人を幸せにする人になろう

2022年12月26日(月)島原

◆雲仙温泉を出発。地獄めぐりを少しやってもよかったかな。真東に下り、雲仙東海岸を北上し、 城下町島原市に向かう。雲仙普賢岳の噴火は1991年、その年、熊本から雲仙を望遠した記憶がある。91年の火砕流被害にあった小学校などが保存されているという、それも含めた世界ジオパーク(「島原半島ジオパーク」、2009年認定、日本初)の立派な看板があちこちに。
◆島原城。西側から入るようになっており、天守の展示を見る(1964復興再建)。史料の保存のた め暗く、説明パネルは写真のような、そこだけ明るくなるものが、かなりの数、展示ケースの手前に設置されている。そういったものを含め、リニューアルされていて、よくできていた(既に記憶があいまいに)。城跡から有明海を望む。そのあとまちあるき。
◆以下ウィキ。島原の乱は、領主の松倉勝家による苛酷な政治が原因なんですね。「乱後、領民に反乱を引き起こさせた責任を厳しく問われ、乱の鎮圧後に斬首刑に処された。」、「松倉勝家の後、徳川氏譜代の家臣・高力忠房が遠江国浜松藩よ り4万石で入る。忠房は乱で荒廃した島原地方を復興することに尽力した。そして巧みな農業政策や植民奨励政策などを行なって、島原の復興を成し遂げたのである。ちなみに現在、島原に多くの方言があるのは、忠房が各国の武士の次男・三男や農民などの植民を奨励して、様々な国の人々が島原に土着したためと言われている。しかし忠房の後を継いだ隆長は藩の体制確立に躍起になったためか失政が多く、幕府より咎を受け寛文8年(1668年)に改易となった。代わって丹波国福知山藩より深溝松平氏の松平忠房が6万5000石で入る。」。その後もあるが省略。
◆水路をはさんだまちなみ、なかなかいいですよ。

2023年12月25日、出島

◆修船所から長崎市街に入り、出島に行く。明治以降に建てられた橋を渡って左サイドの洋館2つが残り、あとはいま進められてい る復元建物ということである。中島川の拡張で、扇の内側部分はその後に20mほど削られてしまったのだという。そこにいまは橋が取り付けられ、内部に入る。520円。
 ◆昔、中学校の修学旅行で長崎に行ったとき、ここが出島ですとバスからだろうか見たような記憶がある。1978年?。公開施設にはなっていなかったのかな。こんなと こ?、と思ったカスカなオボエがあるが・・・。そのあと1991年に行ったとき、いまもある模型を見たということだが、記憶にはない。いまHPを見ると、1996年から本格的な整備に着手したようだ。長期計画では、現道路を動かして、往時の姿に戻す計画であるという。
◆こうしていまは、内部に復元建物ができ、観光客は見て回るようになっている。長崎に刊行で行く人は、必ず訪れる目玉だろう。入口入って左手の復元建物が出土品の展示に使われ、かなり充実している。そして出島を訪れたみながまず入るようになっている。ありがたいことである。
◆長崎をあとにして、高速道路に乗り、諫早まで行き、今日の宿、雲仙温泉に。雲仙温泉は標高670mあるのだそうだ。雲仙最高峰は1500m弱という。これが平成新山。山を上がっていくと、前日の雪で、山には雪が残る。

小菅修船所

◆今回、長崎で見たかった小菅修船所に行く。トンネルを抜けてすぐのところで(1度間違えた)、 なんとかセンターへの進入路を行くと、駐車スペースがあり、ガイドさんが2人、寒いのにおられた。日本最古のレンガ建築といって言いもののようだが、はっきりと断定できないのか、明確には主張していない印象。聞いてみたらよかったが。
◆帰ってきて調べると、反射炉用の白煉瓦というのが先行し、建築用の赤レンガとしては、長崎造船所が、万延元年12月上棟で古いとのこと(厚みの薄いコンニャク煉瓦)。横須賀造船所がこれに次ぐという。長崎造船所の建物は残っていないようで、明治元年12月(太陽暦で1868年なのかな)という小菅修船所が、明確なものではもっとも古いものの候補となる。どなたかのブログで、どこかのお寺のなかに2年ほどさかのぼる?ものを見つけた、というを見たが。横須賀の方は、完成が1871年だが1865年開設ともあり、詳しくは不明だが、いずれにしてもこの修船所よりも古いレンガ建物があるような記事には出くわさない。
◆煉瓦はマニアがたくさんいるので、詳しい人なら、いろいろ教えてもらえそうである。
◆とにかくこの修船所、小松帯刀が主としてかかわり、五代友厚も協力したのだったか。要するに薩摩の蒸気船の修理場所が必要となって、それを造れということになったよう。五代の関与がどこまでか、これも五代マニアはたくさんいるので、詳しい人は詳しいのだろう。
◆まあ、よく残ってきたものです。ガイドさんと話をしていると、谷を利用していて、背後からの水が入ってきてしまうようで、雨が降ったあとはグズグズらしい。川筋そのものは振っているんだろうが、もとの谷筋沿いに水が入ってきてしまうのだろう。建物の中の大きな歯車のあるところは溝が切ってあり回転するわけだが、水つかりの状態である。

1月29日の文化財専門職説明会

◆対面をめざしているが、厳しいかもしれませんね。

2022年12月25日、長崎から雲仙2

◆志津から少し北にある大野の集落にも足を延ばしてもよかったのだが、長崎に引き返す。長崎への帰りは、すべて海沿いのルートとし、女 神大橋を渡り、渡ったところで地道に下りた。長崎市街に行こうとしていたところ、T字交差点で信号待ちをしている間に、そのまま南下して半島先端をめざすことになる。これ、何半島というのでしょうか。
 ◆軍艦島をのぞむところで昼飯。半島の先端は野母崎。先端のピーク地点には展望台があり、さらに先端へ行く車道もあるようだが、ほんとの先っぽまでは行けない。一方、野母崎はこの野母崎なのだが、右側にある樺島の南端が「もうひとつの野 母崎」となっているようで、こっちに灯台がある。橋ができており(1986年)、そちらに向かう。写真は樺島からみた野母崎。
◆長崎に引き返す。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

◆ウィキから経緯を。
◆2013年8月に文化庁が推薦候補としたが、ご承知の通り、内閣主導で「明治日本の産業革命遺産」を推薦することになり、1年遅れ、2015年1月に推薦。しかし、国際記念物遺跡会議(ICOMOS)から注文がついて取り下げ。長崎県はICOMOSとアドバイザー契約を結ぶ。明治時代以降に建てられた教会単体を遺産とするのでなく、隠れキリシタンが形成した集落を遺産とし、国内での法的保護根拠を重要文化的景観とすることを決める。構成資産の見直しや名称変更を経て、2017年に推薦、2018年5月4日に登録勧告、6月に登録決定。
◆構成資産のひとつである出津(しつ)集落については、旧出津救助院が(ドロ神父記念館となっている旧出津救助院鰯網工場 を含め)2003年に重要文化財指定、ドロ神父が1882年に完成させた出津教会は2011年に重要文化財指定、そして集落域が2012年に国の重要文化的景観に選定された(「長崎市外海の石積集落景観」)。出津の北の大野については、1893年にやはりドロ神父の建てた大野教会が2008年に重要文化財指定。重要文化的景観への選定はまだのよう。
◆重要文化的景観として範囲を線引きし、それとイコールなんだろうと思うが、世界遺産の構成資産として線引きされているんでしょうね。その範囲図のようなものは、どこかで見たかな~
 

2022年12月25日、長崎から雲仙

◆翌日レンタカーを借り、外海に行く。レンタカーを予約するのが遅く、軽バンであった。長崎の町あるきも考えていたが、結局はほとんど歩かないことになる。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産になり、歴史博物館での展示や、そこで取ってきたパンフレット類でも、大いに宣伝している。とくに意識していなかったが、今回の旅程はほぼ関連遺産のある範囲だったので、これらの遺産や資料館などに立ち寄ることの多いものとなる。
◆車で大村湾に面する時津に行き、大村湾を見に行く。長崎の地形が書けますか?。複雑怪奇で、 すらすら書くのは難しい。大村湾は、外海とは細い水路が抜けているだけで、ほんと内海。それを見ておきたかった。そこから西彼杵(そのぎ)半島の沿岸に出て北上し、出津(しつ)に向かう。
◆外海(そとみ)歴史資料館に到着(1979年開館)、展示を見る。出津集落が世界遺産となり、リニューアルしたんでしょうね、充実した資料館です。沖合7kmにあった池島炭鉱のコーナーが興味深かった。以下、ウィキ。「さらに1998年の電力自由化によって池島の石炭は安価な海外炭に押されるようになり、2001年11月に閉山。当時約2,500人いた従業員はすべて解雇された」。良質の石炭で、こないだまで操業していた!、のだ。
◆そのあと、歩いて、教会、救助院などを見る。ドロ神父記念館(もとは旧救助院のひとつの建物)と救助院の公 開が別々になっているのは、理由があるんでしょうね。ドロ神父さんというのはエライ人ですね。漁村に赴任し、漁で夫を失った未亡人が多く、彼女らの生計のためにマカロニ製造その他、現金収入をもたらす事業をやったとのこと、それで救助院。「教育が人を作る」。
◆1883年にできたという救助院はよかった。富岡製糸場は1872年、より古いし、官営で大規模だし、むろんよく残ってきたものだ。だが一方、官の造ったものとは別に、ドロ神父のもつ技術と地元の協力で作られた、いまに残る工場跡もある!ことに、感動した。

2022年12月24日、九州に向かう

◆少し前から九州旅行を計画していた。この日、前日東京泊だったカミサンが9時6分に新大阪に着 くというので出発。が40分の遅れで、合流したのが945頃。長崎まで切符を買い出発。
◆新鳥栖で下り、在来線特急に乗り換える。ここでうちの中世史の院生と出くわす。なんとか温泉で長崎新幹線に乗り換え、着は何時だったろうか。長崎市に前に来たのは、修学旅行、新婚旅行、最後がお役所勤めだった時なので、20数年ぶりということか。
◆初日は、到着が午後なので、ホテルに荷物を預け、長崎歴史博物館に行く。ウィキによれば、「2005年11月に開館。長崎県と長崎市が行政の垣根を越え予算と収蔵品を出し合い設置した。管理・運営は、指定管理者制度により、民間企業の乃村工藝社が行っている。」とのこと。お役所勤めの時というのは、県立美術博物館で速報展の際。この旧美術博物館は1965年にできたもので、老朽化しており、2002年に閉鎖し、跡地に歴史博物館が、美術館は出島町にそれぞれ新設されたよう。
◆「海人」というところで晩飯。

2023年になりました

◆2029年3月定年まで、あと6年と3か月になりました。今年もよろしくお願いします。
◆新年早々、息子がコロナ感染。31日に、はじめて嫁さんを連れて河内国分に帰ってきた。1日には、加古川でわたしのキョウダイ家族が集まって飲食。その日、のどが痛くなっていたようだが、翌日2日に姫路城と生石神社に行ったあと、河内国分に戻る車の中でダウン。夜の新幹線で神奈川に戻る予定だったが、嫁さんだけ帰る。ウェルシアに抗原検査キットを買いに行き、この日は陰性だったが、翌日3日午前、陽性反応。再び検査キットを10ほど買い込み、われわれと娘の3人も、3日・4日と検査したが、さいわい陰性。娘は4日に予定通り北海道に戻る。
◆わたしは熱など出ず、職場に来ているが、カミさんはのどが痛いと・・・。ちなみに、1日の飲食者にただちに連絡したが、その後、姉の息子の感染判明、妹夫婦も両方発熱しているとのこと。あちゃー、申し訳ない。
【追記】北海道に戻った娘が、今日の抗原検査で陽性が出たと。カミサンも発熱、アウトだろう・・・。早く帰って晩飯を作ろう。

ぼけ~、と

◆この2日、ぼけ~としていた。いくつかやることはあれ。昨日、黒崎さんの本を夕方読んでいた。 飛鳥の方格地割の本。基本的に黒崎さんの見解を支持する立場である。ただ、よりわかりやすくする余地はあり、咀嚼し、自分なりのメモを作っておくかなと。とはいえ、こういうのも丸々数日はかかるので、そこでいつも挫折する。
◆今日はちょっとギアを上げて、年内の後始末をやろうと思う。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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