人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
1月31日奈文研庁舎お別れ会
◆昨日書いたようなモロモロの調整をやっていると、時間が経ち、おっと西大寺の現場を見る時間 はなくなり、15:30開始に滑り込む。西大寺駅でT氏と一緒になり、古代郷の話をしながら奈文研にむかっていると、鈴木嘉吉元所長の姿もあった。
◆新しくできた2年間の仮設施設の会議室に入ると、とたんに、場違いなところに来てしまった・・・、と。OBといっても、もっと上の方々ばかりで、わたしはひょんなことから追加で案内をもらったが、若ゾーもいいところ。
◆記念写真を撮影し、旧庁舎を1階から上へ、最後は屋上まで、荷物が運び出されガランとなった各部屋部屋をのぞいていく(途中、大歴の代表委員からの電話が入り、長々と相談していて、後追いとなったが)。平城調査部のあった2階が生活舞台で、3階もあんまり行くこともなかったし、屋上に 上がることもなかった。で、屋上の風景を。
◆会場を平城資料館の講堂に移し、懇親会に進む。現役世代も現場などの仕事を終え、参加してくれる。で、若いところから自己紹介が始まり、途中からは参加したOB側にも振られる。当然、OBにも昔話をせよという指名があるだろうが、オレに回ってくることもないと思っていたが、OB側も若いところからということで、いきなりやれと・・・。あとから、こういうことを言うべきだったか、とか思うこともあるが、まあまあ。
◆とてもありがたかったことがひとつあるのだが、それはまた改めて。20時頃には終了したが、残る者は仮庁舎に移動し、2次会が始まる。22時頃までおり帰る。
◆新しくできた2年間の仮設施設の会議室に入ると、とたんに、場違いなところに来てしまった・・・、と。OBといっても、もっと上の方々ばかりで、わたしはひょんなことから追加で案内をもらったが、若ゾーもいいところ。
◆記念写真を撮影し、旧庁舎を1階から上へ、最後は屋上まで、荷物が運び出されガランとなった各部屋部屋をのぞいていく(途中、大歴の代表委員からの電話が入り、長々と相談していて、後追いとなったが)。平城調査部のあった2階が生活舞台で、3階もあんまり行くこともなかったし、屋上に 上がることもなかった。で、屋上の風景を。
◆会場を平城資料館の講堂に移し、懇親会に進む。現役世代も現場などの仕事を終え、参加してくれる。で、若いところから自己紹介が始まり、途中からは参加したOB側にも振られる。当然、OBにも昔話をせよという指名があるだろうが、オレに回ってくることもないと思っていたが、OB側も若いところからということで、いきなりやれと・・・。あとから、こういうことを言うべきだったか、とか思うこともあるが、まあまあ。
◆とてもありがたかったことがひとつあるのだが、それはまた改めて。20時頃には終了したが、残る者は仮庁舎に移動し、2次会が始まる。22時頃までおり帰る。
1月も終わり、か
◆今年は卒論が少ないので助かっているが、来週、二つの試験をしてその採点もあり、バタバタに 突入か。大阪歴史学会の現地見学検討会を4月26日(土)に伊丹郷町でやることになり、大方、委員の1人がやってくれて助かっているが、伊丹市はじめ、調整のやりとりをしています。もうひとつは、今年度、最終年度となる伏見城の現状調査について調整してきた。これもようやく、まとまった、かな。大阪城の豊臣石垣のレーザー計測を2月後半にやるが、そのことでも大阪市と少し。また、こないだの根来寺本の書評会のことでのやりとり。そして堺市の現場に行ったり。今日はこれから奈良。奈文研の建物建て替えで、1980年以来のあの庁舎とのお別れ会としてOB会が開催される。知らなかったのだが連絡をもらって行くことにする。
◆かばんに修論が2本。できれば集中して読みたいところ、だが、ぶちぶちと途切れ途切れ。9日に和泉黄金塚の話を仰せつかっているので、土日はその資料作りだろうか。
◆写真は生駒市のミュージアムが2月1日にオープンするとのポスター。こないだ、東高野街道を歩いた時、東大阪の発掘ふれあい館に貼ってあったもの。宣伝しておきます。
◆かばんに修論が2本。できれば集中して読みたいところ、だが、ぶちぶちと途切れ途切れ。9日に和泉黄金塚の話を仰せつかっているので、土日はその資料作りだろうか。
◆写真は生駒市のミュージアムが2月1日にオープンするとのポスター。こないだ、東高野街道を歩いた時、東大阪の発掘ふれあい館に貼ってあったもの。宣伝しておきます。
ホームページ
◆4年前にホームページを作ろうとしたが、頓挫した。が、いま3月末公開に向けて作成中です。フレームとともに、設定した項目に一定のデータを載せた形にしたいとは思いますが、どこまでいくかはわかりません。いずれ更新していくものですから、新しい情報を挙げつつ、データも整備充実させていくべきもので、整ってくるのは先なんでしょうが、まずはスタートをめざしております。
◆また、自分で更新ができないといけないし、またマニュアル化して、誰でもできるようにもしないといけないんでしょう。そこは、いまのHPビルダーはよくなっていて、そう難しくはないようですが。
◆さ、今日が後期最後の授業。講義2つ。
◆また、自分で更新ができないといけないし、またマニュアル化して、誰でもできるようにもしないといけないんでしょう。そこは、いまのHPビルダーはよくなっていて、そう難しくはないようですが。
◆さ、今日が後期最後の授業。講義2つ。
26日、東高野街道を行く
◆翌日、急遽、東高野街道を歩くことに。とにかく出る。交野まで行って南下しようかと思ったが、近鉄河内国分から2駅だけ行き、堅下で下 り(だいたい10:30)、そこから北上する。前は、街道よりも東側の村々を結ぶ細い道をうねうねとたどって楽音寺まで行ったが、今回は街道そのもの。柏原市域は現道として交通量も多いが、恩地からはそうでもなくなる。ヌデヒコ・ヌデヒメ神社や、もうひとつ式内社にも寄るが、恩地神社や枚岡社は、前にも行き、街道から入っていかないといけないのでパス。
◆山が迫っていたのが、高安に入ると、東に退き、高安山がそびえる。田畑もまだ多く残る。生駒山系 の山越えの峠との対応関係がいまひとつわからず、これはこれで山登りマップなどもあるわけだが、両者をつなぐ必要がある。神社はたいてい東高野街道に面し鳥居があってわかるが、街道両側にいろいろ見所はあるはずだ。現地には説明看板があるのだろうが、街道脇に、ここから入れなどの案内表示はあんまり見あたらない。東高野街道という表示そのものも、あんまり見ない。現国道で、歩く見学者はあまり想定しておらず、史跡巡りとしてはより交通量の少ないところを通らせる必要もあるのだろうとは思うが。
◆そのまま東大阪に入り、見たことのある風景。東大阪市の発掘ふれあい館。立ち寄ると、家族連れなどが入っている。瓢箪山の商店街へ。昼飯を食べ、さらに北上。目標を野崎観音参りとす る。石切に入っていく。大阪の中央大通り(大阪城・難波宮)からまっすぐに東の地点。善根寺の花崗岩巨石を探したいところだがパス。阪奈道路(長いこと通ったことない)を抜け、大東市に入り、大阪産業大(桐蔭中高)を抜け、野崎観音に到達。JR野崎駅から帰る(15:58発)。
◆山が迫っていたのが、高安に入ると、東に退き、高安山がそびえる。田畑もまだ多く残る。生駒山系 の山越えの峠との対応関係がいまひとつわからず、これはこれで山登りマップなどもあるわけだが、両者をつなぐ必要がある。神社はたいてい東高野街道に面し鳥居があってわかるが、街道両側にいろいろ見所はあるはずだ。現地には説明看板があるのだろうが、街道脇に、ここから入れなどの案内表示はあんまり見あたらない。東高野街道という表示そのものも、あんまり見ない。現国道で、歩く見学者はあまり想定しておらず、史跡巡りとしてはより交通量の少ないところを通らせる必要もあるのだろうとは思うが。
◆そのまま東大阪に入り、見たことのある風景。東大阪市の発掘ふれあい館。立ち寄ると、家族連れなどが入っている。瓢箪山の商店街へ。昼飯を食べ、さらに北上。目標を野崎観音参りとす る。石切に入っていく。大阪の中央大通り(大阪城・難波宮)からまっすぐに東の地点。善根寺の花崗岩巨石を探したいところだがパス。阪奈道路(長いこと通ったことない)を抜け、大東市に入り、大阪産業大(桐蔭中高)を抜け、野崎観音に到達。JR野崎駅から帰る(15:58発)。
25日は根来の書評会
◆大阪駅前第2ビル4階のコンソーシアム大阪のセミナー室で開催。10:30~17:00まで。満席で盛況 でした。惣国とか都市とか、考古学で形成期の、つまりどこから国といえるか、どこから都市といえるか、という議論ともつながる点がありますね。また、雑賀が横ならびで、根来が系列関係を多数含みながら求心性をもつなど、といった内実の形態についても。
◆いずれにしても、根来研究の進展とか、昨年の本の意義とか、そこで展開されている議論の中身や、課題など、いろいろと勉強になった。
◆ふと、西側尾根の要害を問題にしてきたわけだが、西の山城とか、大きな掘とかを考えると、天正10年以降の防備体制をちょっと広い目で考える必要があるかなと感じた。一乗閣移転地は大門とともに最終防御ラインになるんだろうが、その手前のところでも施設を構築している可能性を考えないといけないかな、と。
◆昨年の本が現時点のひとつの到達点として基本文献になっていくことは間違いないところだが、今回の書評会の内容や議論もまた、『ヒストリア』でまとめておけば、さらに意義深いものとなるかなと思い、企画者側に原稿化することも考えほしいとお願いしてみた。
【追記】それにしても、白山平泉寺が勝山市がねばり強く取り組み、ガイダンス施設を設けたり、遺跡の整備にも進んでいる姿とのギャップは何なのだ、と思わずにはいられなかった。
◆いずれにしても、根来研究の進展とか、昨年の本の意義とか、そこで展開されている議論の中身や、課題など、いろいろと勉強になった。
◆ふと、西側尾根の要害を問題にしてきたわけだが、西の山城とか、大きな掘とかを考えると、天正10年以降の防備体制をちょっと広い目で考える必要があるかなと感じた。一乗閣移転地は大門とともに最終防御ラインになるんだろうが、その手前のところでも施設を構築している可能性を考えないといけないかな、と。
◆昨年の本が現時点のひとつの到達点として基本文献になっていくことは間違いないところだが、今回の書評会の内容や議論もまた、『ヒストリア』でまとめておけば、さらに意義深いものとなるかなと思い、企画者側に原稿化することも考えほしいとお願いしてみた。
【追記】それにしても、白山平泉寺が勝山市がねばり強く取り組み、ガイダンス施設を設けたり、遺跡の整備にも進んでいる姿とのギャップは何なのだ、と思わずにはいられなかった。
横口式石槨の石槨規模
◆前にも出したグラフ。前はとにかく、たぶん塚口先生の研究を踏まえた近つの図録の表にあった 数字をざ~と入れて散布図を作っただけだが、その時にも、9尺とか5尺とか4尺とかのみならず、一定の尺度にところに近いものがあり、当たり前だが本来は規格的にデータは格子状にまとまるだろうとみていた。なので、今回、図面にあたり採寸し、設計寸法を勝手に決めて作り直した。ひとつまえの西峯みたいな作業を経て、表を作り直すべきなのだが、時間もないし、方格をあてはめておらず、図面での作業だが。まあでも、たぶん大丈夫。宮前山とか松井塚は、確かに石棺を囲む石積みの規模が、ほぼ2.7m*1.5mですね。
◆土日の作業の後始末はこのくらいにして。授業の準備を・・・
◆土日の作業の後始末はこのくらいにして。授業の準備を・・・
鉢伏山西峯は典型例か
◆阿武山には確信がもてるまで接近しないのが無難か。薄葬令の典型例は、土器も出ている鉢伏山 西峯になりうるかなと。墳丘と石室・石槨にわけて尺度の分析をして一定のデータ集積をしてきているが、そろそろ統合的に考えなくちゃいけないと思い、終末期古墳シートを作ってみました。厚めの紙に印刷して束ねていきたいと思います。その第1号を、西峯でやってみました。
◆異論もあるかもしれないけど、墳丘の北側(左側)が削られている可能性は、石槨をはさんで左右非対称だからありうると思っていて、石室を中軸にあわせると南側(右側)はちょうど1.5mの4.5単位で、これが尋とすれば、ちょうど9尋なのです。石室は、幅は3尺ですが(刳り抜きですからね)、前室部より1段高い部分で長さをみると、ちょうど9尺になります。で飛鳥Ⅱだと。
◆異論もあるかもしれないけど、墳丘の北側(左側)が削られている可能性は、石槨をはさんで左右非対称だからありうると思っていて、石室を中軸にあわせると南側(右側)はちょうど1.5mの4.5単位で、これが尋とすれば、ちょうど9尋なのです。石室は、幅は3尺ですが(刳り抜きですからね)、前室部より1段高い部分で長さをみると、ちょうど9尺になります。で飛鳥Ⅱだと。
資料の作成過程で
◆結局、横口式石槨も十分やれないまま資料は出した。40分なので、中身としても、あまり増やす べきでもない。まあ、本番直前にもう少し。
◆1尋が1.5mで、それにより規定されている、というのをよりつっこむため、いろいろ事例を増やした上で、『定北』の図を使わせてもらって書き込んだ。薄葬令は奇数値だが(とはいえ実態は後述)、7世紀前半はどうも偶数値のようです。ちなみに、1.5mは30㎝の5倍でもあるわけで、25㎝尺の6尺1歩(これを尋とみているわけですが)、唐尺で墳丘が規定されているとの見方(たとえば牽牛子塚)とも通じるわけです。尋なのか尺数なのか、見極めはむつかしいが、通底するということだ。
◆それと話は変わるが、唐尺も30㎝強みたいなんと、奈良時代に近づく時期の29.7㎝があるようで、問題となっているようですが(あんまりちゃんと知らない)、普通に考えれば、やってきた尺度は30㎝強くらいだけれども、一方で、度地尺としての高麗尺35.6㎝があり、(石室とは異なる二次波及といまは見ていますが、7世紀前半の寺院の大まか設計から明らか)、普通に考えれば、そこで5:6で調整すれば、すなわち35.6㎝/6*5=29.66㎝となる。そういう決めごとをして調整を図ったと理解できるかも知れません。
◆1尋が1.5mで、それにより規定されている、というのをよりつっこむため、いろいろ事例を増やした上で、『定北』の図を使わせてもらって書き込んだ。薄葬令は奇数値だが(とはいえ実態は後述)、7世紀前半はどうも偶数値のようです。ちなみに、1.5mは30㎝の5倍でもあるわけで、25㎝尺の6尺1歩(これを尋とみているわけですが)、唐尺で墳丘が規定されているとの見方(たとえば牽牛子塚)とも通じるわけです。尋なのか尺数なのか、見極めはむつかしいが、通底するということだ。
◆それと話は変わるが、唐尺も30㎝強みたいなんと、奈良時代に近づく時期の29.7㎝があるようで、問題となっているようですが(あんまりちゃんと知らない)、普通に考えれば、やってきた尺度は30㎝強くらいだけれども、一方で、度地尺としての高麗尺35.6㎝があり、(石室とは異なる二次波及といまは見ていますが、7世紀前半の寺院の大まか設計から明らか)、普通に考えれば、そこで5:6で調整すれば、すなわち35.6㎝/6*5=29.66㎝となる。そういう決めごとをして調整を図ったと理解できるかも知れません。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。