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人を幸せにする人になろう

久津川調査区図

◆これまでの図は、機械掘削予定図を上場とし、だいたい予定通り開いていると理解し、そのフレームを もとに埴輪を含む遺構の位置を見た目で書いただけのもの。現地説明会にむけて、きちんとした略図を作成すべく測量をしトレースした。上場もちゃんと測らないといけませんね。上は予定通りと考え、内側を計測しましたが、どうも機械掘削自体が立木との関係その他で必ずしも予定の座標の通りには開いていないことがわかりました。造り出しと前方部の屈曲部も、想定より内側に来たと思っていましたが、そう違っておらず、調査区があまり東に押せなかったようです。ともかくも、造り出し肩部、埴輪列も正確に落ちました。
◆もひとつの目的は、葺石図化時の下図となるオルソー画像を作成するための写真撮影が月曜に予定されており、標定点は国土座標でやるわけだが、葺石の立面図を考えると、造り出しの遺構に即して振った形でアウトプットしてもらう必要があり、何度振るかを決めてやらないといけない、と理由もありまして。
◆が、埴輪も造り出しも、きれいに長方形というわけにはいきません。検出した肩と埴輪列を忠実になぞると、相互に平行しないし、埴輪も台形状になっています。これに加えて、葺石についても、斜面の裾線は必ずしも上面ときれいに平行するとも限りません。遺構に忠実であろうとすると、それぞれの葺石面で決めていくということもありえますが、バラバラでは困る。判断としては、3次元の点群データを取るというのはひとまず横に措き、やはり造り出し上面で振れを決めてやって、それによって北辺・西辺・南辺+前方部の葺石を統一的な遺構座標系で図化するほかありません。とはいえその先です。肩と埴輪列・・・、基本的には埴輪列のならびを参考にしつつ、造り出し肩部の描く平面形を基準にすべきと思います。そこで割り付けていると思うので。埴輪列はそこから内側ナンボという形で割り付けるのでしょう。で、上面の平面形だが、後円部側の北辺はちょっと振れがあり、長辺の2列にもとづき振れを算出しようかと思います。
◆とはいえ疲れたので帰ります。
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久津川車塚9月2日(水曜日)

◆自分、長友、道上、大澤・吉村・木下・安藤 、城陽市担当者
◆引き続き造り出し上面西北区を続ける。土器片がぱらぱらと散っており、フラッグを立てていく と、かなりの数に上る。取り上げのため、調査区脇に杭を打ちマシンを立てる。1日の調査終了時点において土器片を取り上げていくことにしよう(拡大写真も挙げておく)。最初の段階で高杯脚部を取り上げたところは、周辺にも土器片が散っており図化してもらう。
◆自分は埴輪列隅部をやっているが、けっこうガタガタにやられていて、まだ掘り切れない!。まんなかあたりでは、かなり密に礫敷が出ている。北半部は南半のように窪んでおらず、全般的には残りがいいのかもしれない。まあしかし、埴輪まわりの仕上げ、埴輪が抜けているところの抜き穴の掘り上げ、それに接する造り出し上面の精査検出と、埴輪列の遺存状況については勝負はついたが、手間がいくらでもかかる。鰹が1匹。(ちなみに南区の話ですが、取り上げていた埴輪編 のなかに水鳥のくちばしを見つけ、計3点になっている。)
◆大学院入試のため11:30で引き上げる。
◆明日、天気がよいようなら、南区の葺石の仕上げに戻るかな。
本日はお疲れ様でした。
◆以下、ミッチー報告。(1Q)上面の精査。新杭の打設。x:-908.030/y:-255.628/z:  30.490(BS:T2)⇒T3と命名。(2Q)上面の精査続き。鰹木がまとまって2本見つかかり家形埴輪がかたまっている可能性あり。高坏周辺の実測(長友)。(3Q)上面の精査(長友、吉村、安藤)。高坏出土地点から南に約1.5mの地点で小型丸底壺を検出、原位置の可能性あり。土師器片の取り上げ(道上・大澤・木下)(通し番号を付けつつ取り上げ。大きいものは残す)。(4Q)土師器取り上げ継続。終了後、上面精査に戻る。小型丸底壺の実測(長友)。明日は天理大学によるレーダー探査、四條畷市資料館の見学予定。

久津川車塚9月1日(火曜日)

◆自分、長友、道上、大澤・吉村・木下・安藤(NEW)、城陽市担当者 泊4人
◆大澤龍神が活躍し、今週は雨がち。今日も結局は15:45で閉じる。造り出し上面西北区を続ける。前年度調査区との間、南北撹乱溝を越えた東側は追求できていないが、隅を含む埴輪列の状況がだいたい把握できた。ないものはなく抜き穴があり、残っているものは残っている。隅部も抜き穴があって、おそらく埴輪がいたと思うが2本ほどなし。これに続く北辺列は撹乱のため半周以下だが一定追いかけることができるものの途中で途切れる。その先が、南北撹乱溝をはさんで向こう側で、これも撹乱溝にやがて引っかかるが数本分程度は残っているのではないか。
◆埴輪がだいたい出てきて、その周囲を造り出し上面まで検出する。パラパラと土器片が散っている。最初、自分がやっていた西辺の埴輪列外で甕片数点がまとまってでてきて、そのまま上げたが、続きが出てくるにおよび、ポイントを押さえていくことにする。原位 置といえるものはないかもしれない。先の甕片は黄色粘質土中ではある。その下の上面といえるところから出ているものでも、完形品とか、ある程度まとまってその場で割れたと思われるようなものも少ない。多くは遊離品。が、そう遠くないところにあったわけで、出土地点が元の場所を推測する唯一の参考データとなる。→したがって、現位置らしきものは図化するとして、多くの遊離資料についてもXYZ座標を記録して取り上げ、小袋に入れていくことにしたい。ひとまず埴輪片でない土器片とおぼしきものは、その場に残しフラッグを立てることにした。100金で買ったフラッグが10本程度立った。明日からはトータルステーションを朝に立てるようにしたいが、充電器が・・・。
◆で、西辺の埴輪の中からタコ(倒立状態の小壺)が1点出土。確か乙女山で5~6個ほど正位で納めてあったと記憶する。
◆なお、掘り上げてある撹乱溝を観察、どうも北区の埋葬施設はないみたい。さてと、予想のように埋葬施設が縦列でこなかったが、では造り出し南北の意味の差をどう考えるべきか・・・。また掲げている調査区図もアバウトで、現地説明会にむけ略測する必要がある。
◆ちなみに、今後の予定では、来週までに完掘、その次の週から実測にかかり、19日が現説。シルバーウィークで実測完了といきたいもの(が大阪城のボーリングが・・・)。写真撮影を来週末に撮影してしまいたいものだが、上のようにたぶんいかんだろうが、現説前の週にようやく掘り上げでなく、何日か実測できるようにする、というのが現実的か。埋葬施設の部分を掘り上げる予定はないが、縦断畦を残しつつ黄色粘質土を除去し、一部畦に沿って割り、掘形ラインを図化する程度の作業が必要だろう。

久津川車塚8月31日(月曜日)

◆自分、道上、土井、大澤・吉村・木下・安藤、佐々木、城陽市担当者 天気雨・・・
◆第5週に突入しました。南区を片付けてしまいたいところ。テントを張って全員石出しにかかる。上げる土は上げねばならぬ。足下悪く、葺石下部はとくにヌタヌタで、きれいにならないが、目地の土をほじくり、とにかく土をその場その場で上げていく。造り出しの上から3人、前方部裾部を2人、石敷部を2人でかかる。靴はヌタヌタ。作業員2人も、水かえを終わったところで合流。これを午後の第3Qまでやる。
◆ちなみに先週くらいから右膝も痛くなっていたが、両膝にサポーターをして、ずいぶんと楽になった。膝を曲げてしゃがむのがツライのでずっと膝を伸ばして上半身を折って作業をしてきたため、膝裏が伸び痛くなってもいた。今日はしゃがめたが、斜面での作業で1日やっていると、やはりつらい。
◆という自分の体の話でなく、第3Qまででおおよそ目地の土ハネは終わり、石敷部もき れいになる。全体をながめると、基底石らしきものがならぶが、すべて大きい石が横に通るというのでもない。またこの基底線の外に、きっちりと密にレキがあり、これを転落の結果と考えることはできないだろう(大きい石が据わっていたりもする)。石敷きがあると確信する。きれいになった全体をながめると、やはり基底線をはさんで、石の面が変わる。
◆そんなんで、石出しを第4Qに続けても、もちろん上げるべき土を取る作業は進んでいくだろうが、けっして清掃したようにはきれいにならない。天気のいい日に石を乾かした上で仕上げるべきで、これ以上南区にいても効率的でないと判断し、第4Qには造り出し 上面西北区に移る。
◆小雨でテントを張って作業。樹立状況の埴輪を5~6点ほど確認できたところで今日は終わり。写真を撮る余裕もなく終わる(写真は翌日朝)。
◆なお、3日(木)には天理大が埋葬施設のレーダー探査の予定。それと天気予報では金曜日はいい天気になるということなので、造り出し基部2箇所、西面を加えた3箇所の葺石について清掃を行い、翌週の7日に図化のための下図(1/10投影画像)作りの写真撮影を実施する予定。全体の3次元計測もやりたいところだが・・・。

あんまり調査区以外の風景を撮っていませんが

◆8月10日の晩飯の風景です。それと風呂は定休日の月曜を除き(月曜は梅の湯)、週4日は大久保湯というところに 行っております。大将が好きで、風呂客と 将棋をいつもしています。実は木曜日に携帯電話を忘れ、大将が着信か発信履歴にあった立命館大学のSさんのところに電話をかけ、持ち主が忘れていると伝えてくれたそうな。そこから学生に電話が行き・・・。風呂屋から宿舎に戻った時点で気付いてはいたが、金曜日にまた行くのでほったらかしていた。翌日の金曜日、風呂屋の大将がなんと現場にやってきて、携帯電話を届けてくれました。大久保湯の写真を撮っていないので、ストリートビューから1枚挙げておきます。なお、立命の1学生の体重が日々記録されてグラフ化されている。
◆風呂帰りに車塚方面に戻り、マツヤスーパーで買い物。これが18時頃。宿舎に戻ると、晩飯作りと洗濯である。わたしは、第1週に2日、第2週に2日、第3週は子供らが帰ってきていたため泊なし、第4週は1日と、だんだん泊まらなくなっている。第2京阪で往復すると5000円!、盆の頃は奈良まわりで帰っていました。

それでもって子供らが帰ってきて

◆8月16日の昼頃まで北条におり、宝殿に戻り、帰途に就く。が、娘が関空に到着するというので、そのまま関空へ。町田経由で翌日大阪に戻るはずが、東京に行くすべがお盆でなく、小学校時代の友人宅に泊まりに行くプランがだめになり、1日早まったという。それにあわせて息子も帰ってくることに。
◆4人そろったところで、国分駅前の「あじもり」というちょこちょこいく飲み屋に。子供らもイケ ル口なので、4人でアテをならべお酒を飲むのは実に楽しい。その勢いで、ファミリーボーリングに突入。こっちも170点代を2回続けるも、息子は220点まで出して、もはやかないません。
◆この週は、なので日、月、火、水と4泊し、木曜日にそれぞれ戻っていきました。息子は翌週の24日が大学院入試で、家で受験勉強をやっておりました。

五百羅漢と住吉神社

◆何十年ぶりかに五百羅漢に行く。有料。そこで北条の町歩きマップを手に入れる。そのあと至近 の住吉神社。なんでも播磨三の宮だとか。立派である。住吉神社と聞い て、栄原先生の議論を思い出す。隣に酒見寺というのがならぶ。
◆そのあと、あんまり時間がなかったので、街道沿いを車で通り抜ける。商家家並みというのより、旧家家並みという通りの方が、町屋が残っているのかもしれないが、そっちは途中までで引き揚げてしまった。北条というのは門前町であり街道の宿町だったのだ。加西市という名前は無機的ですね。北条という名前の方がいい。

鶉野飛行場

◆次に鶉野飛行場跡地というところに連れて行ってもらう。前にオヤジから話は聞き、グーグルで 観察したことがある。地下防空壕になっている指揮所があり、地元民が埋 もれていたものを内部の土砂をのぞき、見学施設 としてパネル等の解説がある。いまは展示施設が別にできているが、たぶんお盆のためだろう閉まっていた。そのあと飛行場跡地に行く。いまだに自衛隊の管理地になっているらしい。まあ、払い下げられなかったから残ってきたんだろう。いずれにしても、地元のみなさんが、戦時中のことを伝えるために顕彰しようと力をあわせて、こうした見学施設としているようである。

北条の町

◆8月15日の土曜日、大学で仕事をしてから、お盆で実家に帰りました。翌日、今回は北条の町に行 くことにしました。まず法華口駅。ぽつんとたたずむ小さな駅舎。そのな かがパン作り販売など、駅舎工房となっており、地元の人たちがやっているみたい。駅員さんも女性。そうこうしていると下り列車がやってきて、1両の車両が近づく。撮りテツ屋がカメラを構えている。これ、直後の朝日新聞にも取り上げられていました。

考古学研究の原稿を届ける

◆7月末に本文はできて事務局に送ったが、届いていなかったよう。今週8月24日からの週で、なんとか図をB5の会誌用に作り直す作業にかかり、27日に完成したので、すべて宅ファイル便で送る。が、これも届かないみたい。が、編集担当に本日送り、まあこれで1件落着。さて昇任関係の書類の手直しの指示も来ているので、それをやっつけよう。
【追記】考古学研究の論文は結局12月号になってしまったようだ。残念・・・

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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