人を幸せにする人になろう

7月13日は伊勢

◆考古学での見学会で伊勢に行く。あまり元気がないので、簡単に。前方後方墳に行くのはやはり夏はやめた方がいいが、それでも3基は見た。
◆楽しみにしていたのが三重県博。既に考古の展示なんてたいしたことない、という話は聞いていた。新築が知事が変わり見直しになったが説得して継続にこぎ着けたという『博物館研究』の記事を紹介したこともあり、見に行ったわけです。
◆まあ、自然史が強い、民俗も強いのかな、一体的と言いながら、それでも自然史は手前の一室がある。そして奧室に行くと、まあ渦巻き状になっていて、三重の特性を示すのはいいのだけれど、自然、山・海・里山・・・、で伊勢参り。伊勢ならではを打ち出すのはよい。伊勢の地形や地質や化石もいいだろう。がやっぱり人間ですよね。人間が暮らし生きてきた、その歴史や文化、の方がより重要と文系人間は考えます。観覧に来る人にとっても、子供を連れてくるには化石や昆虫の方が人気だし、それはそれでいいのだが、大人の感覚でいえば、伊勢の人々、いろんな地域、そこで生まれた、さまざまなできごと、その厚みの方を、人は知りたいと思うのではないか。
◆見直しで、設計とかも縮小したのかもしれません。オレの感覚で言えば、いまの展示は導入としてはいいいかもしれない。が、本来はその先があるべきだと思った。県博だったらいるでしょ。縄文や弥生、古墳もいっさいない。古代、官衙もなければ壬申の乱もない。安濃津はかろうじてあったが・・・。4月にできて、今は人が来ている。子連れは継続的に来ても、大人は1回行けばもうええ、という博物館のように思う。

ベ平連

◆とにかくものごころついた時、ベトナム戦争をやっていたが、確かなことは知らなかった。なんとなく新聞のことを憶えている。アメリカが負けてサイゴンから逃げたのが1975年だったか。フランスが撤退したのに(それもほんとのところは知りません)、アメリカが介入して北爆を始めるのが1960何年か、ですよね。生まれてから10歳くらいの間、ず~とベトナムで戦争が続いていて、沖縄から爆撃機が出撃していたわけである。相模原市に3年住んだが、あそこには、死んだ米兵がドライアイスに入れられて戻ってきて、そこからアメリカへ遺体を搬出したとか、そういう仮埋葬の場所があったんだっけか。そんな話を聞いた。相模大野駅の北に、いま中央公園というのがあり、そこで子供を遊ばせていたが、そこは元々はそんな場所だった、と聞いたかすかな記憶がある。
◆深夜に、NHKのテレビの再放送があり、湯川秀樹は見逃したが、2回目の鶴見俊輔、3回目の丸山真男を見た。で、鶴見俊輔と『思想の科学』。鶴見がよく知らない小田実に電話をして、やりましょうということになり、ベ平連ができた、というエピソードも面白かったが、横須賀基地に出掛けていって脱走せよと働きかけ、実際に脱走兵が出た、というのを知り驚いた。
◆丸山真男の民主主義運動は永久革命である、というのも面白かった。敗戦後の、食べ物に困る状態ながら、新しい国を作っていくというマグマを感じたが、朝鮮戦争により警察予備隊として再軍備され、短い春だったという感慨も面白かった。いろいろ感じるところはあったが、それは行動で、ということで。
◆ついでに、今日の朝日新聞での梶山静六の話は、よかった、野中広務も数日前になんか寄稿していましたね。戦争を経験している世代と、アベみたいなアホ世代の差が、ここまであるかと感じざるをえない。

日韓の未来

◆基本的に、わたしが知っている韓国人はわずかだが、それでも知っている。この人たち、とても親切で、便宜を図っていただき、友好的。この関係を大事にしたいと、普通に思う。嫌韓の人たちは、韓国の知り合いはいないのかもしれないな、と思う。
◆まず併合は絶対悪であるということ。日中戦争もそう。出て行ったのは日本であり、日韓修好条規以来、朝鮮をぶんどり、さらに中国をぶんどろうとした。その大局の前に、日本がいいこともしたとか、柳宗悦みたいな人もいた、ということはマスターベーションにすぎない。まずこれ。
◆そしてそのことの重みがどこまでわかっているか。国を奪われ、半日運動であまたの命が失われ、土地が奪われ、やむなく出稼ぎに出る、慰安婦として屈辱を味わう、そうした尊厳をずたずたにされた感情は、やった側にはわからないのである。嫌韓とか、ネット上の言葉遊びで扱う問題ではそもそもない、と思う。そんな議論で扱われるべき問題ではない、重く重いもの。
◆また、なんのために議論をするのか、ということ。相容れず、相手側の話に耳を傾けないなら、はじめから議論にならない。歩み寄るための議論であるべきだ。読んだ直後には、もっといろいろと頭をめぐったが、もう忘れた。

ご無沙汰しています

◆先週来、調子を崩しております。先週の木曜日だったか、嫌韓流の反対本を読む。竹島は韓国のもんですな、と。それはおそらくそれで決着でしょう。日本政府が太政官布令を隠して出さないんだそうですね。沖縄密約と同じ。あるのだが、表にしない、そんなものはない、と。話にならないわけだ。
◆それで、従軍慰安婦の問題にしても、どちらの立場であれ、防衛省や旧内務省の文書を、強制があった、強制がなかった、という立場を越えて、史料を出せという運動をすればいいのに、と思う。軍人でも、兵士は戦後黙して語らず、に対し、上のものは業務として詳細な日誌を作成し、提出されたものが多量に中央官庁の倉庫に眠っているという。調べた調べてない、強制という記述があったとか、なかったとか、の議論以前の問題である。そもそも本体ともいえる史料群が隠されているわけだ。むろん、一緒にというのは無理で、強制はなかったという側は、そんなものをほじくり出すことは金輪際ない。
◆とにかく嫌韓流反対本、では、多くのことを学ぶ。項目を改める。

「地の利」論

◆なぜヤマト国が倭国の中心になるのか、大きな課題である。地の利論というのがあるのだが、どうも納得できない。列島の中心に位置し、日本海側を含め、東西日本をつなぐ位置にあることは確かだ。有利に働く要素であることは認める。
◆まず、交易ネットワークができると、その上で、その位置故に重要性を増し、中心へと躍り出ると言われると違和感が大きい。
◆まず、なぜに交易ネットワークができるのか。例えば鉄、需要が高まり、素材が十分入ってくるなら、北部九州はじゃんじゃん製品を作れば、冨が集積することになる。排他的に独占するより(自分の所の消費は既に十分なんでしょうね)、交易で儲けた方がいい、ということなんだろうか。そのへん、なにか契機があってできてくるものなのか、自ずから生まれてくるものなんだろうか、いま考えている。
◆もしかして、競合みたいなものを考えなくても、全国需要がネットワークを作りあげるのかな、とも思う。だが、そうしてネットワークができるとして、みなフラットな関係ではないと思うのだ。弥生後期の広域地域圏にも大小や権力の集中度の強弱とか、自ずから差はある。要するに、ヤマト国が一定の求心力をもつ、なにがしか必然性があったんだろうと思うわけです。たまたま、近畿地方の土地柄がよかった故に、求心力をもっていくようになる、という言い方は間違っていると思うわけ。そんなんじゃないだろうと。
◆熊本県の鍛冶炉とかすごいですね。徳島もすごいらしい。淡路の鍛冶工房も、あれは阿波ですけね。熊本というと、クナ国?。数少ない九州説で行けば、たぶん安本説なので、筑後がヤマタイ国とみてるんだろう。そうすると東遷説?。いつなんどき東遷するんですかね。まあ、それはおいておいて・・・。ネギタさんの『日本考古学』の論文を教えてもらう。そうなんですよ。前に野磨駅家の調査で、弥生のカンカンに焼けた炉を見たことがあって、それが頭から離れません。鍛冶炉って、見たことのない者には、よく焼けてるな~、くらいで認識されていないものもあると思いますよ。
◆このへんも揺れがあります。きっとある、と思ってはいるのですが、しかし熊本に比べるとな~、と。が、それはそれで、潤沢に素材もあるし、技術もあり、鉄器が作れると、という環境は、逆に社会を変えないのかも、と。必需品だが、遠隔地にしかなく、なんとか確保せなあかん、という必要性こそが社会を変える原動力になっている可能性もあるのでは、とか。

2014年7月6日(土)下ツ道を行く(9)

体力的には朱雀門をめざせるのだが、雨も降ってきたしここまでとする。郡山の城下町に入 る。頑張って外堀公園とかを確保し整備しているし、また町中についても一定の整備が進められている。紺屋というのに前は入ったが、今回はパス。郡山城下町については、前に歴史学のハイキングで見学した。
◆大和郡山駅15時過ぎに到達。八木に出て、16時から店をあける飲み屋に10分前に入れてもらい、1時間ほど飲み、帰りました。

2014年7月6日(土)下ツ道を行く(8)

◆そして羅城門。佐保川をわたる東西道路の橋の欄干北面に看板が取り付けてある。そこか ら北側にむけてパチリ。画像を拡大してみると朱雀門が確かにある。
◆橋の高架下にも看板があるが、まあ目立たない。羅城門自体は、川でやられ、土手が乗り、ほとんど表示できないわけだ。ガイドマップを見ると、昭和10年に佐保川の底で礎石が露出したらしい。脇の公園に行けば、もうちと説明があるのだろうか、単なる公園なのか。行かなかった。

2014年7月6日(土)下ツ道を行く(7)

◆次に稗田の環濠集落。前に歴史学のハイキングで来たことがある。東南の神社はなんとなく記憶して いるが、やっぱり連れて行ってもらうのでは、ほとんど覚えてませんね。 環濠集落の典型としてよく知られているところ。再掘削とか整備事業も進められたようで、いまは環濠にとりまかれた集落の姿をほぼ見ることができる。
◆そこから、西に郡山市街に向かわず、佐保川東岸の下三橋の新興住宅地を抜けて、羅城門をめざす。そうか、ここが下三橋遺跡なのですね。
◆途中、佐保川に出て、土手沿いを北上し、羅城門をめざす。

2014年7月6日(土)下ツ道を行く(6)

◆嫁取り橋を渡るところから、西名阪と京奈和ジャンクションの工事現場となる。八条北遺跡はこ こ。大和郡山市に入る。川は西へ南へと流れる(分水嶺の逆)。
◆工事現場を抜けた次の集落は伊豆七条町(写真)。これも環濠集落だったんですね。ガイドマップをみると、いくつも環濠の表示がある。
◆さらに行くと、西側にいい集落が見えてくる。地図を見ると番条町という。川に沿って集落があり、北の森は神社だろう(熊野神社)。

2014年7月6日(土)下ツ道を行く(5)

◆二階堂駅を過ぎたところで茶店があり入る。八木からここまでほぼ店なし(飲み食いするなら田原本だ が、結局、歩いた範囲ではなかったような・・・)。ここまでで12時過ぎ。八木の交流館を出たのが9:40くらいで、約2時間。店に入ったのは、12:30くらいだったのだろう。2時間歩くと、体が中から熱く、冷房の効いた茶店でアイスコーヒーが必要。
◆下ツ道ガイドマップでは「ぼな~る」という名前で出ていた店で、いまは名前を「赤いそら豆」に変えて、喫茶&ギャラリーになっている。店の名前を変えてからだったか、3週年ということで、コーヒー100円とのこと。レ~コ2杯で200円でした。趣味でやっている店で、いろいろ話をする。民話の手作り本を渡される。
◆カミサンいわく、こういうのも年をとる効能だ、と。若い頃は「かまわないで」オーラを出していたと。そうなんでしょうか。

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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