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河内大塚山古墳

◆今朝、通勤前に河内大塚に寄った。実は昨日も、試験の答案の採点を、夜、河内大塚山脇の2617e43d.jpgサイゼリヤでやっていた。古墳はまっくらで、改めて今朝、行ったわけである。
◆河内大塚をちゃんと回ったのは、これが2回目である。前方部の両側の堤は、昨年、やりかえられたもので、実はその工事期間に宮内庁に立ち入りを要請したが、工事中で安全面から実現しなかった。で、石積の真新しい堤になっているわけである。後円部については、前回は東南しか行かなかったが、今回は西から見た。だいぶ堆積土がたまり濠は狭まっている。おそらく浅いのだろう。
◆この古墳、未完と思っているが、どう考えるか。土師ニサンザイに後続する神聖王墓であるので、候補は清寧だ。で、継体擁立にともなって王墓は未完に・・・、というのがシナリオ。土師ニサンザイがキナシカルに相当する神聖王墓であるが、埴輪8fde9da3.jpg03b5ad61.jpgからすると、市野山と変わらんらしい。キナシの没年は不明だが、あまり下げられず、460年代のうちにはあるのだろう。そのあと、神聖王清寧と、執政王雄略の体制となる。
◆河内大塚が平面形がおよそ形作られているので、割り付けられて掘削され、おもに後円部に盛土され(後円部も高くはなく造営途上と理解しやすい)、そこで中断。が、しかし。清寧かどうかはともかく、ニサンザイに後続する神聖王墓として造営されたとして、継体即位まで未完状態だったというのは、あまりに後に引っぱりすぎており、違和感があるわな。
◆だとすると、河内大塚の年代を決めるのはきわめて困難だから、考えてもしかたないのだが、もう少し古く考える、5世紀後半のなかで未完に終わるデキゴトがあったとみるか、実は、雄略段階で、神聖王墓は小さくなり(白鳥陵)、その次が河内大塚と、1枚はさむのか・・・





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雲楽
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男性
誕生日:
1964/03/22
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大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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