人を幸せにする人になろう

鹿児島―古墳の旅(16)神領古墳群(10号墳)

◆大崎町横瀬古墳に行くも、草刈り中。先に神領古墳群へ。廃線跡の道路を見る。駅だった場所、 立ち枯れている信号機。右の写真の切り通し部右側にも実は11号墳という 前方後円墳があり、線路を付けたときに縦に削られているのである。
◆神領10号墳は、よくぞまあ残っていたという話が実にリアルな、やせ細った前方後円墳である。
[大崎町]人口1万3500人

鹿児島―古墳の旅(15)

◆第2日はここまでで、アスパル大崎に泊まる。前に家族旅行に来たときに立ち寄ったことがある。 でっかいカブトムシがあり、亀がいる。和室4部屋に分かれる。
◆志布志市/大崎町/東串良町/肝付町の担当者も参加し、温泉に入ってから懇親会。大自己紹介タイムというか、かなりの時間を費やす。志布志市が約100件の指定物件があり、市指定70件強とというのはすばらしいですね。条例をもっていても(あるいはなく)、ぜんぜん市指定なんぞやっていないところもあるだろう。
◆そのあと、いちばん奥の部屋で酒盛りが始まる。研究室旅行みたいやね、といいながら、Nさん、Fさん、Tさん、Sさん、などと、鹿児島の話とともに東北の話を含め、古墳文化なんてあるんか、といった議論をエンエンと2:30まで。みなさん、お疲れ様でした。

鹿児島―古墳の旅(14)大崎町郷土資料展示室

◆17時をまわるも、外はまだ明るい。大崎町の方が資料室を開けて待っていてくれる。横瀬の埴 輪。布留式土器。高杯に小丸、鏡、石棺。軽石で作った組み合わせ式石棺 は、とても軽い。扱いやすくて便利ですね。
◆これだけの古墳があると。適度な河川が流れ、古墳時代の前提として、農耕社会の定着は早いのかと問うたが、むしろ薩摩側の方が早いし、あんまり変わらないと。むろん農耕といっても、知っているやっているというのと、基本米に依存するようになっているのかは別だし、イメージとしては志布志湾岸の方が適してるのでは、と思ったりするが・・・。弥生時代はそんなんだとして、で、古墳時代に入り、これだけの古墳が築かれ、そこで薩摩と大隅の差が顕著になっていくのだろうと思う。いや、条里はあるんですか、と。あってもいいのではと思ったわけ。で『地図でみる西日本の古代』をいま見たが、宮崎以南がないではないか。

鹿児島―古墳の旅(13)鹿屋市岡崎古墳群

◆岡崎古墳群。前方後円墳の20号墳、地下式横穴が発掘されている15号・18号墳など。

鹿児島―古墳の旅(12)東串良町唐仁大塚

◆まず唐仁=唐人で、唐人町があったということに、ハタとく。こりゃすぐわからなあかんわ  な。むろん昔はそんなこと知らず、単なる地名だとしか認識していないが、唐人町のことなど学んだ段階で、そういやトウジンオオツカや、と。
◆昔来たときは、神社でうっそうとしていて、参道沿いが低く細長い前方部とされていることについては知っていたとは思うが、前方部のことを当時どう理解していたかは覚えてない。うそ~、ほんまか~、というところか。110歩152mか。でっかい後円部は55歩76mというところか。台地を掘り下げた周濠も見事である。段築は不明瞭だが、やはり3段であるのでは。長持形石棺風で、棺身も刳り抜きで作っているのが面白い。石工は延岡だろうとのこと。
◆神社前の郷土館にすこし考古資料があり、おばあちゃん2人が番をしている。
◆150m級の前方後円墳の墳丘規模で、縦穴石槨に長持形風石棺、モノは最新の甲冑ひとそろいをも つ。埴輪なし。柄鏡形前方部という地域性を引きずるとはいえ、塚崎古墳群と交替するように、中期に入って突如現れる巨大古墳。その格付けと地域色の交点をどう考えればいいのでしょうか。オサホ・メサホに次ぐ巨大さと、しかし河内直でないギャップ。しかしそこにこそ、古墳時代の王権と地域首長の関係が表れていよう。
 ◆役所塚なども見る。200基近い古墳群。ここでもすべて史跡ながら、境界や所有者の問題があり、墳丘測量図の整備を含めて、地元で粘り強く、史跡の活用への取り組みが進行中である。
[東串良町]人口7000人

鹿児島―古墳の旅(11)大楠

◆国の天然記念物、一説では樹齢1300年という。古墳の上にあり、史跡であり天然記念物でもある という。どっかで聞いたような話だ。ちょっと老齢化しているようで、前は古墳に 上がって木のまわりに立ち入れたのだが、根を踏んだりしないように見学用の柵をめぐらす工事中であった。
◆菜の花

鹿児島―古墳の旅(10)肝付町歴史民俗資料館

◆塚崎古墳群の出土遺物などを見る。いま史跡の委員会が立ち上がっていて、国庫補助で、古墳を 残した集団の居住域など、台地上の確認調査を実施中とのこと。そもそも 悉皆的に古墳群すべてが史跡になっているのだが、現状の墳丘の高まりでしかなく、それを面的に範囲を拡大しているとのこと。既に第1段階を終え、さらに台地上の関連遺跡を探索している。その確認調査の現場も見せてもらった。
◆ちなみに、大阪あたりから、志布志湾沿いの古墳見学のツアーが企画されているらしく、好評で、どこの旅行社か知らないが、継続しているとのこと。あとでも触れるが、先に挙げた大崎町/東串良町/肝付町、いずれも古墳で盛り上がっている。また、草刈りなど、地元のみなさんの尽力で、いずこも実にさっぱりとし、墳形をよく観察することができた。

鹿児島―古墳の旅(9)

◆はじめて。最南端の前方後円墳なんだとか。前方後円墳が5基。台地の東縁寄りと、西側の39号墳 あたりの2群に分かれる。前期から中期前半あたり?。壺形埴輪や土器が知られ る。前方後円墳そのものの年代はいまひとつ不明瞭のようだが、東縁がオオヤマト段階、39号墳が佐紀段階でええんちゃうか、と思った。O大N氏は段築をじろじろ観察していて、11号墳では、間の緩斜面部が中段に相当し、3段でいいのではと答えると、同じ見解とのこと。
◆39号墳は、パッと見て、まず造り出しがありそうだ。測量図で前方部も太く、確かに五社神に対比するのは適切かなと。前期末でいいのではと感じる。陵山を含めて比較してみる必要がある。

鹿児島―古墳の旅(8)

◆肝付町で昼。志布志湾沿いでは、北から志布志市/大崎町/東串良町/肝属町となている。昼 食場所は人でいっぱいで、2回に分かれる。1回目だったので、そのメン バーは食べ終わると席を空け、すぐ横の肝属川の土手に上がる。
◆「のどかやね~」、と。みな、仕事は忘れ、この2日間は、古墳を見て楽しみましょうと。つくしがいっぱい。
[肝付町]1万6000人

鹿児島―古墳の旅(7)玉山神社

リクエストがあり玉山神社へ。壬申倭乱で朝鮮半島から連れてこられた陶工が、薩摩半島側でい までも鹿児島焼を焼いているののだが、そのうちの一部30戸を大隅のこの地に移住させたのだそうで、1606年に祭神を檀君とするこの神社が建てられたという。小中華思想みたいなもので、薩摩藩は、朝鮮民族をも領域内に置いている、という誇示のための政策という。
◆明治になって祭神をスサノオに変更させたという。東郷茂徳外相はこの地の出身とのことで、それ以前は和姓ではなかったとか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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