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人を幸せにする人になろう

2016年8月19日(金曜日)久津川車塚

◆第3週の終わり。この間、5日×3週、始終晴であった。どえりゃあ、疲れた1日であった。まあ、心地よい疲れともいえるが、とにかく暑かった。汗がボタボタと葺石に落ちる・・・。参加。自分。長友。道上・阿部・伊藤(市大)、コンマ1・安藤・木下(立命)、泉(奈良大)。
◆朝、葺石部分のシートをぜんぶめくり、最初は墳裾部に道上・木下を配置し、残りで午 後のレーザースキャン用の掃除にかかるも、間に合わないとみて、2人も上に。結局、谷筋の大型列石の上に乗る拳大の礫も改めて見ると、流土がはさまり、それ以外にも造り出し北斜面のある部分では転石が取り切れていないと思われる箇所もあり、その辺もすべて道上・木下が措置してくれる。終わらせた上半部も、シートをめくって見ると、目地出しの甘いところも多々あり、午後の計測まで全力で土をほじる。今日はテントを立てての作業とはいかず、フルオープンで直射日光を浴び、集塵機を駆使しつつ、ほじり、吸い、ほじり、吸い、をくりかえすと、汗が吹き出す。
◆計測は13時を過ぎるという話だったので、昼休みを早めに切り上げ、12:40開始、 13:30までは全力で清掃とする。実際は12:30過ぎには業者も到着していた。準備もあるので、13:30まで掃除すると宣言して予定通り進め、現場を明け渡す。
◆13:30から昼休みの残りを取り、14時から下段テラス削平面の削りにかかる。最初に葺石のいちばん高いところに手をつけ、落下して後円部斜面の地山出しをする際に、肩部も削り、すぐ地山であることは確認済み。全員が西端のへりから墳丘内部側へガリかけに従事する。一部地山が下がりババ土の厚いところを、市大の2人でミニヅルで削り、けっこうな土量を出した。竹の根もやっつけて。30 分もやるとヘロヘロでアイスタイム。第4Qが長かったが、ほぼ16:30で全面をやっつける。遺構なし。レーザー計測終了後、囲形埴輪などの埴輪密集部についてフォトスキャン用の写真撮影を行う。
◆シート養生をして、大久保湯。みなパンツは汗ぐっしょり、でした。記録97.2㎏(0.097t)。土日の2日、体を休めてください。また、来週。

1/50略図と明日19日

◆です。上半分はきれいにしてシートをかけたままなので、列石などは記入できていません が。
◆19日は、石の範囲のシートを開け、下段テラス面のシートも開ける。墳裾部の追求の続きに必要な人数を置き、あとは、葺石面の汚いところから時間の限り清掃する。いちおうの目標は10:30まで。そのあとはフォトスキャン用の写真撮影。午後はレーザー計測。この間、下段テラス面の精査。とはいえ削れば地山。ほぼ造り出し上面まで削平されているので、下段テラス面との間の小段も基本的に消えているので、テラスの埴輪はないと考えられるが、削平された面での遺構検出ということになる。

2016年8月18日(木曜日)久津川車塚

◆この日、大歴のことが心配になり、あちこち連絡。8月号の発送の準備を進めていてくれていることが確認できた。あとはレーザー計測のことを考えていた。タイミング的にはいますこし後の方がいいようにも思うが、計測後の1/10図作成用の加工の時間も必要であるし、埴輪の密集部と墳裾が決着していないが、それでも9割方は葺石を出しており、これで計測してしまえと。葺石の最終的な仕上がりが現時点と異なる部分が出てくること、葺石外の調査区全体の、最終掘り上がり状態の計測と、2度手間になるが、それもしゃーない、と。フォトスキャンでやる心づもりではあったが、画像作成、座標の割り付け、etcを考えると、はじめてのことでやりきれるかどうかの不安があり、フォトスキャンもやるが、レーザーと両方で準備しようとしています。
◆城陽市担当者。自分。道上・阿部・伊藤(市大)、コンマ1・吉村・安藤・木下・日下(立命)、泉(奈良大)。
◆1/50略図に、昨日17日の認識含めの書き足し。石の目地をほじくるのと、道上・伊藤・コンマ1・木下で、墳裾部の追求。この日、体もだるく、暑くて頭もまわらず・・・。で最後のところで、墳端外の石敷きといっているところについて、調査区西端から黄色砂質土の地山面を出しながら、西側ほど遊離している残してきた石たちについて検討し、地山に接することなく、濠内堆積の淡紫灰色の上に底部がある石たちを一定はずしていく。写真右は、石をはずし地山を出している状況。左は今日の最終時点での掘り上がり、です。
◆昨年の西斜面と同じく迷います。西斜面では基底石が明瞭でなく、墳端外の石敷きを意 識していなかったので、同じように西から石をはずしていき、切れ目もないので、そのまま東に進み、はずした石の下で黄色の地山が立ち上がり、1石か2石ははずしすぎた、ということになる。そのあと南斜面で、これはずずせないでしょという石敷きが、こっちは基底石がまあ追いかけられる、その外側にぎっちりとあった。石敷きがあると考えなくてはならないということになる。やはり南側で、地山を出しつつ、ちぎれた石をいくらか外していき、密につながって検出されている石敷きは、これは本来のものと判断して残し、図化したわけだ。
◆さて、今回のくびれ部、どういうことになるか、学生等はまっとうに土を見て考え判断してくれており、ひとまずこのまま冷静に慎重にいますこし進めていくほかない。やれることはやる。地山もゆるゆる上がってきている。個々の石がそこにどうからむか、地山に接している/据わっているものは残す、といった判断で進めるほかはない。一方で、が、決められない、ということもあるだろう。ほっといたら取れていく、取る方がすっきりする。しかし生きているかもという見方も常にもち、取れるとみるには怪しいものは残すという処置も必要だろう。記録を取り、最終盤で必要なら場所を選び、基底石、その外の石、堆積土の入り方を観察するサブトレを抜いて追求しておく。そういう姿勢でおりましょう。

2016年8月17日(水)久津川車塚

◆1日、日誌を書くのが遅れると、もうわかりませんが・・・。前日16日、風呂に向かうと豪雨。風呂屋に着いてから玄関先まで行くのも車から出たくないほどの雨でした。学生等を宿舎に送って京奈和で南に下っている時も豪雨。夜もけっこう降っていたようです。という次第で、調査開始後、はじめてのまとまった雨となり、この日17日は、排水から始まりました。とはいえ、工藤さんが早めにポンプを動かしてくれ、9時時点ではほぼほぼ水は抜けていました。
◆城陽市担当者。自分。長友。道上・阿部(市大)、大澤・園原・吉村・安藤・木下・森・ 水谷・西田(立命)、泉・田口(奈良大)。
◆作業内容は、造り出し北斜面の葺き石面検出のほか、石の目地ほほじることと、墳端の追求などを行った。写真右が造り出し北辺で、左が後円部側斜面です。+ミッチーが造り出し稜線付近の地山出しのダメ押しをやったのも、この日だったと思う。
◆墳端については、後円部側裾線を追求。こっちも基底石が明確にならぶというわけではなく、抜け?て、上からの小さい石が落ち込んでいるのかと思われる箇所もあるものの、ある程度、それらしく並んでくるものを拾うことができる。一方で、造り出し北辺はどうにもよくわからなかったが、一応、辺として通ると見てもよいか、と思われる並びがあり(写真下右)、その外をほじくる。一応、17日の終了時点では、一定合意のえられる推定ラインを考 えた(写真下左)。 ただし、黄色のところはちょっとね~(これ18日の見直し) 。
◆墳端外の石敷きは、石のないところの濠内堆積から、かなり取れるとの見方も示された。なかなかギチギチに噛んでいるところはそうも考えにくい面もあるが、ありうる。密に詰まっているところから、そこからは遊離した石群もあり、石のないところの土を下げ、そのちぎれ具合などからも判断していこう、と。はずすのが恐ければ、記録を取った上で、一部はずすなどしてシロクロをつける必要があるのでは、とも。
◆この日、1/50略図に、列石等、これまでに検出してきた葺石の略図を記入した。終了時点の全景も挙げておきます。葺石は、ひととおり検出し終えたかな、あとは清掃、というところにこぎ着けた感あり。
◆この日、帰る途中、レーザー計測の第1弾の打診をする。

フォトスキャンで

◆昨日17日は、おとなしく家に帰り、心の診療所に行ったもので、そのまま寝てしまいまし た。15日に調査区上半部について、フォトスキャン用に撮影してもらったものの、低解像度の画像です。高解像度の合成には数時間を要したよう。9点ほど座標点を与えたが、本日、木曜日の午前までには、座標を切るところまでは行かなかったようです。
◆このへんの話はまたします。

2016年8月16日(第3週火曜日)

◆曇り。自分。長友。道上・阿部(市大)、大澤・安藤・木下・森・水谷(立命)、泉・田 口(奈良大)。
◆朝、車の中で、中段テラス面の調査のことを考えていた。本日1日、いろいろ考えてはみたが、やはり無理しないのがよいかも、と(理由は最後に)。
◆木下が谷筋を下るも、両サイドが間に合っていないので、昨日ほぼ西端までたどりついたので、谷筋下半部で出てきた列石両サイドに人を配置する。長友さん、澤は、木下とともに裾部沿いの石出し(扇風機倒れ、破損。おNEWとなる)。泉・森・水谷は上の目地だし。自分と安藤・田口で後円部斜面、道上・阿部で造り出し北斜面(写真1)。転落石との判断は慎重にとも思っていたが、谷筋列石でメドが立っており、その両 サイドでしっかりかみ合った葺石面が問題なく出てくる。転落石上面で止めていた両サイドの高まりも、浮き具合や埴輪の入り、葺石面が見えてくるとその面を参考に、あまり悩むことなくはずせる。
◆後円部斜面については(写真2)、左側では2重に見える列石があり(その東(左)側も大型の石)、列石を境に西(右)側では拳大の礫となる。その西では石が再び大きくなり、後円部の円弧にあわせた放射状の列石かと思われるものを確認した。
◆造り出し北斜面でも、後円部斜面に比べて、ややランダムな感はあるが、葺石面が検出されてきた(写真3)(人手の関係で、途中に下げ切れていない高まりが残っているので、明日、そこを やっつける必要がある)。
◆谷筋を中心に転落した埴輪片がかなり出土。囲形埴輪よりもだいぶ下った位置で、破片もそう大きくなく、立っていたものが倒れたのでなく、上からのものと判断される。コンテナ1箱程度。網代の破片もあり、囲いにやはり家がともなうと思われる。
◆谷筋部では、昼頃か、列石が途切れた。大石があり、その下に立てたような石の押さえがくる。ほぼくびれ部の位置とみてよいだろう。造り出し北辺裾かとも考えていた東西に横置きされた2石の位置とも見合うところである。問題は、そこから両側へ、つまり後円部裾と造り出し北辺の基底石のならびが、現時点では明瞭でないことである。後円部側は、それなりに大きい石が円弧を描いて伸びているようにも見え、その推定で大 きく間違いはないだろう。が、造り出しの開始地点、また北辺列は、現時点ではなんともいえない。先に書いた東西方向の2石は調査区にほぼ平行するが、もう少し偏した石の並びがあるようにも思うし、さらに葺石の傾斜からすると、さらに振ったラインがあるようにも見える(写真4)。
◆そして基底石が不明瞭な問題とかかわり、墳端外の石敷きの理解がある。昨日?やってきた感じでは、浮いている石はあるとしても、とくに南半では、多くはかなりかみ合ったようにキチキチに検出され、これははずせないだろうと考えた。その石も小さくなく、そうすることで基底石の下半部が隠され、基底石の並びが明瞭に見えないということもあるのだろう。一方で「はずれないか」との見方もある。また、昨年の西斜面では、基底石は 明瞭でなく、傾斜が水平に移行しつつ一続きのようになっていた。丁寧に基底石かもという石の下をさぐり、また石敷きの石をほじり、埴輪のカミ具合などから、慎重に考えていく必要がある。石が淡紫灰色の堆積土に埋もれていても、底面が地山に接していれば、それは問題ないわけだが、本日、石敷石かと思われるものが抜けている箇所の断面観察では、少なくともそこに接する部位では、いま残している石は浮くように見える。悩ましいところである。本日の終了後の写真を最後に示しておく(写真5)。
◆最後に、大学に戻り、ノートにアラアラ落とした調査区図を、(座標値は控えてあるので)改めて1/50の略図に作成し、昨年の調査区と重ねてみた。5月8日に今年の調査区の案を示した。むろんそこでは、造り出しがどこまで北にのびるか、後円部径の推定復元径、誉田御廟山などを参考に、一応の推定をして、それが収まるように設定したわけです。が、今の南壁は当初案よりかなり北に位置していることが判明した。造り出し西北隅角は入っていない?。反省・・・。どうもならないが、大げさなことはできないものの、少しほじくることは考えなければならないだろう。いずいれにしても、今の調査区で北辺を確認するのが先決です。

2016年8月15日(月)敗戦の日

◆くもり。前日の雨で水が斜面を流れ調査区西端には泥。自分。長友。道上・阿部(市大)、大澤・安藤・木下+3回生3人(立命)、泉・田口(奈良大)、相馬(近大)。アラアラ班・目地班・谷筋班の3つでスタート。
◆アラアラ班は、ひたすら調査区西端をめざすチーム(道上・阿部・大澤・田口・相馬)。 写真上左は、第1Q終了後の11時頃。写真中央部に、縦に置かれた石が2ヶ。もしかして造り出し北辺裾部か、と。写真上右は、第2Q終了後のお昼の写真。さきほどの大きい石が一定集中するとともに、それより下方では、ほぼ密に石がかみあって石敷状に次々に現れてきた。こいつら生きてるよな。そしてその下の写真は第4Q途中の15時40頃。石敷石が続いたあと 、石が途切れてきた。遊離した形の石がとびとびにある。濠底である。で、ほぼアラアラが西端までたどりつく。で、正丁4人で、西端に排水溝の意味を兼ねてサブトレを入れ、濠内堆積の下の地山を10㎝ほど掘り抜くところまで深掘りをしてもらう。で、その断面を見ながら打って返し、地山上面までの削り出しにかかり、本日は終了となる。いや~、1日でたどり着きましたよ。
◆埴輪集中部をやっていたチーム(安藤・木下・泉)の方はよく知らんが、埴輪集中部で見えなくなっていた谷筋列石の続きを確認し、それを出していく。埴輪片が入り、列石両 側には本来の葺石と考えられる原位置の石も確認された。またまた谷筋部を深掘りした形となり、両側にここまで検出してきた石群が高く聳え、やはり転石上面で止めている状況であることがはっきりした。明日、両側の葺石面をちゃんと出していきながら、下がっていけば、くびれ部の姿も拝めるかも知れない。この列石の方向は、調査区のほぼセンターで、金曜日は北にかなり振れるかと心配したが、大丈夫だ。
◆なお、朝から調査区高い側の葺石について、フォトスキャン用の写真撮影を行った。9点のシールを貼った単点を設け座標計測を行った。

こんなものもある

◆兵庫県一宮町の伊和神社に行ったのですが、その前の道の駅で、こんなんを見ました。水タンク があって、ミストが出るようです。

2016年8月12日(金)久津川車塚

◆晴れ。自分。道上・阿部(市大)、大澤・園原・吉村・安藤・木下・3回生もう一人・吉田(立 命)、泉・田口(奈良大)、相馬(近大)。
◆石との戦いを継続。みな手首が痛い。造り出し北斜面は、昨日に続いて斜面下方におよび谷筋部の緩斜面部に達する。後円部斜面は、調査区上方の壁沿いの石を出し、屈曲部におよび、屈曲部から下の緩斜面部に達する。全体としてみれば、斜面部、「囲い」のある緩斜面部と、明瞭に画されるわけではないようではあるが、しかし次々に葺石が積み重なる斜面部から、転石が堆積している緩斜面部に移行してきている。これら転石があるために、より平坦に見えているわけで、これらをはずしていけば、谷筋部の石集積だった、ということになるのかもしれないが。埴輪集中部の上で検出している谷筋列石も、埴輪が途切れたあたりから下で見えてきてはいない。 谷筋ラインは、途中で屈曲するように前は見えたが、そうでもないように思われる。その延長方向はけっこう北壁に近いあたりまで進みそうで、くびれ部が調査区に収まっているか、微妙かもしれない(コンマ1を起用する必要もあるかもしれない)。
◆「囲い」を据えている集中部は、谷筋直交方向に見える石のならびがあり、それと直交するような谷筋平行の造り出し北斜面側の、比較的大きな石の列が認められる。が、後円部斜面側および谷筋下方側ではよくわからない。転石が埴輪を壊し、集中部にいくつか入り込んでいて、こうした石の隙間に埴輪片が入り込んでいる。現状で、「囲い」裾片で、立った状態の原位置と思われるものはない。全体にいま露呈させている埴輪たちは高く、もうひとつ下に、「囲い」を据える平場があり、そこに残る裾部片が出てく るのかもしれない。石や埴輪片を除くと、遺構としてすっきりした空間 が検出されるのかも、そこに原位置埴輪があるのかどうかも、現状では不明。ミーティングでは、いますこし石をはずす精査をして、そこで記録という話になった。早めにやって図面を書いて取り上げて、下に進む必要がある。
◆葺石検出の全体状況を示しておきます。アラアラ出し、上に戻って目地のほじくり、それの繰り返しであるが、調査区の半分近くまでは進んできた。来週もアラアラ出しを進め、くびれ部、造り出し北辺裾ラインを捉えられれば、ほぼゴールが見えてくる。墳端外の石敷きはあるとみるべきで、基底石の外にきっちり残る石敷石と、上からの転石および石敷きでも遊離したもの、これらの峻別が課題となるが、まずは基底ラインの目途が早めに立てば、と思う。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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