人を幸せにする人になろう

藤ノ木のこと

◆もひとつ、藤木の石棺には2体の遺骸が残っていたが、遺存状況の悪い一方は、これまで男とされ ていたが、考古学的には足玉があり、普通に考えれば女性だと。結局、身長の長さによる判断で、人類学者は高いとみて男という。しかし、それはそれで足の指の長さから計算式で算出するもの(それもエエかげん)。そんなことしなくても、首飾りがあり、おおよその遺骸のあり方は想定でき、とても人類学者の算出した身長にはならない。少なくとも、男とは断定できないという言い方がまっとうな判断。ところが、当の鑑定をした人類学者は、まったく慎重さをもちあわせず、どこかの論文集で、こうしたマトモな発言に対しコテンパンに攻撃し、それを取り上げた新聞記者にも矛先をむける。そんなマトモでない原稿、普通の感覚からすれば、収録しないか、書き直しをお願いすべきものだと思う。おかしいものはエライ先生でもおかしいのである。
◆自分も断定的だといつも指摘される。反省しなければならない。が、学術上の根拠をのべあっての論戦とはこれは違う。今回の考研の発表後、いろんな若手の人に書いたものをいただき、そのへんの最新の研究を参照できていないと反省。ぱらぱらと見たが重要な論文もある。伝世鏡なんですけど、踏み替えしの技法が後漢代にず~とあるということを学ぶ。後世に踏み返したのでなく、当時の鋳造技術のなかに存在していると考えられるというもので、学び受け止めなければならない。間違っていたことは訂正します。それで結論も違ってしまうなら、ごめんなさいと言います(たぶんそんなことはないが)。そういう他者の意見は、取るべきところは吸収できるつもりです。が、藤木の応酬はそれとは違って、権威を守るための、反対意見に対する罵倒なのである。
◆おそらく女性でしょうね。男2人として被葬者に言及している方もおられるが、まあそんなことはないだろう、というところ。

ピースおおさかのリニューアルオープンは30日 記事№2800

◆しばらく前にHPに上がったようです。4月1日かと思っていたが、月末とのこと。どこかでさっそく見に行かなければ。

車塚の発掘が記事になったようです

◆です。それと樹木の伐採など、環境整備を進める地元のみなさんの活動があり、ネットを見てい たら、紹介があったので、それを。また、展示をやって いるらしい。教えてくれ!。
◆それと報道への資料提供をする際にコメントを求められ、作成した造り出し比較図。造り出しにも、きっと規模の規格があるんでしょうね。

4月12日、三田現地見学検討会

◆雨が降り続く中、土曜日から晴れ、さいわい12日の日曜日も晴れでした。京橋から東西線経由 で、尼崎、そして三田に行く。午前中、三田の町歩き。とても丁寧に町の成り立ちを教えていただいた。武庫川がしょちゅう氾濫していて、水に浸かっていたのだとか。いまでこそ橋がたくさんあるが、もともとはひとつで、武庫川西岸の本町などに対し、川をわたった東方の三輪社に至る街道沿いも町場となっており、複合的な面がある。
◆それと有馬郡のほぼ中央が三田で、郡衙はいまの市街地でなく播磨に抜けるもうひとつ南が有力候補地だそうだが、三田には古代寺院があり、やはり早くから盆地中央部の平野に面した地域の中心地であったようだ。しかし、近世の支配で、三田藩は有馬郡北半部となり、南半部は切り離されたらしく、これにより、その後、南は神戸市北区および西宮市に編入されていく。したがって三田市域は北半なのだが、三田市街は盆地中央部なため、市域の南端になって しまっているのだとか。
◆九鬼が志摩から入るが、お家騒動を好都合と、通説では水軍を擁する九鬼を陸に上げる幕府政策と言われているらしいが、そうでもないとのこと。そして、幕末に藩政改革を進める。九鬼隆一は東博初代総長として著名だが、白洲退蔵、川本幸民、あるいは神戸に出て儲け神戸市長になっていく家など、なかなか面白い人物達が輩出している。
◆午後の検討会の1本は、城跡や陣屋の発掘成果で、おおよそ三田城や陣屋跡がどこまでわかっているか、知ることができた。また町場の調査でも防火用の水溜めなどが検出されていることを知る。

小山田遺跡

◆3月末に八木で呑んだとき、先輩の話を聞く。小山田遺跡の西にも適当な尾根先端部があり、これ が蝦夷と入鹿の墓で、これらを破壊した後、宮ヶ原古墳に遺骸を埋葬したのだろうという話を聞いた。なるほどです。2つあんのか、というところが問題だったが、ちょうど横並び、宮ヶ原が最終的な埋葬墓とする根拠はいま理解していないが、すべて説明が可能である。なるほどです。
【追記】新聞を見ると、朝日カルチャーセンターでこれに関する講座があり、舒明初葬陵説について講義するのだとか。どうするんですかね。カシコーケンが発表するのは、なんでもデカデカ報道し(弥生の米が現代のものという誤りも象徴的です)、さっそくに講座で速報してくれと。考古学の大本営発表みたいだし、それを求める需要もなんだか形成されている。根拠が希薄なのに結論めいた話をするのは、藤ノ木人骨の性別問題と同じではないでしょうか。個人的にそう思う人があってもいい。しかし、普通は組織として発表するとなれば、いろんな意見を聞きつつ、言える範囲で言及するのではないか。

相変わらず

◆市大日本史の論文5本、合同調査、購読など、大物はすべて入稿済みとなり、なんとか今号も間に 合うのではないか、との見込み。ここまでの進捗(戦いの記録)を出しておこう。
◆朝から、芦部町の図を作る。どうしても正方位だと表現が難しいので、条里にあわせて振る。昨年の合同調査の時に気づいたが、結局のところ、芦部町は坂本郷の、ひとつの里の単位が旧今在家村の村域となっている。今在家の名が示すように、村落成立は比較的後発と考えられるが、東の坂本、西の一条院から、どっかの段階で村域が独立したわけだが、それは古代的な36町を単位とする1里を基準としており、それを考えると、村そのものの成立は遅いとしても、今在家村となる 坂本郷域内での耕作の単位としての里は、伝統的に存続していたと考えられると思う。これ古代的なものが変容し中世でも意味を持ち続けた土地の単位であり、日本史上、きわめて重要だと思うんですけどね(カン)。実にものの見事に条里を基準に村域が作られているわけだ。
◆なお、右上は坂本寺のある段丘上の正方位地割の認められる部分。それと、切り離された右側になる坂本村の、太田井の水掛かり範囲は狭く、太田井が灌漑する主たる田地は、この芦部町の水田。これこそ5世紀に根使主弾圧にともない茅渟県主の袋かつぎとされた坂本氏が入植し、6世紀に開発を進め、推古朝の4大夫の1人糠手を生み出した生産基盤なのである。蘇我氏とも近く、軽寺式の坂本寺を640年代には建立させる。坂本糠手がここで生まれ育ったと考えれば、楽しいではないか。
◆さて次は信太山の戦後の図にとりかかろう。
【追記】芦辺町の図、信太山の戦後の図、門林家の系図、この3つの図面に7時間を要した!

今回の主要図カラー版

◆今回は、カラーデータを作ってモノクロにして資料に載せたのでなく、初めからモノクロで作っ たので、それをカラーにする作業がめんどうくさかった。資料集ではモノクロだ が、パワポを作るときにカラーにした主要図を挙げてお く。岡村さんの鏡の分布図もデータ化しとかなあかんな。

まあなんとか

◆第1日目終わり、懇親会。学生もかなり参加。が、もっとも遠隔地は鹿児島大で、愛媛大、あとは 関西圏だが、特定のところのよう。19時に始まり、21時には終わったんだろう。ひとつも食い物を口にしなかったので、おにぎりを食い、パワポの仕上げに。一通り終えたあと、初めから見直し、文字送りとか、フェードのスピードとかも調整。最後に2003で作業したデータについて、パワポ2010でのチェック。これでほぼ2時半。
◆実は、ポインター兼パワポの送れるヤツを忘れたと思っていて、実行委員長にあったら用意して欲しいと頼んだが「ない」と言われ、「しゃーない、演題でやるか」と答えつつ、PCを手にもつかと思い始めていた。で布団に入って、ふと、忘れないように、先週の授業で使ったあと、カバンに入れた記憶がよみがえり、起きて確認するとあった。これで安心して眠りにつく。
◆翌日は3番目で11時から45分、ちょっとオーバーして、最後は少々ハショリが生じたが、まとめは要点を打ち出し、まあなんとかやれたのではないかな。とはいえ、代表委員やディスカッション担当の方から、秋以降、顔をあわすたびに「頼むわ」と言われ、気合いを入れてやったつもりだが、寂しいのは会場に人が少なかったこと。弥生博で関心ある市民の前でやるほうが、よほどやる気が出る。
◆再び院生を3人乗せて岡山を出て、わりあいスイスイと帰宅。

考古学研究会にでかける

◆18日、10時天王寺集合で院生3人を乗せて岡山へ出発。高速を降り、岡山市街地で飯を食い、岡 山大学へ。総会に出よというので、13:30に間に合うよう無事に到着。院生等は手前で下ろし、講演が始まるまで、県博、岡山城へ行ったようだ。
◆総会。思った以上に深刻なんでしょうね。質問は主任文化財調査官のひとつのみ。あとはしゃんしゃん。どこの学会でもそうだろうが、ウルサ方の質問への対処といった緊張感はほとんどなく議案通過。こっちも発言することはないし、偉そうなことは言えない。が、考古学研究会のことも、すこしは考えるようにしたい。
◆例えば、大きな学会の会員減少は共通した課題である。が、その一方、考古学研究会固有の問題もあるわけだ。うちの院生の意見も聞いたが、それはそれで参加する若い院生等がどう思っているかを、率直に把握するためにはどうすればいいのかも考えて欲しい。アンケートをお願いする、だけでは無理だろう。まあ、それは横に措き、大会のあり方もそのひとつ。自分の関心でいえば、日本史上の重要な課題に対し、それを一歩進めるような具体のテーマ設定の方が性にあっている。今回のような方法論のことでもよい。でも例えば無理に学際的研究とかいわずとも年代論でいいのではないか。実質、そうなわけだし。たとえば弥生時代の開始年代だって、決着をつけてほしいのである。
◆会誌のこととか、いろいろある。大歴で研究部強化特別委員会を作って、アンケートを取り、今後の方針を総会で報告したことを思い出す。それが共有されていないとか、継承されていないとか、あかんな、とはよく思う。が、けっこうアンケートの回答は多かったし、その意見を取りまとめるとともに、特別委員の意見を聞きながらまとめた記憶がある。大歴の規模は小さく、講読会員は全国区でも実質はローカル。市民との関係がひとつの課題。高齢化社会、裾野は無限大に広がっている。
◆博物館経営論の授業を思い出す。『博物館研究』に載っていた論文をこないだの授業で紹介した。博物館経営とは、形而上学でも、理想とか理念ではない、泥臭くナマの問題。モスクワの国立古生物博物館は、ソ連解体の社会不安のなかで資料は散失したのに対し、もと私立のダーウィン博物館は、学芸員が交替で資料を守って生き延びた、という対比の話だった。博物館を守るのは、あなた任せでない学芸員の当事者意識といったところ。日本の博物館でいえば、経営とは事務方の仕事で、学芸は研究と展示をやってりゃいいのですよ、という話ではないと。公立博物館はむろん公立で、学会は任意の団体であり、違うわけだが。尻切れトンボですが・・・。

なんとか終盤まで来た

◆夜やっても1時半くらいまでしかもたないし、そうすると朝が遅くなり・・・。ちゃっちゃと寝て、朝は6時半には起きて、8時半くらいに職場に行くのが結局は効率的か。今日は、新たに就任した文学研究科長の、最初の仕切りの教授会。マシンガンのように進行し、2時間余りで終わったのか。会議というのは、むろん決まり切ったことの確認などつまらない面はあるが、それをも含めて情報を共有し、その都度、必要な対処をするための意思疎通ならびに意見交換の場。幹部はしかるべき全学の会議に出て、そこで議論されていることを率直に紹介し、どういうスタンスで対処すべきか、構成員に投げかける必要がある。メリハリは賛成するが、ひとつひとつ十分な理解を求めることも必要で、そのためには丁寧な、したがって理解してもらうための説明時間も必要だろう。
◆とはいえ、こっちも余裕がなく、ついでに疲労から眠りに落ち、あまり褒められたものではない。ただ今日は、15:45には終わり、22時までパワポを作る時間ができた。これでなんとか最後のまとめのあたりまできた。終わらしてしまいたいが、気力も途切れ、まあ明日もあるしと・・・
◆しかし考えてみれば、レキハクの弥生の共同研究によく誘ってもらったものだ。これは感謝しなければならない。そうでもなければ、あんな論文を書くこともないし、今度の考研の大会報告を依頼されることもなかっただろう。なにごともチャレンジです。専門も分化し、自分の領域を出ないでもいいのだが、しかしやったことのないことでも、やれば勉強になるし、なにがしか認識は深まる。条里制のこともそうである。なんでもかんでもできるわけではないが、もっと貪欲にチャレンジしたいものである。横穴式石室もまだ専門とはおこがましくも言えないが、やりたいことはやればいいのである。このへんでもう広げない、という守りに入らないことだ。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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