人を幸せにする人になろう

峯が塚の年代

◆なぜ5世紀後葉といったりするのだろうか。出土須恵器は断片だが、植野さんはMT15とする。一瀬さんもそうしている。新納さんも大刀の内容からして、そんな古くない、と言っていたようにも思う。確実に6世紀に入るものだ、ということでよかろう。かつ、市尾墓山や今城塚とほとんどかわりはない。
◆で、古市古墳群のことを考えているわけだが、岡ミサンザイのあと、ボケ山・峯が塚までの間、けっこうポッカリ空くんではないのか。埴輪で順々にならべられると、切れ目なく続いているようにも見えるが、果たしてほんとうだろうか。皆無というわけではないが、けっこう断絶的ではないのだろうか。
◆そのなかで、清寧陵と仁賢陵はあのなかにあると考えられるわけで、それがどれなんか、ということはとても重要である。むろん、ひとつひとつ考古学的な根拠を確定させていく必要があるのだが、岡ミサンザイ=雄略陵(これとて論理の整理が必要)と、今城塚=継体陵で上下を定めてみるものの、この間の配列はなかなか容易ではない。没年で言えば、雄略479(『日本書紀』)と継体527(『古事記』)で50年間もある。とはいえ、ほぼ6世紀初頭の継体擁立で世界が変わる、6世紀以降は継体政権でだいたい説明していって問題ないだろう。そうすると、5世紀末、雄略没後の20年(『古事記』では489でこれもなんでだろう・・・)、この間をどういうイメージでとらえるのがよいのだろうか。
◆で、清寧陵から考えているのだが、前の山ということはないでしょうか。ニサンザイの後継者、ニサンザイって大仙の後継者=キナシカル(的存在)で、そこそこ古い。前の山はそれを継ぐ王かとも思うのだが、それは倉西論からすると、ワカタケルの弟の清寧がいちばんふさわしいわけだ。神聖王清寧に、イチノベを殺害して執政王も允恭系が奪取してワカタケルが即位すると。清寧がいつまでいたか、考えても答などないのだが、ワカタケルと同世代と理解しておけばいいのでは。66889047.JPG
◆埴輪だ。要するに、2次調整ヨコハケの省略の頻度で順序が決められている。『書陵部紀要』をちゃんと見る必要はあるが、前の山は墳丘の埴輪、岡ミサンザイは周堤の埴輪で比べてるのではないのか。そこあらたりで、だいたいトントンということにはならないものか。
◆白石科研の本を見直しているが、やっぱり埴輪やってはる3人で微妙に違うわけだ。共通理解に達しなくてもいいのだが、3者の相違を明示してくれるとウレシイんですけど。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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