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4世紀

ウィキより

前燕〔337年~370年〕は、鮮卑族の慕容皝が建国。鮮卑族慕容部の首長慕容廆(269年~333年)西晋〔265年~316年〕に服属して勢力を拡大、西晋より鮮卑都督の地位を与えられる。遼西に定住して農耕生活を進め、西晋の制度を導入して社会の安定に努めた。西晋が八王の乱などで衰退すると、307年には鮮卑大単于を自称して自立の道を歩む。309年12月、遼東の治安秩序の維持に成功。西晋国内では永嘉の乱が激化、311年6月に洛陽が陥落して西晋が実質的に滅亡すると、漢族には流民として遼東に逃げる者も多く、慕容廆は流民を受け入れ、中原文化の導入、農耕技術の進展、人材の確保に成功。
◆333年5月に慕容廆は死去、息子の慕容皝(296年~348年)が跡を継ぐ。慕容皝は337年9月に燕王に即位(前燕の成立)。後趙〔319年~ 351年〕と争う。342年に龍城(遼寧省朝陽市)に遷都。東方では高句麗と対戦、国内城を破壊、343年に高句麗は前燕に服属。
◆慕容皝は348年9月に死去し、第2代には息子の慕容儁(319年~360年)が継ぐ。349年に石虎(295年~349年)が死去した後趙では皇位をめぐる内紛が激化し滅亡、352年4月、前燕は後趙領の東部を占領下に置く。慕容儁は352年11月に中山で皇帝を称し、東晋からの独立を宣言する。357年に鄴(河南省臨漳県)に遷都。慕容儁は前秦や東晋〔317年~420年〕との3国鼎立に決着をつけようと大規模な軍備拡張を行ったが、360年1月に死去して挫折。
◆第3代には息子の慕容暐(350年~384年)が継いだが、若年のため実権は叔父の慕容恪(~367年)が握った。慕容恪は賢人で甥をよく補佐しながら前燕の勢力を徐々に南方に拡大、364年8月には東晋から洛陽を奪い、366年までに淮北をほぼ制圧し、前燕は全盛期を迎えた。
◆367年5月、慕容恪は病死し、実権はその叔父の慕容評(生没年不詳)に移った。この慕容評は収賄政治を行って前燕を腐敗させる。前燕の弱体化を見た東晋の桓温(312年~373年)は3度目の北伐を行なって前燕に侵入。桓温の侵攻に弱体化した前燕軍は敗戦し続け、慕容暐は龍城への還都を検討する。だが慕容暐の叔父慕容垂(326年~396年)が桓温と対峙し、さらに前秦に領土割譲を条件に援軍を求める事で対抗する。慕容垂は前秦軍到着の前に桓温を撃破し、慕容垂が新たな実力者として前燕で台頭し始めるが、それを憎んだ慕容評(生没年不詳)により慕容垂は排除を図られ、前秦に亡命。慕容垂の出奔で前燕を支える大黒柱はいなくなり、逆に前秦は皇帝の苻堅(338年~385年)や宰相の王猛(325年~375年)らにより攻勢に出る。370年11月には苻堅自ら率いる10万の侵攻を受けて首都の鄴は陥落、慕容暐は捕縛されて前秦の首都長安に連行され、前燕は滅亡した。
慕容垂(326年~396年)(写真)は、前燕初代皇帝慕容皝の五男。東晋軍を撃退するも前秦の苻堅の下 に亡命する。383年の淝水の戦いで前秦軍が東晋に大敗すると、慕容垂は苻堅を保護して撤退した。いろいろあって、384年1月に燕王を自称し、燕元という独自の年号を建てて独立し、後燕を建国。386年1月、慕容垂は中山で皇帝を自称した。いろいろあって、さらに東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げ、かつての前燕を凌ぐ最大版図を形成した。
◆395年5月、皇太子の慕容宝(355年~398年)(写真)に10万の兵を預けて北魏〔386年~534年〕を攻 撃させた。大軍の侵攻に北魏はオルドスまで撤退して対峙したが、気候条件の悪化のため後燕軍は参合陂に後退、そして11月に天候の急変もあり、北魏軍の奇襲を受けた後燕軍は参合陂の戦いで、壊滅的大敗を喫した。この大敗で、それまで優勢だった後燕と北魏の力関係は完全に逆転した。慕容垂は頽勢挽回のため、396年3月に親征して北魏軍を平城に破り、同地を平定した。しかし4月、帰途において慕容垂は急病により陣没した。
◆皇太子の慕容宝が継いだ。いろいろあって、397年2月の後燕内部での内紛もあり、北魏は10月に中山を平定、12月に慕容宝は龍城に遷都。後燕は中原の領土を喪失する。398年1月には慕容宝から後燕南部の支配権を任されていた車騎大将軍で叔父の慕容徳(336年~405年)が滑台(現在の河南省滑県)で燕王を称して自立、南燕〔398年~410年〕を建て、後燕は分裂。2月、慕容宝は無謀な中山奪還を敢行して北魏軍に大敗し、5月に龍城において舅の蘭汗(~398年)に殺害された。
◆398年7月に慕容宝の庶長子慕容盛(373年~401年)が蘭汗を殺害し、長楽王として即位して後 燕を再興。慕容盛は10月に皇帝に即位したが、この頃になると内紛と北魏の圧力により、後燕は遼東と遼西を支配するだけの小国に没落している。401年7月、慕容盛が禁軍の反乱により殺害され、新天王には叔父に当たる慕容熙(385年~407年)が皇太后の丁氏により迎えられた。後燕は北魏の外圧を受け続け、高句麗・契 丹遠征を繰り返して国力を消耗、407年7月、慕容熙は漢人の中衛将軍である馮跋(~430年)(写真)に殺害された。ただし馮跋は、次の皇帝に慕容宝の養子の慕容雲(高雲)(~409年)(写真)を擁立しており、また国号も燕(北燕)〔407年~436年〕としたことから、後燕の滅亡、北燕の建国が馮跋自身の即位した409年とされることもある。
◆高句麗・広開土王(374年~412年)
◆百済・近肖古王(在位:346年~375年)(写真)『晋書』では余句、『日本書紀』では肖古王、『古事記』では照古王、『新撰姓氏録』では速古王
◆百済・近仇首王(在位:375年~384年)『梁書』では須、『日本書紀』では貴須
◆百済・枕流王(在位:384年 - 385年)『日本書紀』では枕流(とむる)
◆百済・辰斯王(在位:385年 - 392年)『晋書』巻9・孝武帝本紀太元11年(386年)夏4月条には「百済王世子余暉」として百済王の諱と思われる人名が現れる。この余暉を「世子」の表現から阿莘王に相当すると見る説もあるが、年次の面から辰斯王に比定する説が多い。『三国史記』においては諱を「暉」とする百済王の記述は見られない。『三国史記』によれば、385年11月に先代の枕流王が死去したときに太子(後の阿莘王)が幼かったために、辰斯王が王位についたとある。『日本書紀』には『百済記』の引用として「枕流王の薨去の際に王子の阿花(阿莘王)が年少であったので、叔父の辰斯が王位を簒奪した」とある。
◆百済・阿莘王(在位:392年 - 405年)『三国史記』百済本紀・阿莘王紀の分注には別名の阿芳王が伝えられ、『日本書紀』では阿花王とされる。『日本書紀』には「枕流王の薨去の際に辰斯王が王位を簒奪し、後に辰斯王が日本に対して失礼な振る舞いがあったために日本の側は紀角宿禰などを遣わせて譴責したところ、百済の側で辰斯王を殺して詫びたので、紀角宿禰らは阿花を百済王に立てた。」とある。
◆倭・ホムダワケ(在位:390~394)

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
54
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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