人を幸せにする人になろう

ちなみに

◆ちなみに、恥ずかしながらまったく意識していなかったが、ガリガリ層は地山なんでしょうね。見えるところほぼ同じで、盛土らしき差はない。高さ3.5mの造出は、地山削り出し、なんだろう。面白くないけど。ということは、平面として、後円部-造出-前方部の基底部位置を割り付け、むろんその前にテラス面肩部を割り付け、削っていったということなんだろう。造出で、墳丘に対し、後付で盛土していたら面白いんだが・・・。まあ中期古墳は削り出しなんでしょうね。前期末くらいなところで、例えば丘陵地で、土で補わないと造出が設けられないような、そんな事例はあるのだろうか。造出の付き始めでも、墳丘に対し、低い位置になろうとも、地山成形でいけるところに造るのだろうか?。また考えてみたい。
◆また、下段テラス面から一段低い造出上面との間の段差部の小斜面だが、そこには東に拡張しても到達していないわけだが、飛んでいるだろうとは思っていたが、造出上面の方形埴輪列でも、墳丘側の東辺の残り具合はもっともよく、それが表土下50㎝だが、基底石くらいは残っていることを期待しよう。

久津川車塚2015年3月11日

◆午前は、北区攪乱坑底の埴輪・礫出土状況の写真撮影にむけての清掃。11:30頃には撮影し、ただちに畦沿いの遺構内掘削にかかる。われわれは、北区の造出上面出しの残り作業をする1人のほか、南区に展開し、造出斜面の完全な検出と、上面の掘り切れていない黄色粘質土の除去にかかる。お客さん2人を迎える。
◆午後は、南区造出の仕上げを継続。上面はかなり手間であるが、院生もかなり慣れ、ちゃんと検出して進んでくれている。自分を含めた正丁3人は斜面の仕上げ。とくに西拡張区は、機械掘削で黄色粘質土の下の黄褐色砂質土が出たところで止め、あらあらの成形で手つかず。
◆念のため土層について。全域は黄色粘質土で覆われるが、洪水層でも下層は黄色(明るい)砂質土で小礫が入り出し、それを削っていくと、造り出し(地山?)の混礫暗赤色土が顔を出すが、そこは洪水層の砂などが入り込み、漸移層のようになっている。それまでの明るい黄色に比べると赤みがあるのだが、でも黄色。この層は、本来は造り出し(地山?)そのもので、洪水層による変質層なんだろうな、とは思う。なので、これを飛ばし、ガリガリの混礫暗赤色まで行くと掘り過ぎになる。この辺がなかなか微妙で、どこまでで止めて仕上げるか、というのはセンスの問題。北区の攪乱は、遠慮なくガリガリ層まで出して問題はないが、よく残っている上面および斜面は、堅さも気にしながら仕上げていく。これも埴輪や敷いた礫がからむ上面と、斜面では、微妙に対応を変える必要がある。
◆そんなんで、造り出し斜面を少しずつ削りながら、どこで止めるかだなとミッチーと相談しつ つ、最後は確信をもって止めることができた。で、まわりの黄色粘質土がみるみる汚れていく、が、これはいたしかたなし、斜面を仕上げた後、底面の黄色粘土をきれいに面にするほかはない。ということで、自分がやっていた隅部の仕上がった姿を示しておきます。

金蔵山の現説資料の図

◆です。五社神ぴったりです。前にコウケンの岡山例会でやって、論文化しようとしているが、ぜんぜんやれてない。

残り作業を考えてみよう

◆掘り上げ)北区攪乱底面清掃→写真/北区攪乱畦沿いの断ち割り/南区造出肩部と斜面の仕上げ/南区埴輪まわりの掘り残し部(黄色粘質土の残存を確認し、それは掘り、砂質までは出しておくこと)/南北畦にかかっている落下しそうな埴輪の処理。
◆清掃(丸1日ですむかな~)
◆全景写真
◆1/20の書き直し+書き足し
◆層位図)中央畦/攪乱畦/調査区四周(必要なものを考える)
◆18日終了、19日後片付け・撤収、といきたいもの(1日早いが)。あと6日である。

2015年3月10日、車塚

◆今日は、寒く、大荒れの天気という予報。人も少ない、自分と作業員さん1人を入れて5人。攪乱 底面の仕上げ、現代溝両側の仕上げ、などなど、やれることをやった。自 分は、造り出しコーナー部の上面、機械掘削で斜面はほぼ掘り上がり人力で成形はしたが、上面はそのまま手つかずで残っているところの黄色粘質土を削り始める(第4Q)。
◆午前、途中で、ヒョウ?アラレ?が降り出し、指導委員会のために全面シートをめくっていた調査区が白くなる。雨でなく水が流れることもないだろうとそのままにしていたが、昼休みに入った頃に再び降り始め、西の空は暗く、まずいかと思い13時に考えることにしたが、だいたい上がりました。
◆で15時から指導委員会が始まり、教育委員会の会議室での概要説明のあと、みなさん現場に来ら れたのは15時半より遅く、16時前の時間帯で、終了は16:30前だった。わたしも委員ではあるが、現場で作業を続ける。
◆なので、フルオープンになっているので、3時休みに四周から写真を撮る。そのうちの1枚を出しておきます。
◆筋肉痛で太ももがパンパンです。それといつだったか、埴輪列の埴輪を出した日、1日しゃがんで(もちろんお尻を着いたりしてません)土に向かっていると、第3Qまでは作業ができるのだが、第4Qになるとそれができなくなる。年です・・・。

2015年3月9日、車塚

◆午後の天気は確実に雨というところ、16時までやれました。なにをしていたのか。1日過ぎると記  憶がもう怪しい。昨日の調査日誌は書いてくれているだろうか。思い出してみます。
◆まず天気が怪しいので、北区のみシートを開ける。(1)北区の畑じゃないかという上面の攪乱を4人くらいで北から完全に仕上げてもらった。(2)北区東側の深い攪乱は、北から仕上げていくと、下では矩形になり、調査区内で北辺が出て、畑側の西側との間は、一直線に南にのびていくことがわかる。で、作業員さんに掘りきらず底面を整えてもらうと、黄色粘質土中に累々と埴輪片溜まり風に出てきて、この風景を写真を撮るべく、攪乱壁、攪乱底面を整えながら南へと進む。(3)畦と現代溝の間の手つかず部分を、作業員さんに削ってもらう。だいたいそんなところ。
◆で、16時に降雨のため中止。院生らはシートがけを終え、テントの中で今日の作業の確認等のミーティング(毎日やってくれている)。そうそう、大阪大谷の中国人留学生のG君はかなり来てくれたが、本日が最終日となった。
◆雨なので、学生1人を送り、駅で1人おろし、泊まりの買い 物につきあい、宿舎まで送り、そうこうしていると普段よりも遅くなり、疲れているし、大学に行かず家に帰る。19時前に風呂に入る。
◆先週に作成した略図、アバウト、イラレでレイアウトして、ミッチーに土日にトレースしてもらっていたが、明日10日が指導委員会なので、この図を仕上げないといけないので、帰宅後、図を完成させるべく作業をする。も、果てる。本日10日朝、やっぱり4時くらいには目が覚め、すこしうだうだしていたが、起きて残りの作業をし、図面2枚を送信してから、朝飯となる。ということで、9日までの成果にもとづく略図を示しておきます。

レキハク共同研究の終了

◆3年間の共同研究の、今日が最後の研究会。最後なので、各自ホテルでなく宿泊所で合宿風に打ち上げをやりましょう ということになる。これに行かないわけにはいきません。メンバーのみなさんの報告それぞれに、たいへん学ばせてもらった。岡山・東北・鹿児島・群馬に行ったことも。R大学Sは1人ホテルに泊まっている(だからお前は・・・)。世代的に近いところが集まっていて(そのなかでは上の方になっちまっているが)、居心地はいい。
◆行きの新幹線では天智陵の原稿を書いていたが、これまた時間がかかる。22:30頃に京成佐倉に着き、合流。1時くらいまではやっていたか。記念写真でも撮っとくべきでしたね。えびの市の話には少々ショックを覚えた。ほかにはないものこそがウリになり、その意味でイイものをもっているのだが。
◆翌日、1本の研究報告があり、それでプログラム終了、あとは論文を書いてね、と。トホホ。共同研究そのものを延長!してほしいものだが、そうもいかない。終了後、レキハクI氏と、R大S氏と、新幹線で鏡の話を聞く。このネタの仕入れを消化するには、まとまった作業がいるが、もう時間もなくなりつつあり、資料作成にかからないといけないのだが、それ以前の勉強の段階がまだ・・・。
◆ということで、比較的早く帰り着く。なにかないと寂しいので、車塚の現場テント脇の梅の写真をどうぞ。

3月7日、条里制・古代都市研究会

◆午前、ちょっとだけでも雑務処理をしに大学へ行き、そこから西大寺に向かう。1日目は4本の報 告で、長原遺跡の最新の調査成果、静清平野の話(条里というよりは東海道の話)、文献史側の班田収授の話(忍者・・・)、歴史地理学の九州の話。
◆『条里制・古代都市研究』第30号をもらい、自分の論文を読む。あとの質疑でIさんが、何度も言及され、少し気恥ずかしいくらい。編集のM大学Oさんには、なにからなにまでお世話になりました。おかげさまで、『和泉市史紀要』の内容を統合の上、さらにバージョンアップし、最終章のまとめのところで、かなり明確な(大胆な)7世紀後半の姿を描くことができたのは、発表そして再び原稿を書く機会が与えられたことによるものだと思う。これで、かなり古代史家の目に付くことになるだろう。このケンカを買ってくれればいいのだけれど。誰かさんのように、条里は8世紀中頃を前提とする、というようなのでなく、こっち言及しているイチイチについて、正面から反論してほしいもの。
◆討論終了10分前には、会場を離れ佐倉に向かう。

2015年3月6日、車塚

◆9:00~10:00まで現場。大学へ向かう。
◆東拡張区の掘り上げ、南区の埴輪だし、1/20作成。北区の黄色粘質土の掘り下げ。攪乱の形状も かなり明瞭になってきた模様。写真は南区南東から。
◆教授会は、2月末から間がないので、すぐに終わるかと思ったが、そうでもなく、17時終了。奈良に向かうことはあきらめる。

なぜサケは生まれた川にまっすぐ帰るのか

◆ようやく発信器を取り付け、太平洋の北で回遊していることがわかってきたそうだが、産卵期になると、まっすぐ生まれた川の河口部に戻ってくるそうである。生物学者は、じゃあなぜそういうことが可能なのか、どういう仕組みで察知するのか、それを知りたいのである。実学者は「それで?」と言う。それがわかったら面白いかもしれないが、何か役に立つの?、と。そこでまず相容れないことになる。
◆朝鮮戦争の悲劇、悲惨は言うまでもない。朝鮮戦争が生じなかったら、日本の戦後のあり方もまた、やや異なった筋道になったに違いない。
◆いま予備校も、大教室でやってきたところは苦戦し、個別指導のところが生き残っているという。小中高も、大学も向かうべきは、少人数教育なんだろう。
◆県下の発掘報告書リポジトリの整備、第1位は長野県で、第2位が宮崎県なんだとか。宮崎県に行きY先生と話をするたびに力説される。発掘報告書がどれだけ整っているか(あるいは近場にそういう場所があるか)で研究が左右されるのでなく、どこに住もうが、みな同じ土俵で研究ができる環境を整える上で、発掘報告書のリポジトリの整備が大事なんだと。まったくだ。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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