人を幸せにする人になろう

やめてもいいのだが

◆全史協の冊子をざっと見た。これ以前に、出たばかりの時に、白石先生が送って下さったようにも思う。中身を見ると、前にも書いてきたが、西殿塚の前方部に土壇があって、それが後円部の埋葬ともども、台与段階の分掌した2人という点については考えないといけない。
◆お願いしたいのは、茶臼山古墳の年代をどう考えるかということと、266年にどうやら台与が晋に朝貢しているということを、どう考えるかということに尽きる。白石先生の考えでは、西殿は古い埴輪が出ているので、266年の朝貢直後くらいに死んで葬られ(30歳前後ということになるでしょうか)、次いで茶臼山の被葬者が王になり、在位短く270年過ぎくらいには死に、メスリ山古墳の王が4代目になり、これが死んで崇神が立った、ということなんでしょう。266年から318年まで3代だから、1人17年くらいでちょうどいい、ということなんでしょう。
◆まあ、それでもよし、としておきましょうか。卑弥呼の在位は約50年で、台与もそれくらいの長期の王であってまったくおかしくないと思うが、それはわからん。考古学的に西殿を突き詰めることですな。そこはこっちも宿題が残っている。
◆西殿塚型、元稲荷、普通円筒はない、古相。東之宮、これはまた弁天C1と同段階で、これは新相で3世紀末に近いだろう。台与の在位はそれなりに長く、相似墳も幅がありうる。むろん普通円筒は西殿で表れ、孤立して古く、畿内の前期古墳で埴輪を持ち始めるのがⅠ-3というのは別にそれでもいい。が、まあ東之宮くらいが西殿の年代くらいでいいのではと思っています。宮山型とか都月型で古くするわけにはいかず、普通円筒で考える必要があり、それは東殿とかメスリの埴輪に対し、むろん1段階前に置いたらいいのだが、実年代としてどこまで開くだろうか、ということです。270年頃に西殿の普通円筒があったか、と言われれば、ないんとちゃうやろか、と。
◆西殿の前方部埋葬は特異ですね。あれをどう考えるのかは確かに難問。白石説でいけば、箸墓と西殿の前方部には男が入っていたということになりますね。で、茶臼山とメスリ山は1人が権力を集中させる段階に入るという見方だ。そこで王権としては分掌的なあり方を解消させるということのよう。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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