人を幸せにする人になろう

千足の委員会に出る

◆岡山市の草原さんから電話があり、千足の委員を受けることにしたが、7月20日、その第1回目の委員会が5f6135eb.jpgあった。けっこう、おもしろかった。会議が公開でテレビカメラもまわっている。高松塚の委員会の時の、東文研のエライ人(センター長)、文化庁の建石氏など、メンバーに加わっている。間壁さんが委員長になったが、お人柄がとってもよかった。写真上は千足から見た造山、いや~暑い!
◆要するに千足の直弧紋の彫刻のある石障が傷み、下半部が剥離してしまっている。どうしようか、というのが課題。あんまり意気込まず、まただんまりでもなく、冷静に会議に臨めた。
◆高松塚の会議を思い出していた。文化庁の記念物課長や美術工芸課長が臨席し、新聞記者も取り囲む中で、発言するのは勇気がいることだった。もう忘却だが、言うべ28782f56.jpgき時に発言できなかった場面もないではなかったが、毎回、いい緊張感のもと、心して臨み、嫌われるようなことも発言した。ああいう会議の場を経験させてもらってよかった。ちなみに、A新聞社のO記者には、オレのことを鏡をやっている人間で、後期や終末期の古墳の専門家でもなんでもなく役に立たない、人選が悪いといったような記事を書かれた・・・。
◆千足に戻ろう。岡山市に期待したい。掘り屋を脱皮してほしいのだ、緊急調査があるから文化財課があるのではないということを。趣旨からはずれるので発言しなかったが、合併し政令市になった岡山市、自分ところにどんな文化財があり、どんな課題を抱えていて、これから先、バランスを取りながら、どのように整備活用38a5f8ca.jpgしていくのか、マスタープランを書き上げるべきです。こと造山古墳群についても、千足のみならず、考えることはあまたある。いっぺんにはいかないだろうが、千足を足がかりに、これから何をやっていくべきなのか、考えて欲しいものだ。

平石越

65ca5629.JPG◆3連休の3日目の7月19日。くたくたで、頭が痛い。仕事をしたい気はあるが、体調悪く、大学にはいかないことにする。
◆カミさんが、い889247a9.jpgつものように「歩きたい」というので、竹内峠まで行き、ダイヤモンドトレイルを南下する。なにもなければ葛城山まで行くのではあるが、車を置いているし、カミサンは午後に東大阪に行かないといけないので、平石峠についたところで思案し、そのまま奈良側に下り、竹内峠に戻ることにする。頭が痛く、昨日帰ってバタント寝たので、4時に起き、風呂に入り、朝ご飯を食べ、5時に家を出たか。平石越は、軽トラなら車で抜けられ052fd22a.jpga19256b6.jpgるのかもしれないが、山道のまま。ここを大坂側に出れば平石、ツカマリ、アカハゲ、シシヨ塚がならぶ。あれって誰の墓なんでしょうね。塚口先生は大伴って言ってたんだっけか、白石さんは反論していたような。近つ、の図録に書いてあった。
◆平石越えを麓まで抜け、国道脇の旧竹之内街道を峠まで戻り、車に乗り、お茶を飲みに行く。道の駅二上山に着いたのが08:30だった。店は9時からだったが、無理無理入ってアイスコーヒーを入れてもらう。それから竹内集落を歩く。町並み保存はいまいちか。
◆科長神社、小野妹子墓。おゆば藤井寺店に向かうが更地になっていてショック、延羽の湯に行く。800円。昼飯。
◆さてと、今週は、24・25日の歴博の研究会での報告の準備をやらねばならない。しかし、月曜日がなく1日少ない上に、火曜日岡山、金曜日長岡京市の出張が入り、これはピンチだ。

久しぶりの大阪市大前方後円墳研究会

◆3連休2日目の7月18日、摩湯山報告書にむけての久しぶりの研究会。オレが構想を話して打ち合わせ、それと藤原知広氏の墳丘についての研究発表。参加者は多くはなかったが、予定のみなさんは参加してくれ、岸和田市の山岡さんも加わってくれた。8月の予定も決めておかなければならなかったのだが、発表者が立てられないため決めることができていない。また追って、ということになる。
◆山岡さんは和歌山の桃山町(いま紀の川市)出身らしく、今朝もいだ、という最高級の桃を箱でもってきていただく。あら川の桃というのは、東京では1箱8000円の値がつくという。「あら川」というのは「アラカワトベ」から来ているという。アラカワトベの名前は知っているが、何だっけ、崇神紀らしいが・・・。また調べなきゃ。
◆で、杉本町で懇親会。金曜日の文学部の懇親会に始まり三連チャンである

吉野宮滝

◆07月17日、学生らと吉野などに行く。谷瀬の吊り橋に行きたいというもんだから、まず十津川に向かい、そのあ5dcc57dc.JPGe5199097.JPG0a54e697.JPG9914071e.JPGfc558f26.JPGと宮滝に。資料館に行く。よかった。1年前にも行ったが、なんで資料館に行かなかったのだろうか。縄文・弥生、そして7~8世紀の吉野宮の展示はよかった。宮滝の集落域全体が吉野宮なのだ。持統は31回来たという。
◆川へ降りたかったが、橋からのぞき見るだけにした。宮滝のところが渓谷になっていて、白い露岩にきれいな川水、飛び込み禁止とあったが、水遊びに来ている人たちは多く、そのなかの一部が、飛び込んでいた。気持ちよさそうである。ほぼ梅雨明けし、快晴で暑い、水遊びをするにはサイコーである。
◆鮎の塩焼きを食い、そのあと金峯山寺に行き(20年ぶりくらい)、なんとか堂にお参りし(おみくじを引いたら凶)、葛切りを食べる。
◆それから、五條の遺跡を見学するつもりではあったが、もう時間も遅い。予想していたことではあるが。栄山寺に行き、藤原仲麻呂が建てたという八角堂を見て、新町通に。ああゆう古い町並みを学生たちはどう受け止めたであろうか。電柱がなければもっといいのに。
◆でほぼ19時終了、国分に戻り、打ち上げ。

寺山南山のレーダー探査

◆07月14日(水)、大雨、ほんとにこんな日にやってるのかと電話するとやってるらしい。で車で大仙公園南端に0f6ba7d6.JPGむかう。寺山南山がミサンザイの陪塚で、陶質土器だか最古の須恵器なのか、高杯の蓋が採集されていることで有名。
◆でも、この古墳のことはぜんぜんわかっっちゃいなかった。かつて家が建っていて、その時にかなり削平してしまったらしい。なので、いまはヘベチャイ墳丘に成り果てている。だが、堺市の調査で、埴輪列が二辺で確認されている。また周囲の確認調査を重ねており、さらに今回、レーダというわけだ。
◆そもそも、レーダーをかけるので、今回、徹底して草刈りをかけて、はじめて墳丘の高まり全体がよく見えるようになったという。すっかりきれいになった現段階で、再度、例えば十字にきちんとしたトレンチを入れるとか、なお不明な点をポイントでというより、まだ四辺をとらえる基本的な調査が必要なのではないか。ミサンザイ側の辺がほとんどわからないようなことを聞くと、そんな風にも思う。再度、既掘トレンチを点検し、意見を言うなら言わなければならん。

展示ケース

◆1990年代に文学部棟が改修工事された。それ以前に考古資料がどのように保管されていたのかは知らな98198311.JPGい。工事中の移転を経て、改修後、栄原先生ほか、安村さんや積山さんや濱田さんなどが、3階に展示ケースを設置し、その他、箱入りのものは、倉庫や機械室などの空きスペースに積み上げた。2000年に赴任した際、最初の考古学実習では、そうした考古資料を点検するところから始めた。
◆展示ケースは、当時は実習室が3階にあったので、3階の踊り場に置かれていたが、実習室はその後1階に移転したが、その後も展示ケースを動かせずにいた。今期、実習に20数人受講があったので、7月13日の今学期最終週に、3階から2階への移転をやってもらうことにした。
◆よく観察してなかったのは失敗。展示ケースは4区画からなり、四つのケースをつないで置いてあると思いこんでいた。が実際は、組み立て式で、4区画が一体になっていた。デカイ。ガラスをはずし、遺物を取り除いたが、四つ分はまだ重たく、階段を降ろせそうにない。一度、男全員で担いで持ち上げてとやってみたが、重くきしみ、事故が起きそうだったので断念。どうしたものかと思ったが、3回生が分解を始めた。右ウィング徳満、左ウィング野田、この2人が一生懸命、分解してくれた。
◆これでなんとか解体してしまい、小分けにすれば動かせそうな見込みが立つ。途中、ガラスが割れる事故もあったが、さいわいケガはなかっった。なんとかこの日、14:40から始め、21:00までに、歴史学の研究室のならぶ2階踊り場へ再設置し、遺物の配列まで、移転を完了することができた。写真は19時頃か。最後まで作業を続けてくれた実習生たちと記念写真。、

民主党大敗か

◆妹夫婦が来て呑んで、そのあと、選挙速報を見ていたが、アルコールが入ったのでもたず、途中で寝る。5時頃、カミサンに起こされる。ワールドカップ決勝やってるで、と。ちょうど延長後半だった。でそのまま東京の陵墓懇談会へ。懇談会後の飲み会も最後までつき合わされ、最終新幹線、最終御堂筋線、最終大和路線で、なんとか1時に帰り着く。で、選挙の結果はよく知らなかった。もっとも、日曜の23時頃の時点でも、ほぼ最終結果の予測は出ていたのだが、朝、すぐに東京にむかったものだから、新聞やニュースを見ていなかった。
◆民主党大敗、という文字が躍る。確かに改選前の数字に大きく及ばなかった。だが、非改選の議員数を含めて第1党には違いないし、自公で過半数に達しているわけではない。比例区ではいちばん票を集めている。確かに法案を通す上では、個々に反対票が上回ることもあるだろう。しかし大敗なのか。後退したのは確かだろうし、それは鳩山辞任からしてもいたしかたのないことだ。予想された範囲内ではないのか。自民党はそんなに浮かれることではあるまいに。

陵墓懇談会2010

◆07月12日(月)、陵墓懇談会。出るのが遅れて、明治大に12時には着けず、約1時間遅れた。今年度の発掘調査は新木山古墳。そして土師ニサンザイの予備調査をするという。わりあい、平穏なやりとりで終わる。ちょっと突っ込みが甘かったかな。
◆世界遺産条約での国内法等による保護というのは、何法か。推薦した側の文書では、再点検をしなければならないが、「周知の埋蔵文化財包蔵地」として文化財保護法下にあると明記されている。しかし、そういうと、まわりからは、「そうなん?、国有財産法ちゃうの?」という反応。宮内庁側も「そうじゃない」との回答だった。
◆「周知の埋蔵文化財包蔵地」は推薦者側の論理ということか。で、暫定一覧表に掲載することが決定した。これから文化庁は推薦準備に入る。平泉がどうなるか、ということも影響する。書類作成にどのくらいかかるのだろうか。堺市長は2015年をめざすという。そのくらいは時間がかかるということか。推薦者の掲げている物件のなかから、最終的に世界遺産を構成する物件のセレクトを特別委員会は求めている。
◆そして、必要書類の原型は堺市や大阪府が作成するのだろうが、先の国内法等による保護については、結局は、最終的に文化庁がどう書くか、ということか。国有財産法と文化財保護法で二重に守られている、というレトリックを使うのかも知れない。宮内庁の反応からすると、周知の埋蔵文化財包蔵地とすることにも反対するかもしれない。しかし、保護法にしたがった届出(通知?)も1990年代後半から出しているので、宮内庁としても文化財保護法下にないとは言い切れないだろう。世界遺産委員会側も、従前の日本における世界文化遺産の物件が「史跡」であるのに対して、陵墓が「周知の埋蔵文化財包蔵地」で読むことについてはすぐ気付くだろう。しかし一方で国有財産法でも守られていると、合わせるのかもしれない。

屋久島

◆妹から電話がかかってきて話があるという。なんじゃ。で、大阪市内に住む妹夫婦、国分に来て、飲みに行き楽しく話する。「移住する」と。「なんじゃそれ、どこに?」。「屋久島」、「へ~思い切ったことするね~」。去年だったか、両方の親と一緒に行っていたが、既にその後、何度か足を運び、住む場所も見繕っているらしい。ほぼ決意は固まっている模様。

月曜日は陵墓懇談会

◆『ヒストリア』に出した陵墓問題にかかわるエポックなできごとをまとめた年表。不完全。限定公開20周年の本、30周年の資料、手元の範囲で拾ったものだが、よくわからん部分が多い。こりゃまとめるしかないとは思うが、なにぶん、市大には文献が整っていないので、なえる。

1947年5月    図書寮展覧会(第15回)で初めて考古資料が展示される
1949年8月   日本考古学協会 文部省科学研究費による古墳の全国綜合研究調査に陵墓も加えたい旨の願出(許可)→研究特別委員会「上代古墳の総合的研究」(1949年度~1951年度)において一部陵墓の立ち入りを実施
1950年2月   上田宏範「前方後円墳築造の計画性」『古代学研究』第2号
1955年     イタスケ古墳保存運動(1950年百舌鳥大塚山古墳破壊)
1961年3月   末永雅雄『日本の古墳』(朝日新聞社)※陵墓図(墳丘測量図)がはじめて市販の出版物で公表される
1963年2月   上田宏範「前方後円墳における築造企画の展開」『近畿古文化論』
1964年     甘粕健「前方後円墳の研究―その形態と尺度について」『東洋文化研究所紀要』第37冊
1965年4月   森浩一『古墳の発掘』(中公新書)※陵墓治定の不確かなことを明確に示す
1969年     上田宏範『前方後円墳』
1971年9月   石部ほか「「陵墓」に指定された古墳の破壊と整備をめぐる諸問題」『考古学研究』第18巻第2号
※陵墓の不適切な護岸工事や周囲の宅地開発について逐一実情を指摘
1972年3月   高松塚古墳で壁画発見
4月1日 古代天皇陵の学術調査についてのアンケート調査(サンケイ新聞社)
1972年5月2日 日本考古学協会「「陵墓」指定古墳の文化財保護法適用を要望する決議(『会報』№46)
                文化財保存全国協議会
1974年4月21日 考古学研究会「「陵墓」指定古墳問題について(声明)」
1976年5月     「「陵墓」の保護と公開を求める声明」(10団体)
          10日 宮内庁交渉(第1回)
1976年11月   「鏡鑑」展覧会(以後継続、2009年第11回)
1977年1月    今井堯「明治以降陵墓決定の実態と特質」『歴史評論』321号
※明治における陵墓の治定の経過をたどった基礎的検討
1977年4月26日 参議院内閣委員会で「陵墓」に関する質疑(『考古学研究』24-1)
1978年3月13日 宮内庁交渉(第2回)当面の立ち入り調査の要望
1978年11月    『文化財を守るために』19 〈特集 「陵墓」問題〉
1979年2月1日 「古代高塚式陵墓の見学の取扱い方針について」(宮内庁長官決裁)※「堤防その他の外周部」
2月5日 宮内庁交渉(第3回)大阪歴史学会参加
1979年10月   限定公開始まる

1991年      五条野丸山古墳の石室写真が公開される
1990年代後半    宮内庁が文化財保護法に基づく届出
2005年7月8日 宮内庁交渉「陵墓の立ち入りについて(お願い)」を提出
2006年11月   「陵墓の立入りの取り扱い方針について」(宮内庁長官決裁)
※「堤防その他の外周部から墳丘の最下段上面のテラスの巡回路まで」
2008年2月22日 陵墓立ち入りの実現(五社神古墳)

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プロフィール

HN:
雲楽
年齢:
61
性別:
男性
誕生日:
1964/03/22
職業:
大学教員
自己紹介:
兵庫県加古川市生まれ。高校時代に考古学を志す。京都大学に学び、その後、奈良国立文化財研究所勤務。文化庁記念物課を経て、現在、大阪の大学教員やってます。血液型A型。大阪府柏原市在住。

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