人を幸せにする人になろう

突然ですが倭王武

◆卒論提出が済み、別途、月曜〆切の仕事も終わり、ホッと一息。前から書いていたが、ちょっと2月のシン63908dfe.JPGポジウム(チラシは右)のため準備をしていて、すこしメモを書きました。どう思いますか。 
◆ワカタケルが、允恭後、ゴタゴタの上に即位する。『宋書』〈倭国伝〉では462年に、倭王済が死んで、世子興が献使したという。記紀の王統譜でいえば安康と雄略が考え得るが、『日本書紀』では安康末年は456年、雄略元年は457年。雄略紀には中国への2回の献使が記載され、派遣されたのは464と468年である。462年と合致しないが、百済の漢城陥落が1年ずれていることも指摘できる。世子興が献使した462年に近い時期にワカタケルが中国に使者を送っていることが確認できる。
◆そして、倭王武の上表文では王位継承がなされ、継いだ武が献使したと理解でき、それは中国に将軍号を求める倭の五王の論理となんら変わりはない。つまり478年近くに、倭王興から武への王位継承がなされていると理解できる。雄略22年(478年)の白髪立太子は、倉西の理解でいえば王位継承を示す可能性があることも示唆的である。
◆以上のように、倭王興の治世(462~478*)とワカタケル治世(書紀:457~479)はほぼ重なる。山尾は、倭王武=ワカタケル→倭王興=安康だから、安康が『日本書紀』では末年が456年になっているけれども、実際は462年までは存命していたとする。だが・・・。その後ワカタケルが王位を継承し使者を送ったと。中国への通交が実現して呉ハトリらもやってくるわけだが、それは『宋書』には記録されなかったことになる。『宋書』からすると、倭王武の献使は478年に初めて中国に行ったと考えられ、上表文で高句麗に邪魔されて使いを送れなかったという弁明とも矛盾することになる。
◆以上、倭王武はワカタケルではないということが明らかと思うのだが・・・。武=ワカタケルの絶対的根拠は、ワカタケルという実名。中国に使いを送る際の王名として、実名の意味から武の漢字一字をあてたという理解である。讃・珍・済・興がすべてそのように説明できるわけではないが、説得力はある。
◆しかし、この1点をのぞけば、倭王武がワカタケルでないことは明らかなのだが・・・
◆ところで白鳥陵=前の山=軽里大塚、これ重要ですね。岡ミサンザイのひとつ前というのは確かなんでしょうかね。同じくらいにならないか。

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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