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人を幸せにする人になろう

まあそんなところで

◆5日には出勤し、1日、できるだけの仕事をして、土日はまた実家に戻り、家の模様替えを開始しました。そして本日8日(月)の祝日、職場で仕事をしております。優先順位を考え、できるだけコンパクトに仕事をしていく必要があります。
◆年末には、北海道大学の総合博物館を見学し、また小樽の町あるきをしていましたが、また機会をみつけてブログに書くことにします。
◆今日やろうと思っていた、あれとこれは、なんとか家でやっつけるかな。明日、娘が北海道に戻るので、今日はこのへんで帰るとしよう。
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2018年となりました

◆みなさま、いかがお過ごしでしょうか。当方は、毎年のことですが、カミさんの実家、自分の親 元に、それぞれ同じように戻り、過ごしました。長男・長女は、それぞれ修論と卒論ですが、帰ってきて、4人で移動しました。右は、初詣に生石神社に行った時のもの(山に上がる前に久しぶりに石宝殿を一周しましたが、その時は写真を撮っていなかったので、上からの画像だけの合成です)。
◆一方、今年は例年と違うことが生じました。さいわい両方の両親ともまだ健在ですが、わたしの母が昨年末に要介護認定を受け、介護サービス計画を立てないといけません。通知が年末のことだったのでこれからですが、ケアマネージャーとまず相談する必要があります。正月に帰った時にその相談をということだったのですが、年明けに今度は父が、いまのところ症状は軽いのですが脳梗塞であることが判明しました。詳しいことは控えますが、昨日4日は、朝から病院に行き、別の病院での検査をするよう紹介していただき、すぐそちらでMRI検査をしたところ判明し、即入院となりました。いまのところ10日ほどの入院が必要ということですが、治療と精密な検査ということになりました。
◆3日には、姉夫婦・妹夫婦ともども、実家の、手すりや、石油ストーブをやめるとか、IHにするとか、基本的に1階で暮らせるようにすることなど、必要な対応を相談していたところでした。大掛かりなリフォームはしないつもりですが、一定の工事も必要になると思います。一度にはいきませんが、急ぐものは急ぎ、全体として3月までくらいにはやってしまいたいと思います。
◆自分の親が85歳と80歳であることを、思い知ることになりました。姉が近くにおり、日常的に様子を見てくれており、妹もよく帰ってきてくれているようで、それに比べ自分はなるべく帰るようにとは思ってはいるものの、月1回も帰れておりません。が、いよいよ、そうもいきません。そういう次第で、これからは常に「帰れる時は帰る」というようにしていかなければなりません。

研究ノート

◆Yさんは、7世紀後半に現れる「常布」をはじめとする布の規格を検討し、そのなかで「1ヒロ(尋)=1.8m」との見方を導いている。しかし考古学の側では、「1ヒロ(尋)=1.5m」と考えてきた。
◆大宝令で、唐(大)尺による長1丈3尺(3.85m)×幅2尺4寸(71.3㎝)の布を1常とする「常布」が現れる。貨幣的な役割を果たす基本規格という。こうした役割を果たす近似した大きさの布はそれ以前からあり、それが「常布」へ継承されるとみられている。改進詔第1条段階では、常布につながる布の規格は、長1丈2尺×幅2尺5寸であった。
◆Yさんの1ヒロ(尋)の長さに関する議論は、改進詔に見える長1丈2尺×幅2尺5寸であるが、改新時の尺度は自明でなく実長は不明で、それを旧俗改廃の詔に現れる2ヒロ(尋)布と実態は同じと考え、これにより「1丈2尺布」の成立を説明しようとするものである(改新詔の尺は唐(大)尺とみて実長を考えて問題ないと思うが・・・、それは措く)。
 (Ⅰ)改新詔1丈2尺布=布2ヒロ(尋)布と考える。
 (Ⅱ)2ヒロ(尋)の単位尺は高麗尺(35.5㎝)と考えられる。
 (Ⅲ)1ヒロ(尋)は手を広げた程度の長さであるから5高麗尺(1.775m)とみるのが妥当で、
   5高麗尺は6唐大尺でもあるから、
   2ヒロ(尋)=10高麗尺=12唐大尺(=3.55m)となる。
◆結論としては、貨幣的に流通していた7世紀前半までの2ヒロ(尋)(推定約3.5m)という規格の布が、改新詔において唐大尺に換算され1丈2尺と書かれた、というもの。
◆しかし、(Ⅰ)改新詔1丈2尺布=布2ヒロ(尋)布というのは、同一実態で「近代的な」唐尺で表記したものという理解はひとつの見方であるが、断定はできない。(Ⅱ)2ヒロ(尋)の単位尺を高麗尺(35.5㎝)と考えているが、これは誤りである。
◆筆者の結論は、1ヒロ(尋)は南朝尺の6尺1歩の歩数と同じであり、1ヒロ(尋)=1.5mである(これは別に論証するとして)。改新詔には布幅として唐大尺2.5尺が現れるが、これは南朝尺の3尺である(布幅に変化はないだろう)。したがって、7世紀前半に貨幣的に扱われた2ヒロ(尋)布は、5世紀以来の南朝尺による「長12尺(3m)×幅3尺(75㎝)」という規格。7世紀前半に導入される唐尺でいえば長10尺×幅2.5尺。これが改新詔を出す前。
◆以上のことが妥当とすると、改新詔の新税制の制度設計において、基準となる布の長さを約3mから約3.5mに1.2倍にした、と考えられる。

陵墓の仕事があった・・・

◆堺市博は、百舌鳥古墳群以降のところも展示替えされていました。道すがら、看板なども新しく なっており、「仁徳天皇量古墳」と。

富雄丸山

◆で、12月22日、佐紀陵山へ行く前に、日本一の大円墳、富雄丸山に初めて行きました。フェンス で囲われ、門扉には鍵がかかり、立ち入れないようになっていました。昔の報告では造り出し付円墳の可能性が示唆されていたように思います。
◆で、城陽に向かう間に院生1人と話をしていて、帆立貝形古墳と造り出し付き円墳の出現時期とか差について話をしていました。その区別論はもういい。帆立貝形は、既に別の墳形として考えるべしとの結論が出ていると思うが、規制された前方後円墳で、第2の前方後円墳みたいなもんなわけです。で、イメージは大仙以降とちゃうか。それ以前は、陪塚をはじめとする方墳。そして造り出し付き円墳か、と。例えば、播磨、中期中葉以降、前方後円墳がなくなって、多くの「円」が出てくるが、それは帆立貝なのか、造り出し付き円墳なのか。2者があったとして、その被葬者はどうちゃうのか。とても面白いテーマですね。ひとまずそれを区分し、時間軸でならべていったらどうなるのか、あれはこうでこれはこう、なんて答えは簡単でないにせよ、差を明確にする意味はあるだろうと思う。大仙ちゃうか、というのは、允恭段階で大幅に前方後円墳を規制するが、そこは新たに帆立貝形古墳を創出して、新たな格付けを生み出したのではないか、といったことが推測される。これ、卒論のいいテーマでは?。なんとかさんにピッタリでは。と。

12月22日は

◆佐紀陵山へ行きました。5分で終了。そのあと、城陽市に行き、残り4箱になっていたものの処理 をする。整理事務所で、円筒埴輪の接合をかなり進めていただいておりました。
◆で、埴輪のフォトスキャンをやったろうと、撮ったんですが、失敗・・・。根本的な失敗を犯した。できあがった3Dを見ればわかりますよね。外面がない・・・。理由はすぐわかった。撮った画像でリカバーはできるんですが・・・。

広瀬隆『日本近現代史入門』

◆一気に一読しました。これ、親類縁者一堂に配ったろか。是非、みなさんにも読んでいただきた い。
◆例えば、戦争をすると、勝たなくてよかったわけだが、要するに勝つためにはどうすればいいか、と考えないわけです。脳みそが多いほうがいいに決まっている。陸軍本省の作戦課とか、実際に現場にいる軍の作戦立案というのが、きわめて限られた人間により、合理的な判断がなされることはない。開戦ももちろんそう。勝てっこないのに、軟弱と言われるから、裏で言っていても、決定する重要な会議で発言しないとか。そこはむろん、反対しにくい状況はあるだろうが、そもそもそういう点も含め、大勢の頭を使い戦略を練り、といったいわば民主的な共同作業を進める、という素地がないわけです。
◆ついつい発言しましたが、是非、一読ください。で、上のこと、原子力発電をやめる、という今のご時世もまったく同じなわけです。これは自分を含めた現在のわれわれの課題。まったく変わらないまま、次のメルトダウンが起こるのとちゃいますか。福島にあといくらかかるのか、廃炉にいくらかかるのか、何にも試算していないわけです。リニアなんて、電気を食うだけ・・・。大阪はIR・・・。
◆右画像は、前に家にある昭和史の本から、できごとを書き上げていたもの。

スロベニア

◆1年先に、スロベニアを訪れることになりそう。なので、それってどこ?、と調べてみました。
◆久津川の仕事をなんとかこなした。えと、次は・・・
◆明日から北海道に行く予定なんです・・・。なかなか身をきれいにして出かける、というわけにはいかないが。が、この天候、飛行機が飛ばないかも・・・。それはそれで、やることをやる時間ができるわけだが・・・。修論1本と卒論1本に、北海道で目を通すつもりではあるが・・・。思えば、昨年はペルーに行ったのだった。
◆年明けはいつも調子が悪いので、今年はダッシュできるよう、心の準備と実際の準備をしておこう。1月4日は朝から働くぞ。FM城が待っている。
◆2017年は、ここまでのところ、大きなポカなく、こなしてきている、と思う。なんといってもFM城!。こう言い聞かせていないと・・・。

なんとか溜まったメールは見て・・・

◆これからは少し時間のかかるものを。
◆24日は堺市博へ行ってきました(娘の誕生日です。23歳)。《泉北丘陵》を見ました。22日に、大阪南部窯跡群のことについての抜き刷りをもらっていたので、須恵器用の調査カードについて、感慨深く見ておりました。要するに、落下傘部隊で、小林行雄や田辺昭三が乗り込んできて、地元で地道に分布調査をやっていた者、携わっていた高校生たちの気持ちなど、お構いなしで、仁義を切ることもやっていない、というもの。むろん、とんでもない大規模な開発で、特別チームを編成してあたらなければやれない、ということも重々承知の上での発言です。反面教師として・・・。
◆なので、これからは陶邑とは言わんとこかな(むろんこれは学術的な意味もありますよ。陶邑というのは、いまいっている全域でなく、特定の範囲とみるべきだという。)。この1960年代の調査については、I先生からも何度か聞くことがあった。造成が始まって、窯跡が検出され、明日はこれとこれ、と調査予定に入れて、翌日行って見ると、ブルドーザーがすっかり壊している、という話。散乱する須恵器を採集。なので、なんとか〇号窯という一括資料のなかには怪しいものがいっぱいなんだとか。こういうことは、既に書かれていることなのかもしれません。しかし、過去は取り返せないわけだが、大阪府が自前で調査するようになる以前の、あの調査は、どのように対応が決められ、どのように分担され、実態はどうであったのか、学術報告とは別に、ちゃんとまとめておく必要があるのではないか。もう関係者も少なくなっている・・・

いつもありがとうございます

◆U市のSさんの講演。Uなんとかが世界遺産になり、バッファゾーンを設けても、そのすぐ外に15階建てのマンションを建設する計画を止めることはできない。ローマやアテネも、文化財は都市計画部局である、と。文化財保護はまちづくりそのものなんだ、と。U市の都市景観も、都市計画部局と連携し、広い規制をかける景観条例を定めないと、虫食いで取り返しのつかないことになる。文化財保護法にもとづき、指定物件を守っているだけでは、地域の人々が大事にしたいことが守れません!、と。

◆地方文化財行政に関する特別部会(第2回) 配付資料
http://melmaga.mext.go.jp/c/3OR01PX004a3

◆中央教育審議会(第114回) 
1.日時
平成29年12月22日(金曜日)15時00分~16時30分
2.場所
文部科学省「第一講堂」(東館3階)
3.議題
1.新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校に
おける働き方改革に関する総合的な方策について(中間まとめ)
2.地方文化財行政の在り方について(特別部会まとめ)
3.その他
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/gijiroku/1399722.htm

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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