人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
ベルギーの旅(26)
◆ブリュッセル南駅に着き、チェックインし、荷物を置いて
か
ら、王立美術館をめざす。旧市街を 歩いていくことにする。まずは旧市街南門。これは復元したものですが、例の若葉 マークみたいな南端の角のところに、この門は位置する。
◆町を歩きながら、やはり旧市街には手を付けられないので、公共の土地である旧城壁沿いに、近代に幅のある道路が通されている。旧市街の東側の外郭に沿う道路を北上する。雨が降ってくる。王宮は旧市街の東寄りの高台に作られているが、その一角に王立美術館がある。無事、到着。
◆入ってみると、美術館は3つの複合施設になっているらしい。ガイドブックでは、それぞれ地下でつながっているとも。とにかく、古典絵画、近代絵画、だったか、そして現代?、その3つで、それぞれ入館料を取られる。ブリューゲルとルーベンスの絵画のある古典絵画博物館のチケットを買う。その内部の様子です。美術館など、いつ以来なんだろうか。そういや青森県立美術館に何年か前に行った。ひととおり見ましたよ。
◆ミュージアムショップで、主要作品の日本語の解説本を購入。
◆町を歩きながら、やはり旧市街には手を付けられないので、公共の土地である旧城壁沿いに、近代に幅のある道路が通されている。旧市街の東側の外郭に沿う道路を北上する。雨が降ってくる。王宮は旧市街の東寄りの高台に作られているが、その一角に王立美術館がある。無事、到着。
◆入ってみると、美術館は3つの複合施設になっているらしい。ガイドブックでは、それぞれ地下でつながっているとも。とにかく、古典絵画、近代絵画、だったか、そして現代?、その3つで、それぞれ入館料を取られる。ブリューゲルとルーベンスの絵画のある古典絵画博物館のチケットを買う。その内部の様子です。美術館など、いつ以来なんだろうか。そういや青森県立美術館に何年か前に行った。ひととおり見ましたよ。
◆ミュージアムショップで、主要作品の日本語の解説本を購入。
ベルギーの旅(25)
◆5月8日、この日、カミサンは午前のセッションで切り上げることにする。というのも、5月5日月 曜日にブリュッセルの博物館がことごとく閉まっていたの
で、最
終日を早 めに切り上げ、午後、ブリュッセル観光の続きをすることに。
◆11:00過ぎには戻ってきたので、チェックアウトし、旧市街を通って駅に向かう。1日目に少し散策して、こっちは様子がわかっていたので。写真は一番のにぎやかな広場。出店がならび、フルーツや菓子や服やアクセサリーや、いろんなものがならぶ。駅に近いところに大聖堂がある。
◆駅に着き列車に乗り込む。今回、パリ-ブリュッセル、ブリュッセル-オステンドの特急なども、すべてネットで予約した。むろん、オレが取ったわけではありませんが。ネットだと、英語表示があるので、簡単だ、とのこと。
◆11:00過ぎには戻ってきたので、チェックアウトし、旧市街を通って駅に向かう。1日目に少し散策して、こっちは様子がわかっていたので。写真は一番のにぎやかな広場。出店がならび、フルーツや菓子や服やアクセサリーや、いろんなものがならぶ。駅に近いところに大聖堂がある。
◆駅に着き列車に乗り込む。今回、パリ-ブリュッセル、ブリュッセル-オステンドの特急なども、すべてネットで予約した。むろん、オレが取ったわけではありませんが。ネットだと、英語表示があるので、簡単だ、とのこと。
ベルギーの旅(24)
◆5月7日。朝食はかなりグッドでした。食べ過ぎ。日なが
原稿を書いている。一度
海へ出る。良くみると、小さい島が遠くに見えるが、イギリスは見えませんでした。空気が澄んでいると見えるのでしょうか。浜辺からテルマエパレスの全景を(写真)。サーフィンをしている人、それから、なんていうんですかパラセーリング?、なにかと(写真)。
◆昨日は、カミサンは集まりの人々で公式の食事があるのでそっちに行き、一人でしたが、この日は、一緒に晩飯を食べに出る。浜辺を港の方に行く(写真)。途中、シーズンしかやってないと思われる博物館があり、閉館しているのですが、その手前の回廊状のところで写真展をやってました(写真)。見てると、いまのオステンドの風景写真もあるのだが、けっこう過去の戦争関係のもの
が
多い。写真に撮りませんでしたが、店の内部で人が殺されている写真もありました。基本的に第1次世界大戦のようです。レオポルドⅡというコンゴを個人的な植民地にしてゴムを作らせた悪いやつがいるのですが(写真銅像)、徹底的にドイツに抗戦したらしく、ベルギーはひどい目にあったらしい。その記憶がかなり強いようである。写真は、鉄条網で遮って兵士が海に入っているので、たぶん捕虜になった者を、風呂代わりに海に入れているのかな、と想像(写真)。
◆結局、旧市街の方まで散策するも、これはと思う店を探
す
うちに時間も経ち、ホテルに帰ってレストランに行くことにする。ワインを頼み、メニューを見てもよくわからんが、前菜の1品とメインは鶏肉にしたのかな。デジカメを見て、店の人が写真を撮りましょうと申し出、撮ってもらいました。珍しいツーショット写真です。
◆昨日は、カミサンは集まりの人々で公式の食事があるのでそっちに行き、一人でしたが、この日は、一緒に晩飯を食べに出る。浜辺を港の方に行く(写真)。途中、シーズンしかやってないと思われる博物館があり、閉館しているのですが、その手前の回廊状のところで写真展をやってました(写真)。見てると、いまのオステンドの風景写真もあるのだが、けっこう過去の戦争関係のもの
◆結局、旧市街の方まで散策するも、これはと思う店を探
ベルギーの旅(23)
◆到着。ベルギー1のリゾート地で、浜辺が続く。途中、カジノもあった。とはいえ、この町がにぎ
やかになるのは夏場なので、いまの季節は、浜辺にならぶホテルや、なんというのかな、シーズン貸しのハイツとでもいうのかな、そういうのも外装などを工事しているところもあるなど、まだおとなしい。夏は写真の浜辺にならぶ海小屋のように、おびただしい水着姿の客であふれかえるのであろう。
◆ホテルの名前はテルマエパレス。ちゃんと調べてないが、1930年代に建てられたもの。スウィートルームに案内されたが、ツインベッドが2セット置いてあった。部屋には設計図が額縁に入れて壁に掛けてあり、パリの設計事務所で設計されたようで、サインを見ると、1934年だか、そんな日付だった。ロビーのところにモノクロ写真が拡大してあって、完成して間がない頃のホテルの様子や海水浴客の様子がわかる。全室海に面して
いる。
◆浜辺では高校生がやってきて、いろんな遊びをやって騒いでいる。カミさんはさっそく会場に出向き、こっちは原稿を書きはじめる。途中、海というかホテルの外へ出る。2030年の姿みたいな地図があり、オステンドの位置を確かめる。画像では見えないと思いますが、木枠に地図を金属板に焼き付けたものが2枚ならんでいる。右側の右寄りがオステンドで、右側の木枠近くがダンケルク、左側のまん中くらいがカレーである。その横の海の中を通る線が、英仏の海底トンネル。2030年というのは、どうも海の利用のことのようで、風力発電を示すんだろうなと思われるものが並んでいたり、人工の島を表現したのかと思われるものがあったり、そんな将来像を示しているらしい。
◆この日の夕焼けです。日が沈むのは22:00くらいだったかな?。
◆ホテルの名前はテルマエパレス。ちゃんと調べてないが、1930年代に建てられたもの。スウィートルームに案内されたが、ツインベッドが2セット置いてあった。部屋には設計図が額縁に入れて壁に掛けてあり、パリの設計事務所で設計されたようで、サインを見ると、1934年だか、そんな日付だった。ロビーのところにモノクロ写真が拡大してあって、完成して間がない頃のホテルの様子や海水浴客の様子がわかる。全室海に面して
◆浜辺では高校生がやってきて、いろんな遊びをやって騒いでいる。カミさんはさっそく会場に出向き、こっちは原稿を書きはじめる。途中、海というかホテルの外へ出る。2030年の姿みたいな地図があり、オステンドの位置を確かめる。画像では見えないと思いますが、木枠に地図を金属板に焼き付けたものが2枚ならんでいる。右側の右寄りがオステンドで、右側の木枠近くがダンケルク、左側のまん中くらいがカレーである。その横の海の中を通る線が、英仏の海底トンネル。2030年というのは、どうも海の利用のことのようで、風力発電を示すんだろうなと思われるものが並んでいたり、人工の島を表現したのかと思われるものがあったり、そんな将来像を示しているらしい。
◆この日の夕焼けです。日が沈むのは22:00くらいだったかな?。
ベルギーの旅(22)
◆5月6日、オステンドへ向かう。ブリュッセルから西へ。
8:05発の特急。途中、ゲ
ントとブルー ジュに停車。窓の外の風景を楽しむ。畑地の間に道があり、木がならぶ。 思い出したのは、ネロがパトラッシュに引かせて牛乳の缶を運んでいる映像。こういう道だった。
◆オステンド着は何時くらいだったろう。1時間半くらいだったか。いま駅舎は改装中だった。港町でヨットがならんでいる。少し雨がぱらついていたんですね。トラムも走っているが、研究集会の会場のホテルまで歩けない距離ではないので、町の散策を兼ねて歩いてゆく。とはいえ、地図をみながら最短距離を行ったので、旧市街の中心部には入らず、町歩きとはいかない。荷物もあるし、
早くほっこりしたいものである。
◆オステンド着は何時くらいだったろう。1時間半くらいだったか。いま駅舎は改装中だった。港町でヨットがならんでいる。少し雨がぱらついていたんですね。トラムも走っているが、研究集会の会場のホテルまで歩けない距離ではないので、町の散策を兼ねて歩いてゆく。とはいえ、地図をみながら最短距離を行ったので、旧市街の中心部には入らず、町歩きとはいかない。荷物もあるし、
たま3の朝顔
◆金曜日を埴輪の整理日している。この2週、和泉の講演で自分は参加できなかったが、30日は1日
やった。その前までに比べ、この日はけっこう次々に接合し、終了間際に画期的なホームラン。受け口部分の接合をやっていたのだが、一方で壺部の接合も進んでいたが、両者が合体した。玉3の埴輪が最古の朝顔の形態を取ることは従来から知られてはいたが、これで具体の個体で、その姿を捉えることができた。巴の透孔はかなり間隔が狭く、おそらく6方向くらいになるだろう。円筒部の下、いちばん上のタガまでが来るといいのですが。破片を見ていると、可能性はあると思う。母埴輪整理を再開したが、おそらく週1で、もう2ヶ月くらいやったら、もう限界かなとも。破面の比較的フレッシュな破片が残ってはいるので、まだ着くとは思うが、ほとんど風化した小破片が多いので、どこまで接合するかと思うと、もうあまり先はないようにも思う。
西美濃の旅(2)
◆大垣市の歴史民俗資料館のあと、昼飯を食べ、養老町に向かう。図書館2階の資料館を開けてもらうも、たいした展示はなかった。そのあと象鼻山へ。本日2ヶ目の前方後方墳。登り口から10分ほど山登りをする。院生が報告書を借りてきて持参していた。久しぶりの象鼻山だった。その後も確認調査が続けられ、山頂部はきれいな古墳公園になっている。とくに1号墳の東北側の樹木は伐採され、平野部が見渡せるようにしてある。が、あの鏡や琴柱形石製品は、どこに行ったら見れるのだろうか。金庫に入っているのかも知れませんね。
◆垂井町へ。まず美濃一宮の南宮大社。この一体は、郡家があった場所らしく、壬申の乱のオオアマの陣だったという。そこからまっすぐ北上すれば美濃国府なのだが、展示施設に向かう。タルイピアセンターとかいう名前だったか。図書館脇の展示施設。いや実にちゃんとした施設で、企画展も繰り返し、冊子が蓄積されている。企画展は垂井駅をやってました。図録を2冊購入。そして国府跡へ。御旅神社という名前だが元は総社。そこが国衙正庁である。発掘調査をしている時、一度、見せてもらったことがある。
◆次は不破関資料館(100円)。関ヶ原町の歴史民俗資料館に行ってもいいのだが、先を急ぐ。不破関って、あんなんなんですね。それと名神を越えた北の丘陵上に築地塀跡の高まりが残っているようだ。野磨駅家みたいですね。そこから旧道に出て、そこいらを散策。正庁地点に行くが、畑地。岐阜県が確認調査を実施し、だいたいの範囲は確認したと。普通なら国史跡というところだが、家が貼り付いており、同意が難しかったのかも知れませんね。未確認ですが。
◆ラスト、だいぶ飛びますが、神郷亀塚に行く。途中8号線は込んでいたが、18:00頃には到着。野球をやっていた少年たちに聞くと、ちゃんと知らなかったけど、1人が道案内の表示がある、あれちゃうか、と教えてくれる。こうして神社裏の畑のなかの亀塚古墳に迷いながらも到着。この日、3つめの前方後方墳でした。
◆このへんが五個荘町だったのですね。八日市インターから名神に乗り、学生らを大阪駅で降ろしたのは19:45頃でした。
[追記]写真がありません。昨日、カメラをもって出たのですが、へんなことになり、家に帰り着くと、立体駐車場の自分のハコのところにころがっていました。よくまあ取られなかったものだ。また、自分の車でカメラを轢かなかったものだ。
◆垂井町へ。まず美濃一宮の南宮大社。この一体は、郡家があった場所らしく、壬申の乱のオオアマの陣だったという。そこからまっすぐ北上すれば美濃国府なのだが、展示施設に向かう。タルイピアセンターとかいう名前だったか。図書館脇の展示施設。いや実にちゃんとした施設で、企画展も繰り返し、冊子が蓄積されている。企画展は垂井駅をやってました。図録を2冊購入。そして国府跡へ。御旅神社という名前だが元は総社。そこが国衙正庁である。発掘調査をしている時、一度、見せてもらったことがある。
◆次は不破関資料館(100円)。関ヶ原町の歴史民俗資料館に行ってもいいのだが、先を急ぐ。不破関って、あんなんなんですね。それと名神を越えた北の丘陵上に築地塀跡の高まりが残っているようだ。野磨駅家みたいですね。そこから旧道に出て、そこいらを散策。正庁地点に行くが、畑地。岐阜県が確認調査を実施し、だいたいの範囲は確認したと。普通なら国史跡というところだが、家が貼り付いており、同意が難しかったのかも知れませんね。未確認ですが。
◆ラスト、だいぶ飛びますが、神郷亀塚に行く。途中8号線は込んでいたが、18:00頃には到着。野球をやっていた少年たちに聞くと、ちゃんと知らなかったけど、1人が道案内の表示がある、あれちゃうか、と教えてくれる。こうして神社裏の畑のなかの亀塚古墳に迷いながらも到着。この日、3つめの前方後方墳でした。
◆このへんが五個荘町だったのですね。八日市インターから名神に乗り、学生らを大阪駅で降ろしたのは19:45頃でした。
[追記]写真がありません。昨日、カメラをもって出たのですが、へんなことになり、家に帰り着くと、立体駐車場の自分のハコのところにころがっていました。よくまあ取られなかったものだ。また、自分の車でカメラを轢かなかったものだ。
西美濃の旅(1)
◆天王寺8:30。名神で大垣まで。大垣までの枝線の高速道路がのび、大垣西まで行く。うろうろしながら東山道(中山道)をめざす。入った道が赤坂宿で交差する南北道だったらしく、○○家のごっつい建物の交差点に出る。ちょこっと車を止めさせてもらい、赤坂宿を楽しむ。和菓子屋に寄り、お菓子を4ヶ購入。戻り気味に金山彦神社に寄る。
◆矢道長塚。看板が小さいのひとつでやや寂しい。麦がたわわに実り、一方で田植えのまっさかり。先週くらいから始まったのだろうが、今日明日でほぼ完了というところ。高塚の跡地の標柱も見た。
◆昼飯大塚。例のバーチャルのやつ、どこに行ったら借りられるのですかね。草刈りをしてはりました。墳丘は、おそらく痛んでいるところに土を入れて整形するので大事業だったのでしょう。下段が埋まっている3段築成墳の表示モデルになろう。後円部墳頂はややさびしい。説明板はあるのだが、なんらかの遺構表示がやはりほしい。そこから再度、粉糠山。今回はぐるりと一周めぐる。
◆東山道に出て(ほんとは街道をもうすこし味わいたい)、資料館へ(100円)。そこでいろいろと、パンフを仕入れる。ここは古墳屋としては遊塚の資料がひととおり見れる。2階に昼飯大塚の遺物がすこし展示してある。ここはもとは国分寺の資料館で、半分は民俗資料。がややくたびれている。本当は、たぶん昼飯大塚の整備とともに、この間の古墳や集落遺跡の調査資料を展示する施設が欲しいところ。大垣市内には城があり、赤坂宿もなにか資料館がほしいところだがなく、考古資料は、現実論としては、歴史民俗資料館を建物からリニューアルすることだろうが、なかなかいっぺんにはいかないんでしょうね。それと、ひとつの史跡整備に、あんまり金をかけすぎないことも重要なように思う。手頃なところでの持続が大事かも。
[記事を改めます]
◆矢道長塚。看板が小さいのひとつでやや寂しい。麦がたわわに実り、一方で田植えのまっさかり。先週くらいから始まったのだろうが、今日明日でほぼ完了というところ。高塚の跡地の標柱も見た。
◆昼飯大塚。例のバーチャルのやつ、どこに行ったら借りられるのですかね。草刈りをしてはりました。墳丘は、おそらく痛んでいるところに土を入れて整形するので大事業だったのでしょう。下段が埋まっている3段築成墳の表示モデルになろう。後円部墳頂はややさびしい。説明板はあるのだが、なんらかの遺構表示がやはりほしい。そこから再度、粉糠山。今回はぐるりと一周めぐる。
◆東山道に出て(ほんとは街道をもうすこし味わいたい)、資料館へ(100円)。そこでいろいろと、パンフを仕入れる。ここは古墳屋としては遊塚の資料がひととおり見れる。2階に昼飯大塚の遺物がすこし展示してある。ここはもとは国分寺の資料館で、半分は民俗資料。がややくたびれている。本当は、たぶん昼飯大塚の整備とともに、この間の古墳や集落遺跡の調査資料を展示する施設が欲しいところ。大垣市内には城があり、赤坂宿もなにか資料館がほしいところだがなく、考古資料は、現実論としては、歴史民俗資料館を建物からリニューアルすることだろうが、なかなかいっぺんにはいかないんでしょうね。それと、ひとつの史跡整備に、あんまり金をかけすぎないことも重要なように思う。手頃なところでの持続が大事かも。
[記事を改めます]
足利健亮先生の論文に学ぶ
◆自分の論文をブラッシュアップするのに疲れ、ハクガクレンケイの会議もあって、パラパラといくつかの本をめくっていて、足利先生の河内の古道の論文を見る。面白い!。とくに長尾街道と竹ノ内街道の間の条里地割が南北に長いこと、現存条里に隠れながら先行する大枠の地割や条里が指摘されていること、にびっくり。あとは上町台地から斜めに丹比に向かう道の指摘など。
◆とくに先行地割は、長原遺跡で現存条里と40数mずれていることが発掘で確実に確かめられ、いわゆるシワツ道の問題とともに、河内では、もしかして106m地割があったことを思わせる。足利先生は、長原遺跡の調査のことを晩年には知っていたと思うが、河内について再検討しているのかどうかは定かでない。が、この論文と長原遺跡のことを結びつければ、河内の初期の地割が説明できるのではないかと思う。
◆それにしても、足利先生の論文の書きようが、正直ベースでとても好感を覚え、むろん説得的であるのだ。大学1年前期と、2年の実習でしか接点がなかったが、なつかしく思い出す。
◆とくに先行地割は、長原遺跡で現存条里と40数mずれていることが発掘で確実に確かめられ、いわゆるシワツ道の問題とともに、河内では、もしかして106m地割があったことを思わせる。足利先生は、長原遺跡の調査のことを晩年には知っていたと思うが、河内について再検討しているのかどうかは定かでない。が、この論文と長原遺跡のことを結びつければ、河内の初期の地割が説明できるのではないかと思う。
◆それにしても、足利先生の論文の書きようが、正直ベースでとても好感を覚え、むろん説得的であるのだ。大学1年前期と、2年の実習でしか接点がなかったが、なつかしく思い出す。
箸墓の写真
◆毎日新聞に載っていたと知らされる。調べると、サンケイが写真を公表しているのを見ることができた。優美だ。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。