、8:30過ぎ、朝食券があって、3軒の店を選びモーニングを食べにいくみたい。ゴリ ラというところにして、歩き始める。さかえまち商店街を行き、銀座通り というのを行き、たどりつく。田辺は城下町。江戸時代以来栄え、町はかなり大きい。道路をはさんで町の名前が付いており、古い町であることを感じさせる。むろん、商店街の一定の店はシャッターを下ろしてはいるが、まだまだ頑張っている。そのなかで銀座通りというのは、新たに現代風の町をつくろうとしているようで、飲食店などがならぶ。そこを抜け、隣町にはいったところのゴリラに入る。
◆そこでマップを見ながら、行くところを考える。車で周囲や少し距離のあるところを見て回り、そのあと駅前の駐車場に車を入れて、町歩きをしようということになる。数年前に研究室旅行で来 たことがあるが、その時は南方熊楠の資料館と城の水門跡を見ただけだっ た。もったいない。
◆モーニングを食べ、違う道を通って宿に帰る道すがら、餅屋さんにでくわす。お彼岸というので、多くの客が入っており、おはぎなどを買い求めていた。こっちはここの名物の、おけし餅というのを2個買う。こういうのも町歩きの楽しみである。
◆そこでマップを見ながら、行くところを考える。車で周囲や少し距離のあるところを見て回り、そのあと駅前の駐車場に車を入れて、町歩きをしようということになる。数年前に研究室旅行で来 たことがあるが、その時は南方熊楠の資料館と城の水門跡を見ただけだっ た。もったいない。
◆モーニングを食べ、違う道を通って宿に帰る道すがら、餅屋さんにでくわす。お彼岸というので、多くの客が入っており、おはぎなどを買い求めていた。こっちはここの名物の、おけし餅というのを2個買う。こういうのも町歩きの楽しみである。
3月20日、紀伊田辺へ
◆10時から市大ミュージアムの件で大学史資料室に行き、各研究科のもつ資料について概略を教 えてもらう。めぼしいものは把握されているのかもしれないが、当時の運営委員の人の知る範囲で、まだまだわかっていないのだろう、と思う。
◆教授会。終了後、年2回の研究科懇親会があり、とくに3月なので送別会でもあるのだが、このところまったくこの手の宴会に出ていない。本日も、紀伊田辺に向かうことになっている。カミさんが、この日、仕事で由良町で授業をやることになっており、中・高の同級生がいま田辺市におり、その人の世話で民家をリニューアルした宿泊所に泊まることになっており、行くことにした。1ヶ月の現場の骨休め。21日は田辺でゆっくりし、日曜日は働くぞと。
◆17:30に教授会は終わり2 時間で到着。いまは紀伊田辺まで高速道路が伸びているのだが、カーナビが古く、指示されるまま「みなべ」で降り、田辺へ。
◆番地でカーナビを入れ、ほぼ来ているのだが、場所がわからん。夜でもあり。スーパーのおばさんに聞いて、ようやく場所を確認。駐車場についても、近所の人に教えられる。で、駅前に向かう。17時頃から呑み始め、すっかりできあがっている様子。駅前新道の飲み屋街を抜けて駅にたどり着く。結局、その店はわかりにくくて場所が説明しづらいということで、迎えに行くなら、もう出るというので、駅前で待ち合わせる。そしたら、宿の近くで2軒目に入ろうということになり、オレにしてみれば、元来た道をそのまま引き返すこととなる。なんやそれは、と言いたいこともあるが、なにせ2人とも酔っぱらっており、まあしゃーない。
◆教授会。終了後、年2回の研究科懇親会があり、とくに3月なので送別会でもあるのだが、このところまったくこの手の宴会に出ていない。本日も、紀伊田辺に向かうことになっている。カミさんが、この日、仕事で由良町で授業をやることになっており、中・高の同級生がいま田辺市におり、その人の世話で民家をリニューアルした宿泊所に泊まることになっており、行くことにした。1ヶ月の現場の骨休め。21日は田辺でゆっくりし、日曜日は働くぞと。
◆17:30に教授会は終わり2 時間で到着。いまは紀伊田辺まで高速道路が伸びているのだが、カーナビが古く、指示されるまま「みなべ」で降り、田辺へ。
◆番地でカーナビを入れ、ほぼ来ているのだが、場所がわからん。夜でもあり。スーパーのおばさんに聞いて、ようやく場所を確認。駐車場についても、近所の人に教えられる。で、駅前に向かう。17時頃から呑み始め、すっかりできあがっている様子。駅前新道の飲み屋街を抜けて駅にたどり着く。結局、その店はわかりにくくて場所が説明しづらいということで、迎えに行くなら、もう出るというので、駅前で待ち合わせる。そしたら、宿の近くで2軒目に入ろうということになり、オレにしてみれば、元来た道をそのまま引き返すこととなる。なんやそれは、と言いたいこともあるが、なにせ2人とも酔っぱらっており、まあしゃーない。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。