人を幸せにする人になろう

台風は過ぎ火曜日の授業はまったく普通に・・・

◆いま18時、2限と3限と5限と三つやり、ほっと一息である。いまからは明日5限の博物館概論の準備です。昨年が2年目で、いちおう14回分(ちょっと足らんかな)作り上げたが、その場しのぎも多く、デキは各回で異なっている。なので、今年が3年目だが、準備なしにやればいいというところまでは到達しておりません。1回1回見直し、資料などを作り直す。

遺物は大事だが

◆ここ最近の2つ。若いうちは遺物を見よ、集落なんて遺物が見えなくなってからやるもんだ、と言われたとか(その1)。自分のところの学生・院生に遺物を見る訓練が十分にできていないことは自覚している。それはアカン。反省。が、常々言うのは、遺物こそが考古学だなんて、これっぽっちも思っていない。少なくとも遺構は対等だろう。竪穴、掘立、きわめて重要ですよ。が、あんまりやらないから、律令期集落のことなんか、みな知らないのだ。むろん律令的土器様式も大事だろうが、7世紀を考える上で、集落の方が重要だと思っている。
◆自分は、卒論で鏡をやり、修論で古墳をやり、また瓦をさわってきた。古墳時代を考える上で、やはり古墳そのものは雄弁だと思う。自分の研究が成功しているかどうかはともかく、倭王権と地域権力を考える上で、なかの遺物も大事だが、古墳の動向こそ歴史そのものだと思う。
◆専門といえる遺物を作れ、と言われるのだそうな(その2)。あった方がいいだろう、とは思う。が、それは大学にいる間にしかできないものではない。発掘現場にいて、遺物の出土状況を目にして、報告書にまとめる、そういうなかで、整理し、一定の序列をつけていく、良好な資料、多くの遺構遺物がある場合、必然的にそうした作業が求められる。
◆まず遺物尊重でなく、遺構も取り組まれるべきだ。加えて、これからは、最初から特定の遺物や遺構に取り組むというのでなく、歴史的解釈にむかっていいと思っている。要するに遺跡の評価、遺跡群の全体像をとらえる、時代の変化をとらえる、地域的展開を明らかにする。集団関係、居住形態、生活様式・・・、全体像を捉えていく、など、テーマ性をもった卒論・修論であってよい。むろん、学生・院生のみならず。弥生時代後期の畿内社会を考えないところに、邪馬台国東遷説、ひいては神武東征の亡霊が入り込むのである。

台風接近

◆現在17時50分、ヒストリアの仕事を片付けていたが、守衛さんが回ってきて、いるのは2人だけですと言われ、雨も激しくなりつつあるので、帰ることにしよう。22時までやれば、だいぶ進むのだが、なんとか家で、と。

2月22日、大化改新シンポⅡ@大阪市大 記事№2500

◆昨年に続く連携シンポ、今回は、大阪歴博でなく、大学が会場。やっと、正式タイトル、概要をまとめ、チラシの原稿を取りまとめた。おそくてすいません。
◆わたしは条里の話を、大阪市に即してと・・・

やっぱり和泉市史

◆提出したもの、中身はともかく、多いので、大幅に減らさないといけないとの反応に、やっつけてしまい、かなり削る。あわせて挿図の予定も、と。一旦、原稿を出してエントリーし、10月中でというのは実際そうなるわけだが、これも自分のイメージで作り上げるには、自分が選定し、枠を取り、割り付ける必要がある。編集部も全体をやっており、たいへんですし。
◆ということで、することは他にもあるので、できるだけ時間を取らず、図の完成は10月末とし、挿図を選定し、インデザインで枠取りまでして、原稿として再提出しようと思う。祝日、8:20に研究室に座っております。
◆台風の被害が最低限でとどまりますように。

2014年10月10日守山市

◆12日の日曜日9:20、研究室。まあ、誰もいやしないが、しばらくすると日本史院生室の明かりが つく。課程博士論文を書いているSさんだろう。頑張って欲しい。この3連休、ここまで不義理をしている滞貨を一掃するありがたい3日間だ。1日目は、和泉市史で暮れてしまったが。本日、読み直して脱字など気づいた誤りの最低の直しをして、再度、送信した。これでひとつが終わり。あと10個くらいはあるんだろうか。大きいのは2つで、今日と明日で、と思っている。また別に、18日に陵墓の勉強会でのしゃべりが待っており、この準備も頭が痛い。
◆できれば息抜きでブログも、とも思う。金曜日に滋賀へ見学会に行った。目的は守山に行き、下 之郷遺跡、伊勢遺跡、下長遺跡について勉強すること。詳しく書いていく余裕はないので、行程だけ。守山市マイブンセンター、史跡下之郷遺跡、銅鐸資料館、桜生古墳群(閉まっていた)、古冨波山古墳、冨波古墳、大津の渡来人歴史館、皇子山古墳、大津市博、本日はここまで。久しぶりの呑み会を設定していたので。17時過ぎに引き返し、18:30難波はずれこみ、18:50となるが、ウイグル料理屋ムカーム。22時前までいただろうか。詳しく書きませんが、とても盛り上がりました。
◆守山市の方には親切に対応いただき、マイブンセンターで話をしていると、下之郷の方に電話を入れていただき、そっちに行くとKさんに待っていていただき、概要の説明をいただいた。またそのあと話をする。史跡指定をしてガイダンス施設を設け、いろんな取り組みをしているが、なにか昔のことで、現在の住民にとっての必ずしもつながっているように思ってもらえない、といった感覚があるのだろうか、一般論的な話であったが、そういう話題になった。元は土器の話。凹線文がどうのこうの。専門的には必要だが、地域の歴史を語るには、それによってどう考えられるのかというストーリーが必要。和泉市史とも重なり、いろいろおしゃべりした。集落遺跡、古墳、寺院、須恵器、それらをどう組み合わせて歴史を描くか、中世やら近世まで行かずとも、弥生や古墳はやはり遠く、6世紀7世紀くらいまでをつなぎ、古代の地域社会までをなんとか描きたいと思う。(1)まずそういう志向性があるか、がまず大事。これがなければ遺跡を有機的につないで考えようとはしないだろう。(2)その次に、学問的には根拠不足もあり、不明なところもあるのだろうが、総合的に考えてこういう変転ではないかと考えたとして、それを明確なビジョンとして語る志向性があるかどうか。そんな話をしていました。

和泉市史信太編を書き上げる

◆10月9日に間に合わず、10日は学生らと守山市等への見学に出向く。銅鐸博物館にいるところに、電話がかかってきて最後通牒。11日に出すと約束し、それででなければ切りますと。11日、90%はできており、午前中でなんとかして、午後はそれ以外の仕事をと考えていたが、結局、朝から晩までかかり、22時にほぼできあがるが末尾が未完なまま、大学を出て家に戻る。ようやく12日0:20に書き上げて送信した。
◆渾身の作品、と自分では思っている。和泉市にかかわって15年、この間の、和泉市のみならず、摩湯山古墳の測量や、古墳のみならず、寺院や条里や須恵器やら、そして文献史の研究に学んだことをすべてつぎ込み、それらを整合的に組み立て、和泉の古墳時代史を考えてみたものである。
◆淡輪のことは、やや未消化な点が残るが、これについては引き続き取り組みたい。西陵古墳をいずれ測量したいもの。博論も終わったので、ようよう摩湯山古墳の報告書に取りかかりたい。和泉の古墳時代を書く次の機会は、摩湯山の報告書であろう。和泉市史という一般向けを意識した記述だが、摩湯山の報告書では、さらに考えた上で論文としてまとめたいものである。

難波宮研のあと

◆杉本駅前いわし亭で呑む。実に楽しい。ほぼ同年代のT氏と日本酒を飲み、またまた酩酊状態で、環状線を乗り過ごしつつ、帰り着く。
またあとで書き足そう。

埼玉大学紀要のコピーを送っていただく

◆三友国五郎さんの論文を求めていると話をすると、京都大Y氏がたぶん図書館にあるだろうから送るよと、ありがたい言葉をいただき、お願いし、送ってもらった。ありがとうございます。関東の条里地割をながめ感動。で、欲していた上野国交替実録帳の言及の箇所を見る。86巻の成巻の話は、史料に書いてあることであって、史料を示し結論を簡単に述べたくらいで、この論文を引用していた論文から得ていた知識を大きく越えないものであった。こっちとしては、もうすこし解説が欲しいが、まあしゃーない。『群馬県史』を見るかな。また、有名な重要史料なので、その後の研究でも論究しているものは多くあるのだろう(知らないが)。

難波宮研で

◆文献史の発表を1本聞く。孝徳朝の検地、一定の私有地の収公、石母田の賦田制に相当する、それ らによる田地のあてがい(出生や死亡による見直し班給をしない段階)を認めようというもの、と大筋を理解した。わかる。50戸という戸単位の人口把握、検地による土地調査、それをふまえた古墳時代的、部民制的なものから、班田収授制に近い公地の再分配をやっているということですよね。それについて文献史側からも認められるのではないか、という発表だった。
◆だが、直線的に発展しない、のちの班田収授とは違う、孝徳朝は浮いている、みたいな結論になってしまうのだ。
◆それに対して反論した。孝徳朝に公田の再分配を、実態追認の面があるにしてもやっていることをチャンと評価すべき。それについて、日本がめざした人員の増減に応じて再分配を繰り返す班田収授までは、すぐにはいかないのは当たり前なのである。670年庚午年籍ができて初めて条件が整う、そして条里地割については、オレは683年頃の「五十戸」から「里」への表記変更はこの時点で領域的編制ができたことによると考えており、それを待って持統朝に班田収授が始まるというのは、順調、スムーズ、だと考えているわけです。なぜ、孝徳朝を浮いたものとして特異な時代として孤立させなければならないのかが、まったくわからんわけです。孝徳朝にほぼ構想はできあがる。あとは実施に向けての基盤整備、それに40年を費やしている、そんなもんとちゃいますか。後退して、天智朝くらいから再びやり始める、なんて「そんなことあらへん」と思っているわけです。
◆図は『条里制研究』の原稿の最後の結論図として作り始めているものです。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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