人を幸せにする人になろう

鹿児島―古墳の旅(6)桜島

◆レンタカー2台、フェリーで桜島にわたり、展望台に。溶岩ごろごろ、地ベタには火山灰。噴煙は おとなしかったが、展望台を離れて大隅半島側にわたる頃に、もくもくと 元気になる。

鹿児島―古墳の旅(4)

◆終了後、ホテルにチェックインし、19:00から天文館で懇親会。昼間の貝輪の話の続きやら、成川 式土器の話やら。鹿児島市の職員も参加し盛り上がる。生ビールのあとは焼酎。終了後、2次会に行ったのは6人くらい・・・。もう、朦朧としていたかも。
◆翌日、8:45に鹿児島中央駅前の、若き薩摩藩の群像、の銅像前に集合。わからんやつは考古学やめろ、とはK大H氏の弁。まあ、わかります。

鹿児島―古墳の旅(3)

◆そこから理学部の教室に引き返し、鹿児島大の発掘資料の見学会が始まる。
◆そして14時から研究会。貝製腕輪の話と、大隅の古墳の話。腕輪の話を聞いていて、どこまで畿内などの前期古墳に貝製腕輪が入っているのか、それはわからんが、密閉性の高いものから出ていることからすると、やはり残存していないが存在していたものを一定程度想定すべきであろう。が、すぐに緑色の石に置き換えられ、そっちが主流になる。実際に腕輪として使用することも一定程度あったのだろう。男はクワガタ石で、女は車輪石などの使い分けも維持されている(どこまで着装しているのかな)。が、すぐに量産化され、実用品とはいえなくなり、そしてパタリと終わる。前期古墳の副葬品目に腕輪が加わったことは確かながら、その後の貝製腕輪などが、九州を中心とし、信州などの東日本にはありながら、近畿地方ではほとんど出ていないことからすると、ブレスレット文化は、石製腕飾が廃れるとともに続かなかったのだろう。そして腕輪文化の伝統が根強かった九州をはじめ(が分布域も問題)、残っていく地域もある、そんな風に感じる。
◆このまま書き続けてもいいのだが、明日もあるので、この辺で。しばらくは伏見城のことで頭がいっぱいになるので、続きは終末にでも・・・。

鹿児島―古墳の旅(2)

◆大学の裏側から入り、研究会会場の理学部に向かう。人はまだ少なめ。博物館見学に出る。1928 年建築の登録文化財だそうだ。2階建て、上は地質、1階が考古やら実験器 具や農学校時代の資料など。うちも博物館作りたいもの。大学史資料室の人とはそういう話をしているが、ちょっとしっかりした企画書を一度作る必要がある。
◆成川式土器をじろじろと見る。あと布留的な赤く磨かれた土器。布留式でも、甕よりも精製機種の方が広がりがあるというのはE君の修論の時に学ぶ。倭王権の影響圏もいろんな位相があるが、今回、変形はしてても小丸があり赤く塗った精製機種を見ていると、どこまで直なのか間接かはともかく、かなりの波及を感じる。

鹿児島―古墳の旅(1)

◆土日の巡検、14日金曜日は夜入ればいいと思いこんでいて、ずっと前にピーチを取っていたのだ が、午後、研究会があるではないか。そのまま夜入りにしようかと思ったが、伊丹の見学会のチラシの発送をなんとか前日やり終え、朝からでかける。
◆4席の指定席は快適で、仕事ははかどるとのカミさんの弁だが、指定を取っている余裕もなく、新大阪に着いて見れば満席だし、自由席で行く。4時間、伏見城の縄張り図をず~と書いていた(終わらず)。鹿児島中央に降り立つ。なにやら銅像が。市電に乗り鹿児島大学へ。

まあ落ち着いて

◆ちょっと伏見城でテンパっていて・・・。

オレも忙しいがカミサンはそれ以上

◆まあ、ばたばたやっとります。が、こっちは北海道から戻り、水木と2日間、大学に出勤したが、 カミサンは翌日はつくば日帰り、その次は新潟1泊2日で出掛けました。ようやるわ。
[写真]ピーチから撮った梅田。

明日の九州新幹線を調べないといけないのだが

◆千歳まで、初めてピーチを使った。関空の第2ターミナル、バスで移動。まだまだしょぼい。JAL とANAに対抗するのは容易ではないですね。カミさん曰く、客層が違う。サラリーマンに対して、ピーチは・・・。やはり狭いし。
◆で、明日は、みずほだかなんだか、九州新幹線で鹿児島中央まで行くのが楽しみ。ほんとうは、夜入ればいいと思いこんでいて、夕方のピーチ約8000円を取っていたのだが、キャンセルした。払い戻し0。まあ、しゃーない。鹿児島大学12:00くらいをめざそう。ほんとは、喜界島にも行きたいが、無理。
◆キリン氷結を呑み、飲んだくれています。今日もめいいっぱい仕事をしたし・・・。キリン氷結レモン、いったいいままでに何本あけただろう。1000本くらい?、それは大げさか?。
◆伊丹のチラシの封入は、島崎さんと道上君に手伝ってもらった。助かった。で、22時まで1時間くらいあまり、市大日本史の論文の入稿準備をやった。

高松塚のこと

◆高松塚は特別史跡であるが、それは奈良時代の彩色壁画という希有な絵画資料をもつことによ る。壁画も別途、国宝に指定された。しかし劣化が著しく、どうしてもこのまま保存できない。この古墳の価値の根源である壁画を守るためには、取り出すしかないと。史跡としては現状変更。しかし、保存修復後に元に戻すということを条件とした。しかし現状変更許可の条件が、元に戻すこと、というのが無理なのだ。劣化を防ぎ、壁画を守るためには取り出すしかない、それが現状変更の理由そのもの。元に戻すことを条件に解体を許可するというのは、原則論とのすりあわせ上の理屈。もちろん石室や石垣のハラミなど、解体して積み直すことは原則。が、あのデリケートな壁画はそうはいかない。
◆いま、文化庁は、当時の戻すと言ってきたことを困難と転換しようとしているらしい。そう いう条件で史跡の価値を損なう現状変更を通したが、やっぱり無理と。
◆この結論は、はじめから予想された。だから、元に戻すことを前提とした底石の取り出しに反対した。まあ、この問題は今となってはどうということもない。問題は、で、保存処理をした上で、どう公開するかに移ることになろう。早くも明日香村の村長が要求をつきつける。
◆どうなんでしょう。現地にガイダンス施設や出土品などの公開施設を設けることは一般論としてはよいことだ。が、明日香村という狭い範囲のこと。キトラはキトラで、また高松塚は高松塚で、それぞれ脇に壁画実物を展示する施設を作るのだろうか。これも原則論的には妥当としても、現実論としては問題が多い。明日香村も今では大きい道路はできるし、往事の雰囲気はずいぶんと損なわれた。そんな施設をいちいち作らなくても、観光客は来る。むしろ、そんなものが氾濫するこ との景観上の問題など、明日香村のもつ良さが損なわれていくように思われてならない。国は国で、高松塚に対し、あれだけの予算をつぎ込んで、メンツをかけて保存処理をやっている。飛鳥資料館に置けばいいではないか。現地は現地、そして飛鳥資料館を、高松塚壁画をはじめ、実物資料を見ることのできる博物館として充実させる。既存施設を利用することが、もっとも合理的である。わたし、なんか間違ったこと言ってますか。また、怒られるかもしれません。
[写真]引き続き植物園で撮った写真を。

伊丹の現地見学検討会の手配を

◆本日は、朝から伏見城の2年間のまとめをやった。1枚ものの図を作り上げ、課題の整理まで行っ ていないが、これをもとに鹿児島で考えることにしよう。人の動きをどうするか・・・。
◆そのあと、4月26日の伊丹の現地見学検討会のもろもろの準備をした。資料の〆切の伝達もして、あとは、もうちょっと近づいてからでもいいかな、というところまで来たか。去年の兵庫、そして伊丹と、町を歩き歴史を学ぶのはとても楽しい。考古ネタも時折あっていいが、今後、この路線で、いろんな町や地域をやっていきたいもの。
[写真]北大植物園温室でのワンカット

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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