人を幸せにする人になろう

2015年1月15日、金蔵山の発掘を見る

◆史跡指定にむけて測量調査を始めていることは知っていたが、今年度から発掘に着手している。25年ぶりくらいに金蔵山に。雨の中、すいませんでした。一帯は柿の名産地とのこと、手入れの行き届いた柿の木が山の斜面に広がっている。現場で図面をいただき、発掘区を見せてもらった。まあ、すごい。とにかく図面は久津川と同じで、1mが25㎝になり、飛躍的に墳丘を把握することができる。でもでかいので、まだまわりが未完だが、ほぼ主要部はできあがっている。そしてトレンチ・・・。詳述はやめておこう。
◆帰ってきて、図面をいじり、五社神と重ねてみる。墳丘規模はやはり大きめで見るべきで、167m120歩でよさそうである。やっぱり五社神でいいんではないかな。岡山市にデータを送っておこう。今後の発掘でシロクロつくだろうが、こういう比較作業を通してチェックポイントも見えてくるものである。

1月14日、なんとか大阪城石垣の原稿を出す

◆まあ、あんまり自分では目新しいものはない。が、徳川大阪城の3時期のなかでも、石垣の構築技 術が進歩しているように感じた。専門家はとうに指摘しているんだろうけ ど、大阪城の本を読みまくる余裕はない。それと、昨年の連続講演会の時に作成した、3次元計測した箇所の持ち場割りを示した図を入れておいた。
◆さて次はコウケンの発表要旨である。

しつこいですが

◆孝謙が淳仁に宣言する。祭祀のようなことはお前がやれ、大事なことはアタシがやると。律令の儀令では、天子は祭祀に称する所、天皇は詔書に称する所とある。これもまた最高権限者の分掌的なあり方の残存を示すであろう。

フランス人の死者はむろん痛ましいが

◆が、イスラエルは何人のパレスチナ人を殺害したのか。アジア太平洋戦争やベトナム戦争や、イラク戦争や、戦争という名で何万人の人を殺害してきたのか。人の命に変わりはない。

いじめ返してやれ

◆沖縄県知事を徹底して無視しているらしい。沖縄県民の民意はあなたにある。権限を最大限使って、辺野古を邪魔してやれ。頭を下げに来るまで。

GDPの中身か、いい言葉だ

◆けっこう面白かった。
◆もひとつ。毎日が投票日かもしれないというのも面白い。こないだ書いたパチンコともつながりますね。自分が働いてえたカネを何に使うか。あるいはどこで買うか、とか。考え方も大事だけど、結局は行動が大事だし、たいそうな運動をせずとも、自分が大切にしたいと思うところを支援できるわけだ。最近は、できるだけ日本酒を飲むようにしているが、考え方は共通する。

やめられない

◆もひとついうと、倭の国家形成は早い。百済や新羅よりも。が、なんで王の在位年を含む王統譜がぜんぜん復元できないんでしょうか。百済王や新羅王についても、細かく言えば間柄とか、在位年に数年の異論はあっても、基本的に順番と在位年は判明していますよね。なぜ、日本はそうでないのでしょうか。記録がなかった?、口移しの伝承で不確かだった?。それだけではないと思います。なんで紀元前660年に神武即位をもってきて、引き延ばしたのか、それは古くしたいからなんでしょうが、5世紀の話でいえば、なんでわからなくしているんでしょうか。むろん、古事記崩年干支から、おおよそのところはわかる。ホムダワケが4世紀後葉で、オオササギからミズハワケが5世紀前半で、允恭が5世紀中頃で、雄略が後半だと。なのに、なぜ允恭紀年は42年あり、仁徳紀年は87年もあり、応神紀年は41年もあるのか。
◆なぜ5世紀の王の在位年を長くしているのか、そんな作為をなぜしなければならなかったのか、それには当然理由があると、わたしなんかは考えるわけです。紀年論は「はやれへんからな」、そうですか。しかしバカにしているKさんは果敢にそれにチャレンジして、答を出している、とわたしは思っています。倭五王の朝貢記事が『宋書』にあり、記紀編纂者の手元にはあったんでしょう。が、中国への使節派遣の記事は雄略朝に2回だったか、あるだけではないですか。百済王の関係記事は収録しているのに。なぜですか。5世紀のことはかなり明瞭に伝わっていたと思います。正しく在位年を配置すればいいのです。そして、それ以前の王の在位を水増しし、欠史8代で不足ならもっと加えて、神武即位にもっていけばいいのです。が、そうしていない。仁徳さんは87年も、高句麗長寿王なみに長い治世があったと、なぜしなければならなかったのでしょうか。文献史の人は解明してくださいよ。

もひとつだけ

◆帝紀といわれても、考古学の人間にはね~。まあ、宮や墓やキサキや子らの基本的情報?。どっちかというと特段の理由がない限り、信憑性は高く、あまり作為を考えない方です。すなわち尊重しなければならない、と。
◆しかし、白石先生がおっしゃる通りだと思うんですね。仁徳・履中・反正という連続する3人の王の墓が百舌鳥にあったと伝えられている(崩年干支でいけば427と432と437)。それしかない。で、比定されているわけです。ミサンザイ(埴輪Ⅲ-2)・大仙(埴輪Ⅳ-2)・ニサンザイ(埴輪Ⅳ-3)があると。だけども、確実に、ミサンザイと大仙の間に古市の誉田御廟山が入る。これって誰の墓になるのか。白石先生の言うとおり、百舌鳥に陵を築いたということは、王の基本情報として伝わり、それが添えられているとみたいところではあるが、百舌鳥古墳群の有り様を考えれば、そうでもない。何かが違っている、と考えざるをえない、ということになる。これって説得的ですよね。仁徳の墓はぜったいに百舌鳥にあるんだろうか。履中の墓は?、反正の墓は?。むろん百舌鳥の3大古墳にあてない、という考え方はありうるが、それはそれで、3大古墳のあるものは、あれだけ大きいのに王墓じゃないということにもなる。
◆そう、全部を懐疑的にみるわけではないが、しかしある部分は違っている、正しく記載されていないと考えるほかはないのである。文献史の人がそれでも王名と王陵名が正しい組み合わせなんだと固執するなら、王の即位順がいじられている、という解釈にならざるをえないと思う。

やめてもいいのだが

◆全史協の冊子をざっと見た。これ以前に、出たばかりの時に、白石先生が送って下さったようにも思う。中身を見ると、前にも書いてきたが、西殿塚の前方部に土壇があって、それが後円部の埋葬ともども、台与段階の分掌した2人という点については考えないといけない。
◆お願いしたいのは、茶臼山古墳の年代をどう考えるかということと、266年にどうやら台与が晋に朝貢しているということを、どう考えるかということに尽きる。白石先生の考えでは、西殿は古い埴輪が出ているので、266年の朝貢直後くらいに死んで葬られ(30歳前後ということになるでしょうか)、次いで茶臼山の被葬者が王になり、在位短く270年過ぎくらいには死に、メスリ山古墳の王が4代目になり、これが死んで崇神が立った、ということなんでしょう。266年から318年まで3代だから、1人17年くらいでちょうどいい、ということなんでしょう。
◆まあ、それでもよし、としておきましょうか。卑弥呼の在位は約50年で、台与もそれくらいの長期の王であってまったくおかしくないと思うが、それはわからん。考古学的に西殿を突き詰めることですな。そこはこっちも宿題が残っている。
◆西殿塚型、元稲荷、普通円筒はない、古相。東之宮、これはまた弁天C1と同段階で、これは新相で3世紀末に近いだろう。台与の在位はそれなりに長く、相似墳も幅がありうる。むろん普通円筒は西殿で表れ、孤立して古く、畿内の前期古墳で埴輪を持ち始めるのがⅠ-3というのは別にそれでもいい。が、まあ東之宮くらいが西殿の年代くらいでいいのではと思っています。宮山型とか都月型で古くするわけにはいかず、普通円筒で考える必要があり、それは東殿とかメスリの埴輪に対し、むろん1段階前に置いたらいいのだが、実年代としてどこまで開くだろうか、ということです。270年頃に西殿の普通円筒があったか、と言われれば、ないんとちゃうやろか、と。
◆西殿の前方部埋葬は特異ですね。あれをどう考えるのかは確かに難問。白石説でいけば、箸墓と西殿の前方部には男が入っていたということになりますね。で、茶臼山とメスリ山は1人が権力を集中させる段階に入るという見方だ。そこで王権としては分掌的なあり方を解消させるということのよう。

Kさんの評判は悪いが

◆PDFを文字化けしていないか点検していると、文字化けはないのだが、直したいところが2箇所でてきた。もうCDにも焼き終わっていたのだが、再び2章分のPDFを打ち出す。そこだけ差し替えようとするが、うまくいかず、再度統合することに・・・、その間を利用して、あーでもない、こーでもない、と書き連ねています。
◆口頭試問で、結局Kさんに依拠しているのね、といわれ、これには少々カチンと来る。全面的によっかかっているわけではないですよ。もっとも依存しているのは、イチノベ、允恭、きなし、清寧の系譜と、紀年論のところ。しかし、あそこまで書くのに、どれだけ理解しようと努力し、自分で納得できるものにするために、いろいろやったことか。その上で、使える、と判断した。まあ、しかしそこは依拠している、といわれてもそれはよい。なんだか全体がのっかかっているみたいに言われたので、それは違うときちんと反論すべきであった。オオヤマト6墳について、文献の人だって考えて欲しい。考え方の筋道は示しているわけだから。それでもって、2系列が一定の性格差があるんではないか、ということはけっこう説得的ではないか、と自分では思っている。でそれが出発点なんですよ、とういうこと。で、5世紀もそれが続いているんではないか、というところでK説を用いているのであって、2王並立論そのものがK説から生まれたのではないのである。
◆全史協の研修会でしゃべったテープ起こしに、年末、手を入れ提出しておいた。インデで挿図も含めて編集してみようかと思い、過去の冊子を送ってくれませんかとお願いして、それが届いた。でもまあやめとこうと思う。そんなヒマないし。送ってくれたものを見ていると、白石先生が、オオヤマトのオレの理解は成り立たないと、かなりしゃべっている。なので、ちょっと反論してみましょうか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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