人を幸せにする人になろう

十河さんの河内大塚山、安閑未完陵説について

◆これまた大歴ネタだが、第3回立ち入りの『ヒストリア』の報告記事をなんとか書いた。で、立ち入り前の自分の見解、立ち入りの結果報告に加え、十河さんの重要な研究成果を紹介した。
◆やっとちゃんと十河さんの論文を読んだが、これはやはりスゴイ。明日の授業でも取り上げることにしたが、文献では意見が分かれ、議論が出尽くし、平行線の感がある「辛亥の変」について、考古学が決定的な根拠を提示するものだからだ。今後、文献における、継体朝から欽明朝への転換の議論において、十河さんの論文を無視しては話は進まないだろう。なので、なにがなんでも6月号に間に合わせ、十河さんの論文を紹介しようと思っていたが、なんとか書いた。反応が楽しみである。と同時に、こうした重要な研究を、十河さんには、改めて『ヒストリア』でまとめてほしいと思う。ちょっと水を向けてみよう。文献史の連中をハッとさせる必要がある。
◆『ヒストリア』記事のなかで、自分のオリジナルといえば、そういう十河さんの研究からすれば、辛亥の変とは、安閑の殺害なんではないかと思う。とはいえ、百済王暦やそんな細かいことはオレには無理だし、考古学では扱えない。しかし、事実は、今城塚は埴輪が配列され、慶長地震で石室は吹っ飛んでいるとはいえ、埋葬が完了している。それに対し、300mを越える巨大前方後円墳の築造に着手し、埴輪も準備され焼かれながら、供給されずに終わったのであるから、大塚山古墳へ葬られるはずの人物、それが安閑なのだが、それが最終的に、大后とともに高屋陵に合葬されたことからすれば、継体没後、大兄である安閑が即位したが、蘇我に排除された、というのが事実なんだろう。『百済本紀』の記事の関係や年代論のような細かいことの整合性はよくわからんが、まあそれは餅屋に任せればよい。それよりも、日置荘西町埴輪窯の研究、大塚山古墳が供給先であることなど、考古学的な追求を進めた十河さんの研究がよほど重要である。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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