人を幸せにする人になろう

あ~あ

◆水曜日は比較的空いているんだが、本日木曜日は考古学の大学院の授業と研究会で、朝から、今日でいうと17時まで。院生らはそのあと、遺物の後始末の作業をしてくれた。比較的時間のあった昨日、そして今日、空いている時間は、結局、市大日本史で終わった。昨日は信太山丘陵の陸軍演習場の地図を作成した。今日は、新しい校正が送られてきたり、直しが済んで帰ってきた校正が何本か届けられ、すべて片づけると今20時です。考古学研究会のパワポは10枚くらいで止まったまま。明日は教授会で11時以降はず~と会議だし。
◆よう仕事するもんだべ。自分で言わないと、誰も言ってくれないし・・・。
◆考古学研究会が終わると、なんと市大日本史の書評原稿を仕上げないといけない。5月16日刊行なんですけどね。難波宮京ですわ。それと難波宮研究会。前年度最後の3月の研究会のあと、継続することにし、5月17日(大阪の住民投票の日)に設定したのはいいけれど、何をするか候補を考えないまま日が過ぎ、そうなると流さないとすれば自分でやるしかないから、難波宮京の設計についてやると宣言してしまった。あ~休めん。GWは別のある仕事を完了させる予定で、それが済んで1週間で研究発表にもっていく必要がある。前に出したように、高麗尺で説明がつくとの見通しはあり、それをある程度きっちりやるということが課題。

授業が始まり、

◆金曜日の博物館資料論に行くと、受講生があふれかえっている。あとで聞くと200名余りだと か。やはり試験は必要ですね。ほんとに資格を取ろうと考えている履修生には、よくない。
◆文科省の言いなりになる大学競争からは降りるべし。
◆阪神首位という短すぎる春。
◆朝日文庫の『学力と階層』というのをカミさんが読んで、いろいろ教えてくれる。
◆学校教員の学力が下がっているという話。例えば大阪府。あんな教育長のもとで学校教員なんてやってられないでしょうね。むろん、その前からの激務やら、管理など、学校の先生の世界がせちがらい魅力の薄いものになってしまってきている現実。意識はあっても、実情の前に教員になるのをやめるようになっている層があるのだろう。そういう層が別職に就き、優秀な層が先生にならなくなることで、以前なら合格しなかった層が採用されているのではないか。
◆『日本語の科学が世界を変える』という本があるそうだ。科学の世界で、それぞれの国で、母語の教科書がちゃんと作られているかといえば、ないんだそうである。英語の教科書で勉強するのだとか。英語ができてよろしい、という話ではない。ちゃんと日本語の専門用語が作られ、訳本でなく、日本の専門家が日本語で教科書を書き、それによって大学教育が行われる。それによって、借り物ではない科学的思考ができるのだそうである。そりゃそうですよね。真理の世界であって、英語でないと理解できないというものではない。概念をそれぞれの言葉で表すことができるはず(ただし蓄積は必要だろうが)。それにより母語の言語体系のなかで、英語のやつらと同等の思考を働かせ研究をすることができる。英語の教科書でもできないことではないのかもしれないが、そのへんはわからないが、そこは英語の枠にとらわれることは、思考や発想も制約を受けてしまうのかも知れません。少なくとも普及にとっては絶対必要だ。英語の教科書で勉強し研究するとなると、限られた人数になるにちがいない。そこは日本語の教科書があることで、誰でも、内容は難しくとも、日本語で学ぶことができる。それが世界を変えるかどうかはまた別だろうが、少なくとも対等に勝負できるわけだ。

ええかげんシンドイ

◆月曜3限に今季から始まる大阪の歴史演習なる科目があり、準備するも、10:40から大学史資料室 の移転WGの会議に行く。12時を過ぎ、戻ってから初回に配るものを残り整え、13時に授業に行く。それから、兵庫城を終わらせ、市大日本史の論文1本の入稿準備をし、19時。
◆そこから明日の授業の準備。明日は4つある。うちひとつは博物館経営論で初回とラストのみの担当。ふたつは実習。ひとつが考古学の講義。で、博物館経営論の初回の資料につき、昨年度のものを出してきて改良を加えているが終わりません(追記:水曜日でした。なんで間違って認識していたのかわかりません)。考古学の講義は、19日の予行演習をしようと、それにむけてパワポを作ろうと思っておりましたが、いま20:30を過ぎ、無理ですな。さて、どうするか。まあなんとかシャベリでカバーか。
◆考古学実習は301への遺物引っ越しから始めようか。博物館実習Ⅰは、ガイダンスだが、前期は大学ミュージアムとの関係で考えることがあり、ここ3年のやり方を変えようと思っているのだが、明日までに準備できるかな~。
◆けっこうしんどく頭が重い。帰りたいところだが・・・。依然、パワポは0枚である。

喜界町遺跡ガイドブック

◆喜界町でお世話になった卒業生は、3月で辞し海外青年協力隊の研修に入る。1月にあった城久遺跡群のシンポジ ウムなどの資料を送ってくれた。そのなかにガイドブックも入れてくれており、裏表紙は彼女の絵であったので紹介します。こういうのを描けるのは、とてもいいことだ。考古もそう。原図は手描き、次はトレース、こういう絵でも肉筆でもそのまま使える洗練の仕方もあるし、ペンタブでデジタルで描けるようになれば、なおと思う。こういうのはペルーでも役立つに違いないと思う。

さて今日も頑張ろう

◆920出勤。右膝はほぼ回復するも、左膝はますます痛く、引きずっています。昨日は、兵庫城の原 稿を整えていたが入稿におよばず、そこからです。3回の現地説明会の図面を合成するのに、だいぶかかってしまいました。これ、カラーでそのまま載せるのがいいんではないかと考えつつやめ、本文中としモノクロ化にまた時間を要した。が、やはりカラーがいいのではないか。ということで、入れ替えなどの調整がさらに必要。
◆市大日本史は、今日、合同調査の初校が返ると聞いているので、それも入ってくる。
◆で明日は、大歴の現地見学検討会で、その資料の印刷等の準備。資料はほぼ組んだのだが、参考図等を配列しようと思っており、これも少々時間がかかるだろう。
◆そんなんで、今日は日が暮れるに違いない。考研大会のパワポはいまだ0枚である。
◆1230、兵庫城関係の図・写真の入稿、本文初校返却完了。ああ、月曜日にずれ込んだ。
◆1423、明日の午前の部の、A3両面カラー100部、印刷終了。15:03、地図を3頁入れて、3人の報告資料100部の印刷中。ハンドマイクも用意したし、あとは会計のことと・・・。
◆1630、次は市大日本史の合同調査の校正をデータ上で直す。完了して入稿。20時を過ぎていたか・・・。

防衛省のキャリア組

◆こないだ、まあイトコと叔父の告別式のあと飲食しながらしゃべっていて、防衛庁時代は、あっちこっちの省庁から入れ替わりでキャリアがやってくるのだと。それが防衛省になって、はじめて生え抜きのキャリアが生まれるとか。頭で考えれば、本当の専門がいないと制服組がのさばり、専属キャリアができると、それはそれでプロとして制服組を統制するにはいいのかとも思うが、そうもいかないんでしょう。プラス、で実際に防衛省に入ったヤツの話を聞いたが(誰とは言いません)、まあノー天気な、ヘリコプターカッコイイというヤツらしく、あかん、と。
◆沖縄県知事と官房長官。官房長官は民意が辺野古移設反対ではないと、のたまわったとか。ばかにされてますよ。知事選ならびに総選挙で示された民意を、政府はまったく無視するわけだ。
◆下村文科大臣の問題がうやむやになりつつあるのが悔しい。新聞社よ、いろいろ新しいことが起こり対応は必要だろうが、下村を追い込むことをやってくれよ。クロなんだから。
◆国会議員は当選すると、eラーニング(植民地語)をやり、企業献金をもらいません、政務調査費は適正に使用します、違反した場合は議員を辞職します、という誓約書を書かせる、というのはどうだろう。

年金のこと

◆春、子供の経費のことで夫婦で相談。半分ずつ、だが。娘が20歳になって年金支払いが始まり、手続きは本人がしたようで。でまあ、いろいろあり、各支払いがどうなっているか、だいたいは記録されているが不確かなことを、本人等に確認する。で、カミさんが年金のことを調べ、憤っている。1970年くらいは月数百円だったのが、とんでもない上昇で、いまは月1.5万くらいだと。大学生だと猶予があるが、そうはいっても先延ばしなのでそうせず払っているが。例えば本人が就職する。年金もあるし健康保険もあるし、収入は少ないし、そりゃ納付率が上がらないのも当然である。年金は、ちょうどわれわれ世代は、かけてきた額はもらえるそうだが、それってアラフィフですよ。それより下はもらえないという不当なもの。
◆一方、新聞の週刊誌広告の見出しでは、上西議員は「もう5000万貯まった」と言ったとか。歳費ってやつは年3000万ですか?、解散がなく4年やれば1億2000万、あほちゃうか。それだけの値打ちがあるとは思えない。国会議員は、自分たちが法律を通した最低賃金の時給で、仕事をした時間だけかけて支給されるべき。政務調査費は、一定の上限はあれ、基本的に研究費と同じく、出張書類を出し、しかるべき認定を受けて主張命令が出され、実費で支給され、半券を示すとか、行った先の写真を添えないといけないとか、そうすべきである。なにか買うにも、一定の額以上なら入札、あいみつ、その前にそれが調査費として適正かどうかを問われる、そうすべきである。丸投げでどこぞに調査を委託するなど、厳格に中身を調べるべし。むろん企業献金は禁止。「国会議員は名誉職だから無償」とはいかない。が、それはもうかる職業であっていいはずはない。だから親子で世襲される家業になるのだ。

新年度が始まる

◆私学では少し早いのでしょうが、国公立は今日9日からでしょう。昨日8日、朝、電車のなかで、 近大 附属に通う中学生?、高校生が、まあたらしい制服、靴、かばんをもって大勢乗っておりました。環状線の寺田町では大教大天王寺の入学式なのか、親子連れが多く下りていきました。で、うちでは歴史学のガイダンス、ならびに日本史ではそのあとの恒例の新歓コンパでした。新2回生は14人、考古希望者もいたようです。カメラを忘れ、取りに行っている間に、新入りの自己紹介コーナーが始まっておりました。MもDもそこそこで、日本史全体ではけっこうな数になります。写真は新院生の紹介コーナー。
◆で、9日から新学期の授業開始。木曜は大学院の授業をはじめ、考古の研究会の曜日です。大学院の授業では、古代史・中世史・近現代史のM1が履修し、授業の相談と発表順を決めるなどのことをやり、そのあと、修論・卒論予定者の報告でした。それとDの投稿論文の打ち合わせ。まあそれで19時をまわる。研究会はまあひととおり質疑するまでエンドレス。どこともそうでしょう。毎週、木曜日は丸1日、考古の学生・院生に向き合うことするつもり。40~50人相手の授業もいいが、うちの現状では考古学専攻生は5人だが、研究会をやっているのが、いちばん大学らしい、と思う。

報告書等をいただく

◆今年度でK大学を定年退職されるU先生の報告書等をいただくことになる。現場が終わったあとの3月28日と29日。1日目は自分を入れて5名、2日目は4名。約100箱か。800レンタカー、830大学で段ボール積み込み、930京都駅前で学生を乗せ、ほぼ約束通りの10時に着く。作業をしかかると、箱が足りない(選んで箱の大きさを決めた)。足りないのはわかっていたが、1日目の夕方にでもコーナンへ行けばよいと思っていたが、学生等4人が詰めている間に、近場のなんとかに買い足しに行く。
◆こりゃ、1日ずつの運び込みでは無理と判断し、1530に戻ると約束し、1人を箱詰めに残し(ごめんな~)、午前が終わったところで一度大学へ。301の研究展示室前の廊下突き当たりに箱を積み上げ、舞い戻るとぴったし1530。2度目の箱詰めをして、今日は解散は遅くなるがつきあってくれと頼み、京都を離れる。この日は快晴で、サクラも咲き、ものすごい観光客。第1便はよかったが、第2便は、K大から四条通りを突破するまでに50分を要し、到着したのは何時だったか?、19時くらい?。
◆K大の先生の研究室は旧陳列館の2階で、エレベーターはなく、階段を1階だけとはいえ下ろし、台車に載せ、通用門から出て、至近の距離だが車に積む、その肉体労働は相当なもの。おまけに膝は痛いし。でこの2日間で右膝も痛くなる。まあ本は重いのです。
◆2日目は、報告書が終わり、単行本や図録類。図録はアート紙で重いが、報告書はすべてだったのに対し、これらはすべて点検の上、必要なものだけとする。すべてで10箱。市大にもらうものを抜き出す作業を終えたあと、院生にはそれぞれ欲しいものを点検させる。みな1~2箱くらい、引き取っており ました。これで計15箱くらい。雨が降る2日目でしたが、1日目の重労働に比べて格段に楽。13時近くにはなったと記憶するが、ほぼ午前で作業を終了し、京都駅で飯を食べ、大阪に戻り、比較的早い時間で終了した。
◆とくに近畿圏の報告書、たとえば大阪府センターの近畿道関係などは、欲しくても得られないものだったが、ごっそりいただくことができた。が、問題は図書館である。リポジトリが公表されている報告書は、いまあるものでも捨てたいと言ってきたのは1年前。どないして登録にこぎつけるかだが、まあそこは・・・。
◆そんなんで、3日に院生等と136博物館実習室と301研究展示室の片付けをやったとき、廊下の段ボールを、遺物のコンテナを入れる予定のスチールラックに収めたわけである(これで80箱)。

倭国王帥升問題

◆で歴博論文から一歩進めたとすれば帥升のこと。これがヤマト国王の可能性はあると思うが、発表では断定は避けよう。が、以前は2世紀初頭ははるか前、倭国乱があり、卑弥呼が来て、古墳はもっとあと、これが80年代。しかし古墳の年代は上がり、そしてまた庄内式があがり、2世紀に既に畿内に求心力がある蓋然性が高まったわけです。それが今回の発表の本質。歴博の論文では、帥升のことを書きながら、それは1986年の岡村論文の域を出ていない。が、今回の庄内式の検討を鏡から検証することで蓋然性が高まると、それは107年に限りなく近づく。庄内0式は2世紀第2四半期にしているが、歴博は100年前後と考えており、データ的には可能性アリとみている。が、後期の開始年代を含め、後期土器の配列はまだあのデータでは無理。なので、第2四半期にいまはとどめている。
◆いずれにしても、1世紀後半には肩をならべ、2世紀には纒向ができ、そこに人が集まってくる求心力をもっている。その端境期がちょうど倭国王帥升なのである。そう考えると、1世紀後半のなかの東方社会のネットワーク化の進行により、ヤマト国を押し上げていく、それによりそれまでなかった「倭国」が誕生した可能性はある、と思う。帥升がイト国王なのかヤマト国王かは決められやしない。別にイト国王で構わない、そうではあっても、趨勢からすればその直後にヤマト国に転換する。端境期というのはそういう意味で、107年がぎりぎり北部九州であれ、ほぼそのあたりが転換点で、ヤマト国を代表とすることになるのは時間の問題。むろんどっちと考えるかは歴史的に重要だが、どっちが蓋然性が高いのかは、今後の研究で見極めればよいのだ。いずれにしても、その辺が転換点であることはもはや動かないわけです。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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