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北燕

ウィキより

◆後燕の中衛将軍馮跋は、407年7月に主君であった皇帝慕容熙を殺害して後燕を滅ぼした。馮跋は後燕の第2代皇帝慕容宝の養子慕容雲を新たな皇帝(天王)に擁立して自らは実権を掌握し、これが北燕の建国といわれる。慕容雲(在位:407年~409年)は高句麗人の後裔で、高句麗との関係は後燕時代よりかなり好転したが、逆に北魏とは幽州刺史の慕容懿が離反するなどしたため悪化した。傀儡として立てていた高雲は、409年10月に寵臣の離班や桃仁に殺害され、馮跋(在位:409年~430年)はこの混乱を鎮定して自ら天王に即位した(馮跋が即位した時点を北燕の建国とする説もある)。
◆北燕は西の強国北魏からの圧力に苦しめられ、馮跋は東晋と通交し、また当時蒙古平原を支配していた遊牧民の柔然との間に婚姻関係を、さらに契丹と通交して対抗した。北魏の使者を2回にわたって捕縛する事件を起こしたので、416年からは北魏より侵略を受けるようになる。ただ北魏は当時、西の夏とも敵対しており大規模な攻勢を北燕にまでかける余裕はなく、両国の間は緊張したまま推移した。しかし北燕内部では馮跋の従兄の馮万泥や従兄の子の馮乳陳が反乱を起こすなど内紛もあり、北燕の中枢は安定しているとは言い難かった。
◆430年9月、馮跋は病に倒れたため次男の馮翼に国事を委ねた。ところが外戚の宋氏がこの処置に反発して馮跋を幽閉したので、馮跋の弟馮弘が宋氏に対して反乱を起こした。この混乱の最中で馮跋は死去し、新しい天王には馮弘が即位した(在位:430年~435年→宋に封じられた燕王在位:435年~436年)。だが北燕ではその後、後継者争いが起きて馮弘の世子馮崇が北魏に出奔し、北魏に庇護されて遼西王に任命されて亡命政権を形成するなど、既に末期症状の兆しが見え始めていた。
◆北魏の太武帝は431年に西の夏を滅ぼしたので、432年からは連年のように北燕を攻撃した。これに対して馮弘は東晋滅亡後に成立していた宋との連携を強化し、435年1月には遂にその属国となって支援を受けたが、北魏からはその後も攻撃を受け続け、436年3月には北魏の大規模な攻勢を受け、4月に高句麗に亡命した。これをもって北燕は国家としては滅亡した。馮弘は高句麗から宋への亡命を希望したが、438年3月に北魏の圧力に屈した高句麗によって殺害され、北燕は完全に滅亡した。
◆遼寧省北票市西官営鎮において北燕宰相の馮素弗の華麗な墳墓が発掘されている。

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雲楽
年齢:
60
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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