人を幸せにする人になろう
- 日々の雑多な感想や記録を書き留めていくことにします―2008年6月~―
西宮古墳
◆行ったことがない。お恥ずかしい。烏土塚古墳くらいで、三里にも行ったことがないのです。で、河上さんは山
背大兄皇子と主張。そこを読むともっともですね。
◆たぶん確認調査はそのあと。白石さんは、須恵器が飛鳥Ⅱだから、あわないと。白石さんは岩屋山亜式にしているが、年代の資料が乏しい中で貴重な須恵器で、年代観が正しかったとする。
◆だが、と思ってしまう。須恵器のつまみは乳頭状で、宝珠ではない・・・。須恵器のことは知らんが、こういうやつ幡枝で出ていた。高杯だって短脚といえるのだろうか・・・。飛鳥Ⅰは山田寺下層まで下るにしても、この土器を660年代に置けるのだろうか。佐藤さんはどう見るのだろう。
◆それと気になるのが、河上さんの山背大兄皇子説は、いろいろ平群谷のことを踏まえた上で論じられている。山背については、オレは推古朝末期から舒明朝まで大兄であったとみているが、ちゃんと墓が造られてあり、謀殺されたに等しくとも、埋葬されたであろう。『延喜式』の記載はまあ尊重すべきで、平群郡に求めるべきであり、そうしたことは無視できないだろう。
◆河上さんの言ってることの方が妥当だと感じる。写真は、平群町のHPから。
◆たぶん確認調査はそのあと。白石さんは、須恵器が飛鳥Ⅱだから、あわないと。白石さんは岩屋山亜式にしているが、年代の資料が乏しい中で貴重な須恵器で、年代観が正しかったとする。
◆だが、と思ってしまう。須恵器のつまみは乳頭状で、宝珠ではない・・・。須恵器のことは知らんが、こういうやつ幡枝で出ていた。高杯だって短脚といえるのだろうか・・・。飛鳥Ⅰは山田寺下層まで下るにしても、この土器を660年代に置けるのだろうか。佐藤さんはどう見るのだろう。
◆それと気になるのが、河上さんの山背大兄皇子説は、いろいろ平群谷のことを踏まえた上で論じられている。山背については、オレは推古朝末期から舒明朝まで大兄であったとみているが、ちゃんと墓が造られてあり、謀殺されたに等しくとも、埋葬されたであろう。『延喜式』の記載はまあ尊重すべきで、平群郡に求めるべきであり、そうしたことは無視できないだろう。
◆河上さんの言ってることの方が妥当だと感じる。写真は、平群町のHPから。
河上さんの本
◆河上さんの『後・終末期古墳の研究』をようやく入手。お恥ずかしい。牧野のことも、報告書の転載部分だけで
なく、最後に書いてましたね。
◆それだけでなく、河内大塚山が未完成だ、というのを1995年にちゃんと言っている(1993年の季刊考古学の方が古いが)。この部分をどう書いているかが、もともとの出発点。
◆五条野丸山についての部分を読む。なんで未完成と見るかという論理。後円部の最上部の円丘に対する前方部上段がない。北を閉じた痕跡がない。前方後円墳とすると石室が直交せず南面するのはおかしい(石室は時期が下がる)、墳丘および石室との関係からはこの3点。あとは、石室は6末くらいだし、南面させるのも理解できる、だから前方後円墳の墳丘とは時期はあわない。だから、生前造墓で墳丘をつくり、死没後にいちおうそれを利用しながらも、巨大円墳として丸山古墳を造った、というもの。
◆しかしこれは白石さんが、丸山の石室は下段上面を基礎として、中段に埋め込んでいるとというので、河上さんの想定とは齟齬することなる。前方後円形の中段内に石室があるのであって、3段目の円丘にともなうのではない(もっとも、その墳丘を掘り込んで石室を構築した、という理屈はまだ成り立つが)。
◆大塚山のことは今回できるかぎりのことをやったので、いずれは丸山もとは思うが、このへんで。
◆それだけでなく、河内大塚山が未完成だ、というのを1995年にちゃんと言っている(1993年の季刊考古学の方が古いが)。この部分をどう書いているかが、もともとの出発点。
◆五条野丸山についての部分を読む。なんで未完成と見るかという論理。後円部の最上部の円丘に対する前方部上段がない。北を閉じた痕跡がない。前方後円墳とすると石室が直交せず南面するのはおかしい(石室は時期が下がる)、墳丘および石室との関係からはこの3点。あとは、石室は6末くらいだし、南面させるのも理解できる、だから前方後円墳の墳丘とは時期はあわない。だから、生前造墓で墳丘をつくり、死没後にいちおうそれを利用しながらも、巨大円墳として丸山古墳を造った、というもの。
◆しかしこれは白石さんが、丸山の石室は下段上面を基礎として、中段に埋め込んでいるとというので、河上さんの想定とは齟齬することなる。前方後円形の中段内に石室があるのであって、3段目の円丘にともなうのではない(もっとも、その墳丘を掘り込んで石室を構築した、という理屈はまだ成り立つが)。
◆大塚山のことは今回できるかぎりのことをやったので、いずれは丸山もとは思うが、このへんで。
石部さんの『古代を考える 河内飛鳥』
◆石部さんは、河内大塚山古墳を欽明陵と考えていて、1986年の歴史読本らしいが未入手。1989年の『古代を考える』を見ている。太子西山や鳥屋ミサンザイを、石姫墓、宣化陵とみることにも疑いをもつ。一須賀や新沢千塚と一体で考えるべきと言うのは理解できる。あんまり信じてかからん方がよいか。
◆本題の大塚山古墳だが、まあ古市のモガリ記事がたぶん根拠なんでしょう。で、大塚山を安閑宣化では古いとみるから、結論がそうなる。西田さんの書いたものでは、敏達陵とする見解が紹介されているのだが、あたってみたがわからない、そんなこと、書いていないと思うのだが・・・。で、増田さんの安閑陵説。これ読まなきゃナランのだが、見ていない。『古代学研究』がないもんで・・・。コピーを請求したので、いずれは見るが、論理はわからんが、大塚山が今城塚(継体)と丸山(欽明)の間だから安閑、というのであろうし、わかりやすい。論理的帰結として卓見だろう。
◆本題の大塚山古墳だが、まあ古市のモガリ記事がたぶん根拠なんでしょう。で、大塚山を安閑宣化では古いとみるから、結論がそうなる。西田さんの書いたものでは、敏達陵とする見解が紹介されているのだが、あたってみたがわからない、そんなこと、書いていないと思うのだが・・・。で、増田さんの安閑陵説。これ読まなきゃナランのだが、見ていない。『古代学研究』がないもんで・・・。コピーを請求したので、いずれは見るが、論理はわからんが、大塚山が今城塚(継体)と丸山(欽明)の間だから安閑、というのであろうし、わかりやすい。論理的帰結として卓見だろう。
もひとつ志都美
◆前の記事にはウソがあり、狐井城山のことを書いたのは、図を作っていてのヒラメキ。
◆もひとつ、志都美のことを書く。前にカミさんと1日切符で近畿をぐるっとまわった時に、ちらっと仄めかしたのだが、前から調べてみたいと思っていることがある。その時、電車に乗っていて、志都美の駅に着いたとき、はっと、縮見ちゃうんか、と思ったのである。地名辞典でこのシヅミなる地名がいつまでさかのぼるのか調べたが、ぱっとしなかった。むろん、播磨の明石郡と出てくるので、疑いようがないのだが。父親のイチノベが殺害されて、葛城に守られるということはありうるだろうし、顕宗陵や武烈陵がここに作られるのも、理由があるんでは、と思ったのだ。どうでしょう。誰か調べてくれんかな。
◆もひとつ、志都美のことを書く。前にカミさんと1日切符で近畿をぐるっとまわった時に、ちらっと仄めかしたのだが、前から調べてみたいと思っていることがある。その時、電車に乗っていて、志都美の駅に着いたとき、はっと、縮見ちゃうんか、と思ったのである。地名辞典でこのシヅミなる地名がいつまでさかのぼるのか調べたが、ぱっとしなかった。むろん、播磨の明石郡と出てくるので、疑いようがないのだが。父親のイチノベが殺害されて、葛城に守られるということはありうるだろうし、顕宗陵や武烈陵がここに作られるのも、理由があるんでは、と思ったのだ。どうでしょう。誰か調べてくれんかな。
狐井城山古墳
◆3連休最後、快晴、行楽日和。カミさんは、相模原の出張から帰り、今度は洞爺湖に行き不在。ずうっと出
張である。昨日は早く帰り晩ご飯を作る。デキアイのもの、プラス炒め物、なんでもいい、飯を食わすことが大事なんでしょう。
◆この2日でヒストリアの原稿はほぼできた。が、なにかと新しい材料が出てきて、今日、仕上げようと大学に来たが、USBメモリを忘れて愕然。完了させて気持ちよくなることができなくなった。で、切り替えたはいいが、なにかと気になり、北葛城の図を作る(右)。
◆この地域、家からも近いし、子供は香芝に通っているし、河合大塚山古墳群をはじめ、ちゃんと考えなければならない。敏達以来、この王家がこの地域に地盤を形成するのかと漠然と考えているが、その前は、葛城葦田すくね系がいたんですかね。飯豊さんも重要だし。
◆で、前に関本さんが大学院にいるとき、葛城地域を南から北までめぐったことがあるが、狐井城山古墳は面白うそうだ、と思ったことを思い出す。たぶん、ぱっと見ると後期古墳、で140mはデカイ、というのが面白うそうと考えた理由。現場は、進入しがたいようなブッシュで鬱蒼としていた記憶がある。『奈良県前方後円墳集成』をいま見ると、周辺で長持形石棺材が見つかっており、くびれぶで子持ち勾玉、埴輪は径40センチくらいの大型品で、中期後半から後期初頭にしてある。この古墳、重要ですよ!
◆この2日でヒストリアの原稿はほぼできた。が、なにかと新しい材料が出てきて、今日、仕上げようと大学に来たが、USBメモリを忘れて愕然。完了させて気持ちよくなることができなくなった。で、切り替えたはいいが、なにかと気になり、北葛城の図を作る(右)。
◆この地域、家からも近いし、子供は香芝に通っているし、河合大塚山古墳群をはじめ、ちゃんと考えなければならない。敏達以来、この王家がこの地域に地盤を形成するのかと漠然と考えているが、その前は、葛城葦田すくね系がいたんですかね。飯豊さんも重要だし。
◆で、前に関本さんが大学院にいるとき、葛城地域を南から北までめぐったことがあるが、狐井城山古墳は面白うそうだ、と思ったことを思い出す。たぶん、ぱっと見ると後期古墳、で140mはデカイ、というのが面白うそうと考えた理由。現場は、進入しがたいようなブッシュで鬱蒼としていた記憶がある。『奈良県前方後円墳集成』をいま見ると、周辺で長持形石棺材が見つかっており、くびれぶで子持ち勾玉、埴輪は径40センチくらいの大型品で、中期後半から後期初頭にしてある。この古墳、重要ですよ!
古代の婚姻関係
◆学生の卒業論文の関係で、婚姻史を考えている。例えば8世紀、いったい、ふつうはどうなんよ。義江さんや関口さんの書いたものを一緒に勉強する。
◆義江・関口でも細部は一致しないが、たいがい、妻方居住のようらしい。長男とか嫡男の場合は、本拠地を離れることができないので、夫方となるが、少数派らしい。それは、一人っ子もあろうが、2人、3人、もっと、とキョウダイがふつうは複数、それも2人でとどまらないなかで、長男のみの事例であるので、そうなる。もっとも、こういうのがベースだが、義江は実情はもっとさまざま、とみる。つまり婚姻後の居住についての規範的な習俗は未成立だという。この時代、戸籍というのができたので、婚姻関係について公式に登録がなされる。だが実態は、男女どちらでもあるツマドイに始まる事実婚で、それこそ情愛のある間は続き、なくなれば解消するような流動性をもつものだったと考えられている。離婚の規定もあるが、それは夫婦が一緒に住まなくなって3年経てば、とかそういったもの。
◆家と家のといった関係はなく、当事者の関係性の問題であるという。妻方居住の場合、妻の父母との同居もあるようだが、夫方の場合、夫の父母との同居は絶無という。
◆まあ、本人同士の情愛を基本とする事実婚で、むろん、どっちかが生まれた村を離れ、相手方のところへ行かねばならないというのはあるが、新居というのが多いようであり、結婚したら家を出てツレアイとの新居を構えるというのは、実に自然で、よくできた婚姻関係ではないか。
◆むしろ、階層上位の貴族層は、オクサンは複数いるかもしれないが、遠隔地婚となり、通いであって、夫婦同居ではないらしい。聖武天皇は、平城宮を抜けて、光明の家に通ったんですかね。あるいは国司となって赴任するとき、平安時代の受領はオクサンを連れて行くが、奈良時代は、ヤカモチの歌からすると単身赴任か、といった話も出る。このへんは、たぶん研究があるんでしょうね。
◆まあ、なにがほんとうか、なかなかわからん。基本は通いであって別居!、との見方もあるようだ。それこそ出自集団の枠を出れないのか・・・。だけど、結婚って、やっぱり一緒に住むのが基本だろうに。
◆さて、こういうのが8世紀くらいだとして、それは6世紀も、5世紀も、あんまり変わらないように思うが。だが、考古資料で婚姻の話は困難。いまやられているのは、墓に一緒に入る関係だが、婚姻とか同居と無関係ではないが、どうからめられるのであろうか。さてどうしたものか。
◆義江・関口でも細部は一致しないが、たいがい、妻方居住のようらしい。長男とか嫡男の場合は、本拠地を離れることができないので、夫方となるが、少数派らしい。それは、一人っ子もあろうが、2人、3人、もっと、とキョウダイがふつうは複数、それも2人でとどまらないなかで、長男のみの事例であるので、そうなる。もっとも、こういうのがベースだが、義江は実情はもっとさまざま、とみる。つまり婚姻後の居住についての規範的な習俗は未成立だという。この時代、戸籍というのができたので、婚姻関係について公式に登録がなされる。だが実態は、男女どちらでもあるツマドイに始まる事実婚で、それこそ情愛のある間は続き、なくなれば解消するような流動性をもつものだったと考えられている。離婚の規定もあるが、それは夫婦が一緒に住まなくなって3年経てば、とかそういったもの。
◆家と家のといった関係はなく、当事者の関係性の問題であるという。妻方居住の場合、妻の父母との同居もあるようだが、夫方の場合、夫の父母との同居は絶無という。
◆まあ、本人同士の情愛を基本とする事実婚で、むろん、どっちかが生まれた村を離れ、相手方のところへ行かねばならないというのはあるが、新居というのが多いようであり、結婚したら家を出てツレアイとの新居を構えるというのは、実に自然で、よくできた婚姻関係ではないか。
◆むしろ、階層上位の貴族層は、オクサンは複数いるかもしれないが、遠隔地婚となり、通いであって、夫婦同居ではないらしい。聖武天皇は、平城宮を抜けて、光明の家に通ったんですかね。あるいは国司となって赴任するとき、平安時代の受領はオクサンを連れて行くが、奈良時代は、ヤカモチの歌からすると単身赴任か、といった話も出る。このへんは、たぶん研究があるんでしょうね。
◆まあ、なにがほんとうか、なかなかわからん。基本は通いであって別居!、との見方もあるようだ。それこそ出自集団の枠を出れないのか・・・。だけど、結婚って、やっぱり一緒に住むのが基本だろうに。
◆さて、こういうのが8世紀くらいだとして、それは6世紀も、5世紀も、あんまり変わらないように思うが。だが、考古資料で婚姻の話は困難。いまやられているのは、墓に一緒に入る関係だが、婚姻とか同居と無関係ではないが、どうからめられるのであろうか。さてどうしたものか。
もとい、大塚山横のサイゼリヤ
◆で、本日、22時に大学を出て、それから車での帰り道にあたる大塚山古墳のところにあるサイゼリヤで2時まで原稿を書いていた。それなりには進んだ。大塚山古墳の原稿、けっこう、ここで夜書いた。だから、どおってことはないのだが、なんとなくモチベーションはいい。夜の暗い中ではあるが、むこうに大塚山の墳丘が横たわり、水濠があると、サイゼリヤの駐車場からそれが見えるわけ。そっち側に窓はないので、店の中から大塚山古墳を見ながら書くことはできないが、ココでやってる、という気分は悪くない。
◆後円部に侵入して、ごぼ石のある地点の上段斜面を掘れば、きっと横穴式石室が出てくるに違いないが、まあ、そんなことはしませんので、ご心配なく。ほんとに品行方正、陵墓にみだりに立ち入るようなことはしていない。
◆後円部に侵入して、ごぼ石のある地点の上段斜面を掘れば、きっと横穴式石室が出てくるに違いないが、まあ、そんなことはしませんので、ご心配なく。ほんとに品行方正、陵墓にみだりに立ち入るようなことはしていない。
こんどは六甲
◆石切と言えば、大阪城の研究発表の本題である石切丁場の件で、兵庫県が実施した分布調査報告書をちゃ
んと初めて見た。なんか報告書そのものが、原因者負担の立派
な体裁の報告書と違い、補助事業で印刷経費が十分でないのか、紙や印刷がチャチイのだが、ま、中身とは関係ない。中身はある。やったこともわか る。ああいうことに県の事業として取り組み、報告書にまとめた意義は大きい。またまた本としての話をすれば、依頼原稿を集めたもので、なんというか全体像 の理解を助ける工夫はほしいが・・・。
◆もうやめよう。仕事は大変であるということは良く理解できる。山の中、山登り、石を確認、寸法を測り、調書を取り、地道に膨大な数をこなして積み上げていく、そこに頭が下がる。逆に言えば、それだけ組織的に取り組まないとできない仕事ともいえる。
◆森岡さんに『歴史と神戸』を送っていただく。そのなかで、築城史研究会の大家、藤井重夫さんの資料を芦屋市が寄贈を受け、整理した話を書いてある。大阪城の石垣関係の図面、ぜひ見たいものである。これはこれで、愛好家集団を組織して取り組んだもので純然たる個人でないとはいえ、しかし個人が一生をかけた仕事であることは間違いない。すごい人が世の中にはいる。
◆もうやめよう。仕事は大変であるということは良く理解できる。山の中、山登り、石を確認、寸法を測り、調書を取り、地道に膨大な数をこなして積み上げていく、そこに頭が下がる。逆に言えば、それだけ組織的に取り組まないとできない仕事ともいえる。
◆森岡さんに『歴史と神戸』を送っていただく。そのなかで、築城史研究会の大家、藤井重夫さんの資料を芦屋市が寄贈を受け、整理した話を書いてある。大阪城の石垣関係の図面、ぜひ見たいものである。これはこれで、愛好家集団を組織して取り組んだもので純然たる個人でないとはいえ、しかし個人が一生をかけた仕事であることは間違いない。すごい人が世の中にはいる。
竜山石
◆大阪城の準備は半分は終了、USBメモリも戻り、ええかげんヒストリアの原稿を出さないとヤバイので、完
成にむけてダッシュをかける。宮内庁から河内大塚山の最新の図面も届いた。既に等高線のトレースは終えている。分量が多くなってるので、全体に絞ることと、最後の倭国王墓・大后墓の評価のところがまだできていないので、それを書き込まなければならない。この部分、お茶を濁すか、徹底してやるか。祝日が2回あるから、なんとかなるか。
◆表題とはぜんぜん関係ない話をしている。こないだ、東大塚村の地蔵堂に行って、石棺材かもしれないという百度石を見たが、ぱっと見で、竜山石でも青く、ちょっとちゃうな、という印象。竜山石にも、黄色・赤色・青色があるのだが、だいたい古墳時代の石棺は黄色です。なんで色が違うか、こないだ加古川東高校で話を聞いたようにも思うが、忘れた。
◆実は母方の祖父は、竜山石の石切職人であった。婿養子らしく、もともと実家の方は竜山に近いところなので、家業だったのだろうか。いま親の取材をすこし帰るたびにやっているが、いまいちそのへんは不明である。まあ、モノゴコロついた時には、体を壊して寝ていたので、石切の姿を見たことはない。まあ、話を聞いていると、ハッパをかけるとまとまって石材ができ、まとまった金が入るんだと。そうすると、遊ぶのだそうである。祖母が泣かされていたそうな。
◆表題とはぜんぜん関係ない話をしている。こないだ、東大塚村の地蔵堂に行って、石棺材かもしれないという百度石を見たが、ぱっと見で、竜山石でも青く、ちょっとちゃうな、という印象。竜山石にも、黄色・赤色・青色があるのだが、だいたい古墳時代の石棺は黄色です。なんで色が違うか、こないだ加古川東高校で話を聞いたようにも思うが、忘れた。
◆実は母方の祖父は、竜山石の石切職人であった。婿養子らしく、もともと実家の方は竜山に近いところなので、家業だったのだろうか。いま親の取材をすこし帰るたびにやっているが、いまいちそのへんは不明である。まあ、モノゴコロついた時には、体を壊して寝ていたので、石切の姿を見たことはない。まあ、話を聞いていると、ハッパをかけるとまとまって石材ができ、まとまった金が入るんだと。そうすると、遊ぶのだそうである。祖母が泣かされていたそうな。
遊んでしまった
◆きしわだ自然資料館って、やっぱり有名な剥製コレクションが寄贈されて作られたらしい。場所はもと銀行だそ
うです。この資料館を調べていて、へんなブログに遭遇、思わず読み込む(日本珍スポット100景―B級スポット観光ガイド―)。で、似顔絵のフリー作成フォームに到達し、作図してしまった。
◆ふざけてもいいが、それなりに選んでいけば近づくのがオモシロイ。メガネはない印象の方が強いかもしれないが、近頃は老眼鏡が離せず、丸メガネ風。ヒゲは遊び。これがないと、なかなかシワで年相応というわけにいかず、若作りになってしまうので。考古学をやっている者らしい?。手はあまり選択肢なく、これが普段の姿ではある。背景も遊び。選択肢のなかにピラミッドや万里の長城もあったが、別に関係ないし。前方後円墳はないので・・・。で、仕上がったのがコレ、いかがでしょうか(笑)。
◆ふざけてもいいが、それなりに選んでいけば近づくのがオモシロイ。メガネはない印象の方が強いかもしれないが、近頃は老眼鏡が離せず、丸メガネ風。ヒゲは遊び。これがないと、なかなかシワで年相応というわけにいかず、若作りになってしまうので。考古学をやっている者らしい?。手はあまり選択肢なく、これが普段の姿ではある。背景も遊び。選択肢のなかにピラミッドや万里の長城もあったが、別に関係ないし。前方後円墳はないので・・・。で、仕上がったのがコレ、いかがでしょうか(笑)。
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プロフィール
HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。