人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
聖俗二重王制論への疑義
◆中司さんの『つどい』の記事を読む。なるほどな~と。
◆石山古墳のあるヒジキ盆地にかかわることとして、『令集解』に、伊賀比自支和気の娘が垂仁天皇の皇子である円目王の妃になったという伝承が記録されているんだとか。石山古墳中央槨が比自支和気、西槨はその娘とみる。
◆島の山古墳(旧称:島根山)についても、どんぴしゃの伝承が残る。『古事記』では、嶋垂根の娘である糸井比メが応神の妃になったとする。近傍に糸井神社があるという。後円部被葬者は島垂根で、前方部は糸井比メではないか(これ田中卓の説だそうです)。糸井比メが生んだのが速総別命で、妻の女鳥王とともに王位を望んだとして討伐されるが、話は島の山前方部の手玉におよぶ。
◆こういう話は好きである。ここで人種が分かれるんだろうが。オレは記紀に書き込まれたことを、ダメなものは落としつつ、読み取るべきことを読み取るべし、史実も含まれるし、参考になるものも多かろうという立場。で、要するに聖俗二重王制とか、ヒコヒメ制とか、オレの政祭分権王制とか、そういうことについての、ベースの議論を再度点検する必要がある。つまり、被葬者間はほんとにキョウダイといえるのか、首長とその子らという、ひとむかし前の漠然とした理解が完全に否定されるものなのか、ということと、そういう分掌体制なのか、ということ。
◆石山と島の山、垂仁とか応神とかいう議論とも、たぶん年代的にもぴったりですよね。場所もほかには考えがたい。石山古墳や島の山古墳が造られた背景として、特定の豪族と結びつき、そこの娘が妃となるといったことは当然考えられる。そうすると、王権支援のもとで大きな古墳が造られ、また基本的には夫婦合葬でない時代で、死没すれば帰葬されると考えられているところであるし、そういう被葬者の構成は十分に考え得る。一方で、そういう複数埋葬を考える前提として、田中良之の歯冠計測がキョウダイと結論づけたが、地域的にも階層的にも、それを石山や島の山にあてはめられるのかという問題もある。一方で、複数埋葬例の副葬品の相違から、分掌みたいなことが言われてきたわけだが、その解釈として、首長権が執政権と祭祀権に分かれていたとまでみることは危険かもしれない。
◆あるいは近年の説を認めつつ、被葬者像の理解には別物もあるとみるべきか。
◆石山古墳のあるヒジキ盆地にかかわることとして、『令集解』に、伊賀比自支和気の娘が垂仁天皇の皇子である円目王の妃になったという伝承が記録されているんだとか。石山古墳中央槨が比自支和気、西槨はその娘とみる。
◆島の山古墳(旧称:島根山)についても、どんぴしゃの伝承が残る。『古事記』では、嶋垂根の娘である糸井比メが応神の妃になったとする。近傍に糸井神社があるという。後円部被葬者は島垂根で、前方部は糸井比メではないか(これ田中卓の説だそうです)。糸井比メが生んだのが速総別命で、妻の女鳥王とともに王位を望んだとして討伐されるが、話は島の山前方部の手玉におよぶ。
◆こういう話は好きである。ここで人種が分かれるんだろうが。オレは記紀に書き込まれたことを、ダメなものは落としつつ、読み取るべきことを読み取るべし、史実も含まれるし、参考になるものも多かろうという立場。で、要するに聖俗二重王制とか、ヒコヒメ制とか、オレの政祭分権王制とか、そういうことについての、ベースの議論を再度点検する必要がある。つまり、被葬者間はほんとにキョウダイといえるのか、首長とその子らという、ひとむかし前の漠然とした理解が完全に否定されるものなのか、ということと、そういう分掌体制なのか、ということ。
◆石山と島の山、垂仁とか応神とかいう議論とも、たぶん年代的にもぴったりですよね。場所もほかには考えがたい。石山古墳や島の山古墳が造られた背景として、特定の豪族と結びつき、そこの娘が妃となるといったことは当然考えられる。そうすると、王権支援のもとで大きな古墳が造られ、また基本的には夫婦合葬でない時代で、死没すれば帰葬されると考えられているところであるし、そういう被葬者の構成は十分に考え得る。一方で、そういう複数埋葬を考える前提として、田中良之の歯冠計測がキョウダイと結論づけたが、地域的にも階層的にも、それを石山や島の山にあてはめられるのかという問題もある。一方で、複数埋葬例の副葬品の相違から、分掌みたいなことが言われてきたわけだが、その解釈として、首長権が執政権と祭祀権に分かれていたとまでみることは危険かもしれない。
◆あるいは近年の説を認めつつ、被葬者像の理解には別物もあるとみるべきか。
大歴の委員会2012年10月29日
◆月曜日は定例の委員会で梅田へ。だいたい、当日は資料作りに追われる。が、わりあいすんなりと。月曜日はバイトの日で、玉3の作業が進む。
◆一方、大阪府の鏡集成をリスタートさせるべく、ちょっと思い出す作業をしている。まだ撮影していない鏡の撮影を組まなきゃいけない。画像処理は200面+αのいままでのものは、この日、ほぼ完了する。津堂城山はじめ、未調査の新素材がないと作業は進まない。編集は、一度、下垣さんに配列を点検してもらい、それをもとに修正をかけたところでストップしている。なんとか年内に入稿したいもの。
◆谷首と松岳山のリーフレットのアラアラもできているが、そこでストップしている。谷首については、一般的な側面図や奧壁図では面白くないので、斜めの陰影図を作成してもらい新機軸を打ち出そうと考えており、どういう方向から見た画像を作るか決めて発注せなあかんな~、というところでストップしていたが、再始動。
◆というやりたいことはあるが、今日、火曜日はそういうのはやめて、そのためにあらゆる雑用を片付けよう。学園祭に入る週、そして今日は金曜日の授業の振り替え日なので、本来なら火曜日は2コマ講義があるのだがオールフリー。今週はかせぎどき!。
◆一方、大阪府の鏡集成をリスタートさせるべく、ちょっと思い出す作業をしている。まだ撮影していない鏡の撮影を組まなきゃいけない。画像処理は200面+αのいままでのものは、この日、ほぼ完了する。津堂城山はじめ、未調査の新素材がないと作業は進まない。編集は、一度、下垣さんに配列を点検してもらい、それをもとに修正をかけたところでストップしている。なんとか年内に入稿したいもの。
◆谷首と松岳山のリーフレットのアラアラもできているが、そこでストップしている。谷首については、一般的な側面図や奧壁図では面白くないので、斜めの陰影図を作成してもらい新機軸を打ち出そうと考えており、どういう方向から見た画像を作るか決めて発注せなあかんな~、というところでストップしていたが、再始動。
◆というやりたいことはあるが、今日、火曜日はそういうのはやめて、そのためにあらゆる雑用を片付けよう。学園祭に入る週、そして今日は金曜日の授業の振り替え日なので、本来なら火曜日は2コマ講義があるのだがオールフリー。今週はかせぎどき!。
陵墓の勉強会
◆結局、28日は午前で失礼させてもらい、京都に向かう。陵墓の勉強会は駅前のキャンパスプラザで1330スタート、なんとか14時には到着し、1730まで、ほぼ参加することができた。懇親会に誘われるが、金曜日も土曜日も遅く、眠くて仕方がなく、失礼する。近鉄特急に乗り、八木から国分に戻る。この日、オレがある文章の原案を作ることになったため、車中でだいたい書く。でもこの文章、実は7月の宮内庁懇談会のあと、1回書いている。月曜日、前に書いたものをみると、まあ、ほとんど変わりない。
◆そんなんで両立できたのでよかったのだが、まあしんどい。でも1930頃には自宅に帰り着いたので、清盛を見たが(保元の乱くらいから見ています)、そのまま眠りに落ち、イサンは見逃す。
◆そんなんで両立できたのでよかったのだが、まあしんどい。でも1930頃には自宅に帰り着いたので、清盛を見たが(保元の乱くらいから見ています)、そのまま眠りに落ち、イサンは見逃す。
作山を忘れていました
◆作山、やっぱり仲津山でしょうね。大仙まではいかない。で290mで同型同大。同型というには異議があろう。もうちっと
詰める。が、結局のトコロ、枠はそうでも、立地で大きく異なる。作山は丘陵側に前方部を置くので(仲津山も同じだが程度がだいぶ違う)、前方部下段・中段・上段の割り付けも変わっくる。上は後円部あわせ、下は前方部あわせ。相似墳なんて適当なんもや、と言われればそれまでだが、そうではない。そういうのが実態なのである。で大元の型はあるわけで、それに現場あわせのなかで、個々ができあがるわけだ。
◆結論として、前方部上段はそれでも発達しているので、仲津山を基本に、やや時間が進んでいるとはいえるかもしれないが、基本は、仲津山の被葬者であるオオササギの王墓をもとに造営されたものでかまわない。オオササギが427年に死んでも、作山の被葬者が450年まで生きたって、なんの問題もない。
◆結論として、前方部上段はそれでも発達しているので、仲津山を基本に、やや時間が進んでいるとはいえるかもしれないが、基本は、仲津山の被葬者であるオオササギの王墓をもとに造営されたものでかまわない。オオササギが427年に死んでも、作山の被葬者が450年まで生きたって、なんの問題もない。
日曜日の研究会
◆9時から研究報告3本。ひとつだけコメント。伽耶系と思われる石室が瀬戸内に点々とあると。が、渡来人ということを決めるのは難しいんだろう。天狗山や勝負砂レベルの調査を、ほかがやっているわけではないだろう。が、石室が深く、墳丘後行型で、一次墳丘を入念に仕上げ、そして日本的なる古墳に最終に仕上げていると。石室のみならず、造り方までそうかどうかという点はどうなのか、ということ。時間がなくなり質問できなかったが、ひとつ聞いておこうと思ったのは、その点である。
◆400年よりあとの金官国とは何なのか、どう理解されているのか、というのを、高田氏のレジュメを帰りの新幹線で読み、勉強になった。福泉洞をどう理解するのか、ということだ。
◆400年よりあとの金官国とは何なのか、どう理解されているのか、というのを、高田氏のレジュメを帰りの新幹線で読み、勉強になった。福泉洞をどう理解するのか、ということだ。
タテツキを最後に岡山市内で懇親会
◆楯築。5月以来。で、現場で問いかけてみる。あんたはいつの墓なの?、と。138年です、と答えてくれればいいのです
けど。
◆1830から懇親会。京都府大の井上氏としゃべる。姫路の奧の神崎の人だそうです。杉
井君とも久しぶりに呑んで話す。雪野山の時、けっこうオレが影響を与えたみたい。こっちとしては、石室に入りたいので、猛烈なスピードで石室上面の石を実測したということなんですけどね。杉井君も石室に入り、漆膜と出会うことになる。
◆2次会、なんにも覚えていないが、杉ちゃんと話をしたのはこの時か?。でみんな解散したが、澤田さんにもう1軒と言われ、まずチェックインしてから、また出て、なにやらコジャレタ店に行き、2杯ほど呑んで、ホテルに戻る。2時前くらい?
◆1830から懇親会。京都府大の井上氏としゃべる。姫路の奧の神崎の人だそうです。杉
◆2次会、なんにも覚えていないが、杉ちゃんと話をしたのはこの時か?。でみんな解散したが、澤田さんにもう1軒と言われ、まずチェックインしてから、また出て、なにやらコジャレタ店に行き、2杯ほど呑んで、ホテルに戻る。2時前くらい?
箭田大塚YataBigMound
◆2回目だがでかい。この間の、こっちの横穴式石室を見る目も多少は進化しているので、いろいろと面白かった。まず、
入口を見て、羨道は広いなと。それから、羨道の石積みのもっとも入り口に近いところは、地山が一段高く、その上から壁体がある。これなんぞ、階段なんだろうなと。文殊院西とか、クサ墓もそうだったっけか。こういうの、もともとでいいのではないかと思うが、そういうものがどこまでさかのぼるかが問題でしょうね。600年くらいの古墳で、既にそうなっているのではないだろうか。それと、玄門からの羨道天井石が3石あって、それより入口では天井石がない(失われている?、どっち?)のだが、壁体(石は小さい)の石が天井石の下面を超えており、段差があった可能性がある。これなんぞは、石舞台や岩屋山と同じなんだろう。
◆なかなかイオスキッスではピントがあわず、イクシーで撮る。このへんは、バカチョンの方がよく撮れたりする。
◆墳丘にまわり、これは前方後円墳ではないのか、という意見が出る。そう、かもしれない、くらいにしておこう。円墳としたときに、造出状の張り出しがあるとされているのが変、かつ見かけの裾部の高さがかなり異なる。旧地形を考え、どのように尾根を切り離しているかを考え、改変のあり方を検討しなかればなりませんね。
◆なかなかイオスキッスではピントがあわず、イクシーで撮る。このへんは、バカチョンの方がよく撮れたりする。
◆墳丘にまわり、これは前方後円墳ではないのか、という意見が出る。そう、かもしれない、くらいにしておこう。円墳としたときに、造出状の張り出しがあるとされているのが変、かつ見かけの裾部の高さがかなり異なる。旧地形を考え、どのように尾根を切り離しているかを考え、改変のあり方を検討しなかればなりませんね。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。