人を幸せにする人になろう

今年度は

◆例年、研究費の残額をどう使っていくかという時期にさしかかっているが、今年は自分が代表者の科研もなく、2件の分担金くらいだが、少額で、考えることもない。が、大阪城の学内プロジジェクトをはじめ、同僚の代表者の研究で、一緒に仕事をしており、城関係のいくつかの調査でそこそこの経費を使うことになっており、その段取りを進めている。表に出しても問題ない段階で、また話題に出したいと思います。あれとコレと、それ。3つくらいか。

ひさしぶりに

◆研究室の空調が不具合で、まあ寒いこと。おかげで3連休も、あまり有効に使えなかった。そして 今週も水曜日まで寒かったですね。木曜日、ようやく、なんとかヒーター4000円くらいのを買ったのだが、寒気は衰え、かなり暖かくなる。
◆卒論は火曜日〆切で、日本史の学生も無事に提出。世界史を含めて、全体に少なめで、本日、卒論の副査の割り当てを決めたが、本数は少ない。多い時は、試問前、読み切るのにかなりしんどいことが多いが、今年は早めに読んでしまいたいもの。
◆いくつか、さぼっていたことも、なんとかここ数日で挽回し、回復基調。明日あさってはセンター試験だが、なんとか大化改進シンポの資料を作ってしまおう。そう、娘も明日、受験です。会場は大阪大谷大学だそうである。道明寺駅まで送っていくことになっている。なんとか、センターをミスなく得点をあげ、2次試験にむかってもらいたいものだ。どうなりますやら。例年通り、5日、道明寺天満宮に絵馬を掲げた。これで4年連続になるが、まあ今年でいずれにしても終わるだろう。

さらに

◆URの鶴山団地の脇に鏡池というのがあり、和泉市が文化財保護条例を作り、最初に、こ の鏡池を史跡に指定したんだそうである。そして池の脇に小さな施設を作り、信太山の自然や、鏡池にちなむ葛の葉伝説、そういう展示もしていることを、恥ずかしながら初めて知る。こんなん知らんかった。
◆たとえば和泉市だと、いずみの国歴史館がコア施設として、しかし各地域にこうした小さな施設を歴史遺産にくっつけて設けるというのはいいもんだ、と思う。ここでも、黄金塚の簡単なパネル展示もやっているし、企画展として惣ケ池遺跡の 最新の調査成果速報展をやっていた。考古でいえば、信太千塚の須恵器もすこしならんでいる。月1くらいで頻繁に展示を変えるらしく、自然や葛の葉伝説がメインとしても、信太地域の昔とか祭礼とか、地域に即したなんでもやるとのこと。展示施設は1部屋なので、どこが常設でどこが入れ替えかはわからないわけだが、とにかく何でもあり。そういう域に即したコミュニティセンターであり、展示機能ももつ、こういうものを、地域に配置していくのはいいもんだ、と。
◆たとえば和泉黄金塚について、いま既に地元の定期的な草刈りが行われるようになったようだが、そういう信太地域の歴史遺産の管理の基地にもなればいいだろうし、地元の勉強会の場にもむろんなる。そういう機能もどんどんここに集約し、地域の文化的活動の拠点に成長していけるのではないか。なんてことを考えていた。

和泉黄金塚で畿内を考える

◆昨年の伯太の合同調査時のフィールドワークでも、信太山丘陵の宅地を西向きに下っていて、と ても天気が良い日で、正面に六甲が見えているのに感動した記憶がある。摂津の乙女に対して求婚した1人は信太男、という大阪湾をはさんで、向かいは神戸なんだという話を思い出していた。
◆今日も寒かったが天気良く、和泉黄金塚から、生駒山、高安山、明神山系、二上山、葛城・金剛、むろん南は紀伊山地という景観をながめていた。むろん、六甲から東へも、どこまで見えているのかわからなかったが、東摂の山並みも見える。やっぱり畿内や、と。見ている景観が同じというか、共有できる範囲なのだということを。

1月10日、和泉黄金塚の史跡整備委員会

◆修士論文の〆切、無事、日本史のM2は提出した模様。お疲れさん。午前の学内会議の後、和泉 市に向かう。
◆まず現地。既に事前に説明も受け、新たに測量をやって塹壕の調査も実施し、伐採や草刈りを徹底し、かつてない墳丘の現状になっていることは知らされていた。それを楽しみに赴く。
◆写真の通り。

弥生博の行事

◆弥生博で近畿圏の考古学徒の発会企画がある。1月・2月・3月に各1回。うち からもM1が2人出 る。他流試合はよいことである。
◆和泉黄金塚の遺物が里帰りし弥生博で展示されるようで、なにか話をせよということで受けました。また電話がかかってきて、今度は纒向でやるから話をせよ、ということで、これも受けました。チラシを掲げておきます。
◆これまで弥生博で話をする機会はなかったが、一度に2つ来ました。弥生博も元気ですね。いろんな企画が進められている。これはやらんといかんやろ。

八塔寺ふるさと村

◆備前市の八塔寺ふるさと村に行きました。以下、web。

 岡山県のふるさと村整備事業によって設置さましれた。この事業の歴史は古く,昭和49年に当時の長野士郎知事の「肝いり」事業として始まりました。そして,県内の優れた農村景観を保存復元し,次代に継承することを目的として,県内に7地区のふるさと村が指定されました。以来,岡山県は平成12年度までふるさと村所在市町村に対して集落景観等の保全・修復事業,伝統文化の保存・伝承事業,都市との交流促進事業等の施策を講じてきました。八塔寺ふるさと村は,事業の始まった昭和49年に第1号のふるさと村として指定を受けました。

◆標高400m、戸数13戸という。かなり上がったところに忽然と村がある。

翌日3日、倉敷

◆翌日の予定はとくに決めていない。讃岐うどんを食べに行こうかとも言っていたが、四国に渡る のも高いし、倉敷に行くことに。天気良く、観光客であふれていた。以下、ウィキ。

 当エリアは倉敷市の美観地区景観条例に基づき定められたもので、同市本町全域、中央1丁目北部、東町・阿知2丁目・鶴形2丁目の各一部が含まれる。広義の美観地区の面積は21.0ヘクタールで、うち伝統的建造物群保存地区(第一種美観地区)が15.0ヘクタール、伝統美観保存地区(第二種美観地区)が6.0ヘクタールとなっている。伝統的建造物群保存地区(倉敷川周辺)は倉敷川畔伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
 江戸時代初期の寛永19年(1642年)、江戸幕府の天領に定められた際に倉敷代官所が当地区に設けられ、以来備中国南部の物資の集散地として発展した歴史を持つ。倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の町並みをよく残している。1969年に倉敷市の条例に基づき美観地区に定められ、1979年(昭和54年)に県内2件目の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。
 また、1930年(昭和5年)に建てられた日本最初の西洋美術館大原美術館や1888年(明治21年)に代官所跡地に建てられた旧倉敷紡績工場の建物を改修・再利用した観光施設倉敷アイビースクエア等も当地区を代表する建築物である。

◆久しぶりでしたが、なかなかいいもんですね。大観光地であるのもよくわかる。倉敷市が1969年に条例を作ったと。なかなか先進性がありましたね。考古館も行ってみました。

下電ホテル

◆姉と妹家族は、2日、朝から尾道に出かけており、夕方合流する予定だったが、事故渋滞で到着 は18時過ぎとなる。まあ、観光客でいっぱいである。食事は部屋ではないが、多くの観光客はレストランだが、人数が多いからか宴会場にセットしてあった。ゆっくり飲み食いをさせてもらい、そのあと一部屋に集まる。麻雀をしようと、雀牌を買ったが、する機会なく、あいかわらずの大富豪。まあしかし、9人でやっていると楽しめるもんですね。
◆ビールのほか、冷酒も頼むが、仲居さんいわく、客が多くてグラスもそろわないんだとか。さばく方も大変である。下電ホテルの開業は昭和7年だそうである。

日生で牡蠣を

◆毎年、2日に、うちの兄弟家族がみな加古川に集まりますが、父母もいい年齢になり、正月の集まりの世 話も大変で、外に泊まりに行くことになる。前も一度、岡山の湯郷温泉に行ったことがあったが、この時は単独に終わる。今年は児島の鷲羽山下電ホテルとなる。2日夕方現地集合とし、うちらは父母を乗せて昼前に出かけ、途中、日生で牡蠣を食べる。ちなみに、受験生の娘は、1日の泊のあと、生石神社に初詣を済ませて、ひとり国分に帰って行く。受験生はつらいが、センター試験まで時間もなし、がんばってくれ。
◆で5人で炭火を囲み、カキ・サザエ・ハマグリその他、貝のセットを注文。カミさんらは白ワインをボトルで取り呑んでいるが、こっちはノンアルコールビール。
◆そのあと鷲羽山へ。こないだ11月下旬に、塩飽本島から児島港まで船に乗ったところ。瀬戸大橋は昭和63年だそうです。ちなみに1986年の研究室旅行で香川に行った時が、最初で最後の宇高連絡船でした。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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