人を幸せにする人になろう

やめられない

◆もひとついうと、倭の国家形成は早い。百済や新羅よりも。が、なんで王の在位年を含む王統譜がぜんぜん復元できないんでしょうか。百済王や新羅王についても、細かく言えば間柄とか、在位年に数年の異論はあっても、基本的に順番と在位年は判明していますよね。なぜ、日本はそうでないのでしょうか。記録がなかった?、口移しの伝承で不確かだった?。それだけではないと思います。なんで紀元前660年に神武即位をもってきて、引き延ばしたのか、それは古くしたいからなんでしょうが、5世紀の話でいえば、なんでわからなくしているんでしょうか。むろん、古事記崩年干支から、おおよそのところはわかる。ホムダワケが4世紀後葉で、オオササギからミズハワケが5世紀前半で、允恭が5世紀中頃で、雄略が後半だと。なのに、なぜ允恭紀年は42年あり、仁徳紀年は87年もあり、応神紀年は41年もあるのか。
◆なぜ5世紀の王の在位年を長くしているのか、そんな作為をなぜしなければならなかったのか、それには当然理由があると、わたしなんかは考えるわけです。紀年論は「はやれへんからな」、そうですか。しかしバカにしているKさんは果敢にそれにチャレンジして、答を出している、とわたしは思っています。倭五王の朝貢記事が『宋書』にあり、記紀編纂者の手元にはあったんでしょう。が、中国への使節派遣の記事は雄略朝に2回だったか、あるだけではないですか。百済王の関係記事は収録しているのに。なぜですか。5世紀のことはかなり明瞭に伝わっていたと思います。正しく在位年を配置すればいいのです。そして、それ以前の王の在位を水増しし、欠史8代で不足ならもっと加えて、神武即位にもっていけばいいのです。が、そうしていない。仁徳さんは87年も、高句麗長寿王なみに長い治世があったと、なぜしなければならなかったのでしょうか。文献史の人は解明してくださいよ。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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