人を幸せにする人になろう

さて条里

◆明日の改新シンポのパワポがようやくできあがった。40分だが、73枚になり、これではとても無 理。明日の午前中にまたスリム化しよう。芝が原の原稿の手直しもしたし、2月22日13:28、さて条里制研究会の大会報告準備にかかろう。木・金出張で、月曜日もほぼ丸つぶれ。本日、日・火・水でやっつけなければならない。ちと厳しいわな・・・。
◆既に原稿があるヤツをレジュメにするのは、しんどいわ。あ~あ疲れた。

岩屋山は実に目立つ

◆天武持統陵のことはこのくらいにしておきます。早めに所見をまとめておき、正式には『ヒスト リア』4月号に報告しよう。事後検討会は橿原公苑事務所で、飛鳥駅に向かう道すがら、岩屋山古墳がぽっかりとよく目立つことを確認する。けっこうな大きさですよね。やはり7世紀前半でしょう。

で天武持統陵

◆13:30から14:50まで観察。墳丘構造はよくわからんが、基壇上に4段の墳丘がある、としておこ う。むろん5段の5というのに意味があるとも言われているようです。ひとまず40度とも言われる斜面部が4段分あるとされているわけだが、それが明瞭に視認できるわけではない。そのへんは、盗掘され、墳頂部にも穴を開けられ、封土がかなり崩された関係で、舒明陵や天智陵よりも改変が大きいのだろう。
◆で、その最下段斜面の裾部から外周にかけて、斜面基部の貼り石、地覆石、その外の凝灰岩板石ブロック3石分幅の基壇について、8角のほとんどの箇所について、昭和36 年段階に宮内庁が発掘調査をしている。それと昭和50年の末永雅雄の調査のレポートなどの記録が、『牽牛子塚』の報告書に掲載され、現時点での復元案も示され、今回の基本文献となっている。
◆で、その稜角部の墳丘裾と基壇裾の位置に、昭和36年調査終了時にコンクリートの円柱が立ててあり、立入り観察する上で基本的な位置の手がかりになる。写真は、ひとつの稜角部のみ、上の段も追究したのか、何本もコンクリート柱を立てている箇所。ほかは基本的に裾部の2本。こんなことは、『牽牛子塚』の報告書まで知らなかったわけだが、それを知れば、外からでも何とか視認でき、裾部の位置のイメージをつかむことができる。
◆これを見て思った。遺構表示してくれないかなと。とくだん、さらなる調査をしなくてもいい(してほしいが)、コンクリートの円柱をつなぐように、なにか表示する工夫をすれば、墳丘北側であれば、立ち入り禁止区の外からでも、日本国民は八角形を理解することができる

鬼の俎

◆この古墳、鬼の雪隠・俎古墳と言うのだろうか。通称はそれでいいが、総称はないんだろうか。 指す時に困るわけです。これ、東隣にもうひとつの横口式石槨があって、あわせた方墳とすると、なおさら、古墳名がほしいところ。こういうのがゴロゴロころがっているのが、飛鳥なんでしょうね。方墳として調査もしてほしいところではある。とはいえ、現役の畑でありつづける姿もまたいいもんで・・・。
◆ちなみに今日は、オートフォーカスをやめて、すべて手動にして、あんまりよく見えてないながら、1カット1カット、ピントをあわせた。

鬼の雪隠

◆鬼の雪隠と、むこうに野口王墓を一緒に写し込んでみた。このへん、最初に飛鳥に行ったのはい つか、中学生くらいか、まったく憶えていないが、たぶん来たんでしょう ね。その後も何度か来ても、ぜんぜん何者かわかっていなかったわけ。はじめてシゲシゲ見たかもしれない。

カナヅカ古墳

◆21日(金)天武・持統合葬陵の立入り。まずい、カメラを忘れた。大学に取りに行き、時間をロ スしたので、そのまま車で橿原神宮前に。飛鳥まで電車で行き、現地まで歩く。平田梅山を望み東へ。カナヅカ古墳が見えてくる。宮内庁が陪塚としている管理地を初めて一周する。
◆吉備姫王墓で、檜隈陵域内。写真のむこうにあるのが平田梅山。梅山古墳が檜隈陵とよばれたのか、『延喜式』にはないんでしょうね。『延喜式』で檜隈(前)を冠するのは、檜隈坂合陵と檜隈大内陵、文武陵だけ。

竪穴住居から掘立柱建物への変化は近代化

◆表題のことの意味を端的に示すのはどうしたらいいのか、集落の復元イラストのいいのがあれ ば、対比的に挙げるのがいいと思うが、なかなか見あたらない。今日の研究会でも そんな話になり、ちょっと挙げてみます。
◆むろん極端な話だが、それくらいの画期が、6世紀と7世紀の間に横たわっている、と考えています。
【追記】あかん、野口王墓の勉強ができてない。

芝が原の原稿もドンツキ

◆文章は書き上げた。よくわからんままに書いとるな~。はなから頁数がわずかなので、こんなも んとはいえ、しかし原稿を書くという営みは重要ですね。こういうのでもないと認識は深まらない。久世の大谷川扇状地のに面する古墳群、発掘事例は多いが、それをどう料理するのがよいのか。今回はまあこんなもん。
◆ほんとに久世の地域を理解しようとすれば、個々の資料に向き合う必要がある。さらにいえば、八幡や大住や飯岡など、南山城の状況を把握することが必要だ。機会があればまた。
◆図面を付けないとさびしいかなと思い、1枚つくってみたが、手元に『城陽市史』くらいしかなく、なかなか盛り込みがしんどい。編年表もほしいが、これはあきらめよう。
◆改新シンポのパワポは岩屋山式と唐尺までいくが、まだ。

岩屋山式石室の年代観の相違

◆パワポの1枚を作った。ご覧あれ。

◆文献史では、1尋=1.8m(2尋=1丈2尺)という。が、墳丘9尋がこれだと16.2mとなるが、そ の規模の墳丘が多くあるというわけでなく、定北の表では空白。考古学からは1尋=1.5mで、9尋=13.5mとみており、両者あい入れない状態。これをどう考えたらいいのか、お昼前後に考えていた。
◆考古学からみた1.5mは譲りがたいし、文献史の1.8mという見解も手堅い。旧俗改廃の詔の布2尋、これがおそらく伝統的な賦課の単位なんだろう。1.5mとすれば3.0m。そのもとは1尺25㎝の6尺1歩=尋というのがわたしの見解。文献史が一方で改新詔で1丈2尺となっており、同じ長さの布であると考え、唐尺で換算した数値なんだろうというのは理解しやすい。整合を取るとすれば、6尺1歩=尋という理解が定着しているなかに、唐尺1尺30㎝がやってきたと。そうすると6尺1歩=尋=1.8mと、布の実長が長くなったのだという見方しかないのかな、と。それは1丈2尺ですと。苦しいだろうか。
◆そもそも、横穴式石室は高麗尺だ、また6世紀後葉に古代寺院建築が始まり、高麗尺が再登場するが、これはあくまで度地尺なんだろう。建物は高麗尺とはいえない(あれ、それでいいんだっけか)。つまり、古墳時代において、あるいは7世紀において、土地や石室といったものでない、建物や器物の尺度はなんなのか、ということはあんまりきかない。これ調べないといけませんね。
◆吉川さんの議論をトレースすると、「7世紀の尋の単位尺は高麗尺であるから」とあり、それは林紀昭さんを論拠とするが、これがそもそもちゃうと思うわけ。で、ヒロが人間が手を広げた長さだから、それに近似するのは5高麗尺=1.78mだと(ヒロがそんな長いかえ~)。だから唐の12尺、これで1丈2尺。そういう論法。改新詔の1丈2尺が唐尺で1.8mというのはそれでいいんだろうが、改新詔では尋は出てこない。尋は旧俗改廃の詔で用いられているもの。う~ん、わからんけど、
◆考古学側の13.5mとして、鉢伏山西峯・二子14、ちょっと大きいが石のカラト、この3つをパワポでは示すつもり。10数例くらいあれば堅いんですけど。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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