人を幸せにする人になろう

考古学者の生き様

◆森浩一、七観古墳破壊(1947・1952)、カトンボ山破壊(1949)、城ノ山古墳破壊(1950)、百舌鳥大塚山破壊(1950-1952)、[黒姫山,1953]、[カトンボ,1953]、[和泉黄金塚,1954]、いたすけ問題(1955)平凡社の『世界考古学大系』(1959-1961)、[富木車塚,1960]、経塚調査(1961)小林行雄『古墳時代の研究』(青木書店,1961年)、[二塚,1961]、弁天山古墳群の調査(1963)、[前山,1963]、[大和天神山,1963]、将軍山古墳の調査(1964)
◆『日本の歴史1神話から歴史へ』(中央公論社,1965年)、井上光貞の著作であるこの本の考古学の記述を助けたのが森である。同年、『古墳の発掘』〈中公新書〉65(1965年)、河出書房の『日本の考古学』(1965-1967)、『シンポジウム古墳時代の考古学』(学生社,1970年)、『古墳―意志と土の造形―』〈カラーブックス〉212(保育社,1970)、『論集終末期古墳』(塙書房,1973年)、『考古学ゼミナール』(山川出版社,1976年)、『考古学入門』〈カラーブックス〉360(保育社,1976年)。
◆きっかけは、野上さんの抜き刷り、いろんなことが書いてある。話半分くらいで・・・。だが、梅原末治の評価は納得できる。梅原先生はすごい業績を残した。梅原教授と、小林助手に影響を受けた戦後入学組、それをあまりにも対立的に描くのはどうか、という疑問はわかるような気がする。どこだってあるだろう。小林の新しい手法や技術を新鮮に受け止め、教授梅原は古いと、そう思うのも仕方がないことでは。で、野上さんは、いろんな人を切りまくる。森浩一が出てきた。自分が掘りたい古墳を、大阪府の委員である小林が掘り、自分は保存を訴える側にまわる、と。実際の所、あまたの調査をかかえた大阪府、その調査をだれがやるかということをめぐっては、いろんなことがあったかもしれない。しかし、経塚も弁天山も誰かが掘らねばならない。功名心や学問的うまみを考えるのもいたしかない。しかし、そんなことはもはや知ったこっちゃない。今となっては、なかなか難しかったことは理解できるが、多くの調査が未報告であることがやはり問題だ。森先生の遺跡を保存したい、調査費を出してもらって掘ることに対する反発もわかるし、自分が掘れないという反発が0ではなかったのかもしれないが、保存運動を貫いた精神をちゃんと評価しなければならないし、世間は評価している。
◆そんなこんなで、いろんな本を出してきて時間をつぶしてしまった。しかし、それぞれの職があり、立場があり、そのなかで懸命にやってきたということも、きちんと受け止める必要がある。むろん、学閥というのもあるんだろうし、野上さんの指摘があたっている部分もあるのだろうが。
◆そんなんで、それぞれの生き様を調べてみたい、とふと思った。だが、自分がいまやることではないな。だが、野上も指摘するように、人間の人間たる弱い部分をもつことを認めてやり、きちんと学問で評価する、あるいは弟子を育てたということで評価してやる必要がある。坪井さんも、やっぱりエライ人やと思う。なのに、全体として、野上さんのイチャモンぶりは、自分が唾棄したはずの人間に自分がなっているように思う。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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