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横穴式石室の研究ってどうなってるのか

ead190c7.jpg◆卒論で横穴式石室をやっている者が1人いて、一緒に勉強している。まあそれにしてもわからんことだらけ、研究は細分化をきわめていて、読んでもようわからん。ざっくりと大づかみで、理解したいのだが。
◆藤木-牧野-天王山-(丸山)-石舞台-ムネサカ-岩屋山、とまあこういう変遷観がある。で丸山が欽明墓571で、石舞台が馬子262といったとたん、破綻している。石室の型式的位置が間違っているか、両被葬者のどちらかが間違っているか。
◆和田さんと新納さんの石室や石棺の変遷観はほぼ一致していると思うが、年代観は異なる。和田さんの方がオーソドックスで、牧野・天王山、石舞台を定説的年代で考え、丸山(の石室と奧棺)が7世紀第1四半期にならざるをえず、巨大前方後円墳とはみあわないが、欽明墓であると考え、堅塩媛改葬時の石室の作り替えを想定する。ほんまかいな、という意見はあろうが、理詰めの上での解決方法としての想定である。新納さんも方法論を明確にした60a86b2c.JPG上での理詰めの議論であるが、丸山(の石室と奧棺)を6世紀第3四半期に引き上げ、これを欽明墓であるとする。これは、7世紀代の横穴式石室墳の年代観、新納さんのこれまでの前方後円墳終末の時期を引き上げ、推古朝の画期を重視する議論の延長ともいえる。ただし、この年代観は従来の通説的な見解をかなり引き上げるものであり、どうも支持者は少なそうである。
◆このあたりの研究に先鞭をつけた白石太一郎氏は、やはり「牧野=彦人」「石舞台=馬子」は確実とみて、見解にぶれはない(これは否定しがたいよな)。(最近、テルチャンの説になんか言ってたように思うが、論文を思い出せない)。
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◆さてと、わたしのチョコットした見方。馬子は稲目没後、敏達即位572年に大臣となり、推古34年626年に死ぬ。54年間大臣として君臨した。物部守屋を倒したのが587年、完全にトップに立つ。やっぱり寿墓とちゃいますか。最後の仕上げは必要だし、それが蘇我一族が集まっていたという記事であって、石室は6末~7世紀あたまにできててもいい。岩屋山式は7世紀前半でいいだろうし、文殊院西は倉橋麻呂(649没)だろう。文殊院西もあれは650年頃の石室でなくて、640年代とみるべき。
◆で、問題はそれ以前。
◆丸山=欽明、牧野=彦人、石舞台=馬子、これらは横穴式石室墳で被葬者と結びつけうる最有力資料で、かつ、その確度はかなり高い。牧野・石舞台は整合的で、そこに丸山が割り込んだ。そうなると丸山=欽明は否定される。石室の型式学的位置づけがa1cc2be3.JPG間違っているのか、特大墳での積み方を特別に考えるか、和田さんのように作り替えを考えないと、説明できない。
◆被葬者の比定の確からしさを考えると、彦人は『延喜式』のみにより、馬子の場合、「桃原」があそこかどうかの考証は知らないし、嶋大臣=島庄遺跡、そして石舞台の規模を考慮するもので、ばっちり結びつける記事があるわけではない。。欽明墓は、檜隈坂合陵に葬る記事がばっちりあり、その後の堅塩媛追葬記事もあって材料が多くあり、それにもとづく小澤さんやテルチャンの考証の蓄積によって、もっとも確かである。これを定点とすると、全体が6世紀後半に上がり、そうなると牧野・石舞台とも否定することになる。これが新納さんの見方。

◆だが、そうだろうか、3つともOKではないのか。丸山の羨道は、石舞台とはぜんぜん違う、もっ0d252cbf.JPGと古相で距離は大きい。横穴研のように、石舞台の前に置くべきだし、牧野よりも古くてよいかもしれない。図面だけでなく、実際の石の用い方、結局は写真なのだが、それも狭い空間で十分な画像はなく、全体像がわかりにくく、客観的な比較が難しいように思う(考えるところあり)。もうすこしやってみるが、丸山の石室は十分に古いのではないか。
◆かつ石の大きさや用い方は、巨石化、多段から3段・2段へという大きな流れは間違っていないのだろうが、実際には、たとえば牧野に花崗岩を運んでいく労力は飛鳥よりたいへんだろうし、また石材供給が同条件として、石積み職人がまったく同一系統でない限り、時間軸でばっさり切れないように思う。(1)調達できる花崗岩+(2)石積み工人の差を考えておくべき。
◆むしろ、流派がこちらにもあるとはいえ、石棺の方が共通指標たりうるのではないか。石室の編年は重要であることは動かないし、それが石棺の変化とも整合的であるという新納さんの方法論はまったく正しいが、どちらかというと石室の方が偏差が大きいように思う。丸山は日本一の巨大古墳で、玄室規模も大きい。したがってもちいる石材も大きくなろう。奧壁の構成が石舞台と近いかもしれないが、羨道部の石材の整い方は大きく異なる。
◆だからといって、丸山をどこまであげうるかは、総合的に考えなきゃならん。けれど、藤木の石棺より丸山前棺は古くても良い。藤木の壁体は多段だが、垂直に積み上げるあり方は、かなり牧野などとは異質であり、市尾墓山とも異なる。主流派ではないのでは?。なので、丸山が藤木より新しいと決めつけることはできないだろう。
◆丸山の石室は560年代に置けないのか、それを論証することだ。牧野・天王山は6世紀後葉、石舞台を7世紀前葉、岩屋山を7世紀前半として、丸山を6世紀第3四半期に置きうるか、である。それにしても6世紀前半の市尾墓山以降の石室と石棺をわかりやすく並べた図を見ない。自分で作るしかないか。
◆【覚】岩屋山って誰の墓か?

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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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